第二夜 はしの怪

 男が一人、橋の上を歩いている。足下は覚束無おぼつかなく、一見して酔客よっぱらいと見える。何か声高に歌いながら、えっちらおっちら歩む足がもつれて、頭をしたたか欄干らんかんに打ち付けた。悪態を吐いて立ち上がった男の目に、ぼうっと浮き上がる、白い影がある。


 男はその瞬間、痛みを忘れて、呆けたように口を開けたまま、静止した。


「――や」


 それは、若い女と見えた。仄かな月明かりの中、笠を被り、少し俯きがちに歩く姿は楚々として、嫋やかに美しい。何か、頻りに小さく呟いているようだったが、男の耳にまでは届かない。細いうなじが月に照り映えていた。その白い肌に、幾筋かのほつれた毛がかかっているのまで、男の濁った目は、捉えていた。緩みきった口元に、尾籠げひた笑みが一瞬、過る。それからすぐ姿勢を伸ばし、精一杯の威儀を正し、軽く咳払いした。


 声に気付いたらしい。女は足を止めて、振り返る。


 女の顔を見た男は、先程同様、動きを止めた。だが、一瞬の後には、恐怖に引き攣れた悲鳴が喉の奥から放たれる。


 声が、夜陰を切り裂く。

 

 が、その悲鳴すら、瞬く間に濃い闇の中に融けて消えた。

 橋の袂には、ただ、男が倒れているばかりだった。


  * * *


 男と童女が歩いて行く。

 男は、月白色の小袖を着流し、腰まで届こうかという墨色の総髪を、世人がそうするように髷に結ったりもせず、ただ、風に遊ぶに任せて歩く。月代をしないのを見れば、神官や儒者といった類の者であろう。だが、見事な大小の太刀を佩く男の風貌は、神官や儒者には到底見えぬ。定めし浪士であろう。


 男に少し遅れて、六七歳ほどの童女がとてとてと、その後を追っていた。親子かとは思われ乍ら、二人は些かも似ている所がなかった。ただ、敢えて共通点を上げるとするならば、両人とも、一度とて陽の光を浴びたことなどないのでは、という程に白い肌をしている点であろう。旅の途次と見えて、着物は薄汚れていたが、男の際だって整った顔立ちはどこか気品のようなものを漂わせていた。笠なども被らずに歩いているから、男は大層行き交う人々の目を引いていた。が、当の本人は、意に介せず、淡々と歩を進める。


 冬が終わり、暮れ方でも重たい蓑などを着ずに出歩ける程度になってきたとあって、人々の足取りは軽い。家路へと急ぐ人々の波を掻き分け、男の眼は今日の宿を探している。


「ひおりたまー」

氷織ひおりで良いと言っておろう。それで? 何だ」

 己の名を呼ぶ童女に、男は無表情で返す。

がすきましたー」

「ああ、少し待ちおれ」


 折から三味の音がして、見遣れば渦巻き模様の着物を纏った飴売がいた。一先ず、と買い求めて渡してやると、上機嫌にしゃぶりついた。


 できたばかりと思しきはかから見つけた赤子を気まぐれに拾って、さえと名付け、連れ歩いて早半年。


 拾った時には恐らく、生まれたばかりだったとは思うのだが、見る間に立ち上がり、歩き始め、しゃべり始めた。氷織の気の遠くなる程の長きに亘る生に於いて、これまで子育てをした経験など皆無だ。それでも、冴の成長の速さは尋常では無いらしい。然りとて、早く成長してくれればその分手間もかからない。特に困るようなことでもないと、大して気にしていなかった。


 氷織と冴の横を、深い編笠を被った二人組の男達が、威勢の良い声を上げて駆けていく。どうやら読売らしい。殆どばら撒いているだけでは、という勢いで彼らが売りさばいていく読売の一枚が飛んできて冴の顔面に張り付いた。もがいて取ろうとするのだが、風が強いためになかなか剝がれない。見かねて氷織が剥がしてやる。


「なんて書いてあるですか?」

「この近くの橋で妖が出たという話だの」

「あやかし?」


 冴が見える高さに差し出してやる。

 描かれているのは、笠を被った女の後ろ姿だった。その足下には川が流れ、水面に老婆の顔が映っている。その絵姿に「否哉いやや」と書かれている。そういう妖なのだろう。

 

