第一夜 きぬにうつせし情

 いく・・。いくや――嗚咽混じり、娘の名を呼ばう声の悲痛に、人々は同情を禁じ得ない。

 十六という、花の娘盛り。突然の死に、両親ふたおやの哀しみは如何いか程か。

 枕元に置かれた衣桁には、つい先日、古着屋で求めたばかりの振袖が掛かっている。荒磯に、菊柄の入った紫縮緬の上物だ。それが、風もなく、はたはた揺らめいた。

 娘の死をあざわらうように、白い何かが、にゅるり、と袖口から覗いていたが、悲しみに俯く人々は、誰一人気付かない。

 

 遺体は、棺に収められた。棺の上に、両親がその振袖を掛けてやった。

 

 棺を寺へ運ぶ道で、旅人とおぼしき男と童女が通りかかる。男は足を止め、チラリと棺の上の振袖を見遣る。首を傾げる童女に、男は小さく、何事か呟き、また歩み去って行った。


   * * *


 江戸えど麻布あざぶのとある質屋の娘・菊乃きくのは、両親が自分の為に作ってくれた振袖に、うっとり魅入っていた。頬はけ、肌は白いというよりも蒼く、憔悴していることは、一目瞭然だった。目ばかりがただ、爛々と燃えている。そこに宿る炎がうつすのは、紛れもなく、行き場のない恋慕の情。

 娘は、衣の向こうに、名も知らぬ恋しい面影を見ていたのである。

 その日、菊乃は祭りに出かけていた。喧噪の中、菊乃の目はある若衆わかものに吸い寄せられた。荒磯と菊柄の紫縮緬の衣をすっきりと着こなし、色白の頬はすべらかに、くっきりとした眉は黒々と、すっとした切れ長の瞳が凛々しい。陶然と見詰める間に、その人は、はや人混みの中に紛れてしまった。


 それは、たった一瞬の邂逅かいこう

 供の者に、どこの誰かを訊ねるいとまもない程の。けれども、その須臾しゅゆの間に、菊乃の心は、すっかりその美しい若衆に囚われてしまったのだった。

 以来、菊乃は、朝な夕なにその人を思い、涙した。

 せめて名なりとも。

 なぜあの時すぐに訊ねなかった。

 もう一度が来たら、その時こそ――鬱々とそんなことを思っては、自分の名と同じ、菊の衣を纏うた姿を夢想したりして、仄かな期待に胸を躍らせてみるも虚しく、次第に病がちになった。

 

 心配した両親は、娘の為にせめてもと、その若衆が着ていたのと同じ色、同じ