 深夜、昔からと評判の橋を通りかかった男が、いかにも楚々とした雰囲気の若い女が歩いているのを不審に思って声を掛けたところ、振り返った女の顔というのがなんと、恐ろしく醜い老婆の顔だったのだという。男は衝撃の余り気を失い、近くを通りかかった者に助けられた。


 以来、怖い物見たさか、単純に面白がってなのか、何人かが夜間、その橋へと出かけていったのだそうだが、内の何人かが行方知れずになっているらしい。その妖の仕業に相違ちがいない、などと結ばれている。


 もみくちゃになった読売を無造作に放る。それはふわり風にさらわれたかと思うと、たちまちどこかへ飛んでいってしまった。


「さ。ゆくぞ」


 氷織が促すと、はぁい、と元気に返事をして冴は駆けてきた。

 結局、宿は見つからなかったため、うち捨てられたような堂宇どううを見つけて、腰を落ち着けた。多少埃っぽさはあるが、雨風を凌ぐには十分だ。


 中は空だった。かつては何かの仏像でも安置されていたのかもしれない。壁に寄りかかる氷織の傍らで、横になった冴は小さく丸まっている。唸り声のような風の、壁に吹き付ける音がただ、耳を打った。


 *


 何かの声で、目を覚ましたのは、恐らく、深更の頃だっただろう。

 冴も、氷織の身動みじろぐ気配に目を覚ましたようだった。目元をこすりこすり、「ひおりたま?」と見上げる冴に静かにするよう促す。悲鳴は未だ断続的に続いている。段々、こちらへ近づいている様だった。氷織は外へ出た。見遣れば、男が一人、恐怖を顔面に貼り付け、這々ほうほうの体でこちらへ走ってくる。


如何どうされた」


 人の姿にほっとしたのか、男は倒れ込み乍ら「い、いややが」と口走った。いやや、と繰り返して、暮れ方に見た読売の「否哉」の事と思い至る。


 月明かりの下、はっきりそうとわかるほど青ざめた顔で、男はぶるぶる震えていた。放心したように「連れが」だの、「あんな……」だの、繰り返している。怯える男を冴に見ているよう言い、氷織は男の来た方を川沿いに進んでいった。


 遠目に見える橋の丹塗りの朱が、夜目にも鮮やかだ。一方その下を流れる川はお歯黒を流したように黒い。落ちかかる月光の歪んだ影が水面にゆらゆら浮かんでいる。砂利を踏む音が夜陰に響く。そこへ、その音を呑み込まんばかり、悲鳴の様な風が吹き付ける。肌を舐め往くそれは、慣れぬ者なら思わず怖気おぞけを催すだろう。それ程の、濃い瘴気を孕んでいた。


 これは、


 橋の辺りまで来たところで、その袂に、黒い水溜まりを見つけた。

 

 確認しなくとも、漂う臭気から血だと知れた。其の中に、何かが転がっている。

 無残に食い荒らされたような臓腑の一部と、主を喪った草履。

 

 恐らく、先程の男のだろう。だが、先程まで漂っていた妖の気配は、ここへ来て鳴りをひそめた。軽く鼻を鳴らし、氷織は冴の待つ堂宇へ引き返し始めた。ところが、数十歩も歩かぬうちに、冴が一人で歩いてくるのが見えた。


「冴。あの男は」

「ひおりたまがいかれてから、すぐどこかにいったです」


 あの怯えようでは、幼子と二人きりというのは心許なかったか。或いは、取り乱した己を見られたのを恥じたのやもしれぬし、少しでも早く、ここから離れたかったのやもしれぬ。


「途中、胡乱な者に出くわさなんだか」


 キョトンとした顔で「うろん?」と首を傾げた冴に、「よい」と返し、その小さな体を抱え上げた。


 拾ったばかりの頃、持ちやすいからと帯を持って荷物のように運んでいたら、通りかかった女にしこたま怒られた。以来、教わった通りにしている。無論、歩けるようになってからは、いつもという訳ではないが。今とて、本当はこうする必要など無い。無いのだが。


「……ひおりたま?」


 足を止めた氷織に冴が尋ねる。凪いだ水面に投じた一滴が、微かな波紋を立てるように。かそけき声を聞いたような気がした。


「や。……よや」


 冴を片腕に抱えたまま、氷織は振り返った。

 聞き間違いではない。悲痛にすすり泣くような、聴く者の心中に憐れを催す声。何かを呼ばう声が、確かに、聞こえた。


「や……」


 声は続く。やがて、一人の女が道の向こうから現れた。氷織達の横を俯きがちに通り過ぎて橋の中ごろまで来ると、欄干に手を掛けて、川をのぞき込んだ。

 「なにしているです」そう尋ねた冴の幼な声に、女は、はっきりと音のするほど息を吞み、こちらに首を巡らして、嗚呼、と嬉しげな声を上げた。


……ここに居たのね。探したのよ」


 云う女の、顔――後ろ姿からは到底想像もつかぬ醜い老婆の顔。赤黒く爛れた瘡だらけの皮膚を、月がきらめている。あの読売に描かれた、否哉なる妖の姿、そのものだ。


「いよ……私の子。ここに抱いていた筈なのに、何処に行っていたの」


 子の名なのだろう。いよ、と繰り返し乍ら近寄る女に、冴は小さく息を吞んで氷織の後ろに隠れた。


 腫れて垂れ下がった皮膚で、片目は完全に覆われている。もしかしたら、殆ど見えていないのかもしれない。歩いてはいるが、いかにも危うげな足取りだった。その老いさらばえた姿と、若い声とがなんとも不釣り合いだ。


「何を怖れる」

「だって、なんにんもひとをあやめたわるいあやかしなんでしょう?」

「……読売に載っていたのは、確かにこの者であろうな……」


 云うと、氷織は女の方を向いた。


「これは、お主の子に非ず」

「いいえ、いいえ。その声、確かに私の子……。お願いです。私にはその子しか居ないのです。どうか、おかえしください」


 女は、「さあ、母様とおいで」と、冴の腕を掴んできた。


「――あなたなんて知らない!」


 幼い拒絶の声に、女は雷に打たれたように身を震わせて崩れ落ちた。


「……お前も……あの大火で、こんな顔になった母さまを厭うのね」


 あの大火。女がそう云うのは、睦月にあった振袖火事のことだろう。

 家は焼け落ち、命こそは助かったものの、顔や体に大火傷を負った妻の顔を夫はおそれ、厭うた。手当されることもなく、娘のいよ共々そのまま放り出された女は、幾日も当て所なく放浪した。

 そして、この橋の袂までやって来て、ついに気を失った。そして、目覚めた時には、腕に抱えていた筈のいよは、どこにも居なかった。

 以来、昼は己の傷つき醜くなった顔を恥じて身を隠し、夜な夜な娘を探し歩いた。


――そう、女は語った。


 言われれば、老婆の様に見えたのは、酷い火傷で肌が腫れて垂れ下がった為とわかる。「いよや」と呼ばう声が、「否哉」に聞こえたのだろう。


 真相を知って、女の境遇に同情したか、もの言いたげな顔で冴は氷織を見上げた。が、氷織の返答は素気すげない。


「残念だが、人違いであろう。他を探すが良い」


 無表情で追い打ちを掛けた氷織に、却って冴は微妙な表情をした。


「この人があやかしでないなら、いなくなった人がいるのはなぜでしか」


 少し沈黙した後、それは、と口を開いた氷織は冴の後ろへ目をやった。


の仕業であろ」


 振り向けば、橋の上に、小袖をかずいた別の女の姿があった。妖しく微笑み乍ら、こちらへ歩み寄って来る。


「やれ、嬉しや。今宵は大漁じゃ」


 一歩近づく度、女は見る見る姿を変えていく。身の丈は九尺近くに伸び、肌は緑青に染まる。不自然に隆起した腕が衣を突き破り、襤褸と化した袖からは三本の指がのぞいた。爪は、五寸はあろうか。剣のように鋭く尖っている。つるりとして凹凸の無い、綿を詰めたふくろのような顔は猩々緋まっかに赤らんで、大きな丸い目が一つ。まるでそこだけぽっかり穴の開いたように現れた。


 おに、と震えがちに呟いた冴の前で、紅囊が裂けて三日月の口が現れた。のこぎりの如き牙をちらつかせて、にたりと嗤う。


「うまそうなわらわじゃ」


 鬼の腕は、ズルズルと伸びて氷織の横を通り過ぎ、その後ろに立つ冴の足を掴んで宙づりに己の口へ引き寄せる。

 血色の三日月は弥々いよいよ大きく裂けて、垂れた牙から涎が糸引いた。冴の喉から、絹を裂くような悲鳴が上がった。


「いよ!!」

「……其方は、近頃夜な夜な現れる女じゃな。憐れじゃのう。滑稽じゃのう。とうにうなった吾子を探してその醜い顔を徒にさらし歩こうとは。だが、感謝せねばの。其方の噂を聞いてやってくる愚か者どものお陰で、餌に事欠かぬわ」


 手で見せびらかすように冴を揺すり、鬼は嗤った。


「とうに……亡く……なった……?」

「然り。倒れた其方を食らおうとしたら、『母様を食べるのなら、自分を食ってくれろ』などと言ってきた。健気なことよのう」


 愕然として押し黙った女に、鬼の高笑いが響く。


「……誰を喰らおうが殺そうが構わぬが」


 感情の窺えぬ能面のような表情のまま、氷織は前へ進み出た。


「――は私の連れ故。鬼如きに喰らわす訳にはゆかぬの」


 氷織の言葉が途切れた直後、橋の下を流れる川が突如盛り上がる。水が、刃のように鋭い氷柱となって鬼の腕を刺し貫いた。腕は小枝のようにポッキリ折れて敢えなく冴ごと落ちる。そのまま、――下の川へ。


 そうなるのを読んでいたか、丹塗りの欄干を軽々飛び越えて、落ちていく冴を掴んだ氷織の身が、空中で止まった。その足下に、川から長く突き出した氷の上に立っているのだった。


「我が腕を切り落とすとは……其方、何者じゃ」


 水を凍らせ、操ることは、氷の妖であったという母から受け継いだ、氷織の力だ。この程度の事は造作も無い。だが、目の前の鬼に教えてやる義理もない。

 突進してきた巨体の攻撃を避け、氷織は軽やかに鬼の頭上に飛び乗った。


「――ね」

 声に応じ、鋭い氷柱が幾つも現れ、鬼の脳天や背、胸を刺す。抵抗する暇など一瞬たりとも与えない。恐ろしい響きが空気を震わせる。軈て、怨みの言葉を吐く口から牙が抜け落ち、ぐずぐずと身が溶けて崩れていく。


「ありがとうございます、ひおりたま」

「お前がおらぬと、詰まらぬ故な」


 いなくても詰まるようになったら、もう助けてもらえないのだろうか。などと思いながら、冴は、打ちひしがれて動かないでいる女へ目を遣った。


「ひおりたま……」


 何か、大儀そうに息を吐いてから、氷織は腕を上げた。


「――お主の子は、あそこだ」


 氷織が指さす方を見遣れば、川の上で、蒼白い炎がゆらゆら燃えていた。それは、見る間に小さな子供の姿になったかと思うと、母さま、と囁いた。女の垂れた瞼の奥から一筋、透明な涙が頬へと伝った。すると、火傷痕だらけの痛々しい肌が、一瞬で白磁のような滑らかな美しい肌になった。おそらくは、これが元の顔なのだろう。慈愛に満ちた笑み。感じたことのない感情がどこからか湧き上がって、冴の胸が、ツキリと痛んだ。

 いよ、と零すと、女は駆け寄り、光ごと抱き締めた。


「……嗚呼……いよ。私の子。……今度こそ、今度こそ放さない……」


 光が弾けた。眩しさに思わず目を閉じる。笑い声がして、再び開いた時には、子供も、女の姿もない。


「……あのひとも、もう、しんでいたですね」

「子が心配で彷徨っていたのであろ。そういうものらしい。母とは」

「……さえの母さまも……?」


 おそらくの。そう応えて、氷織は小さな頭を撫でた。

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氷妖伝 @xiaoye0104

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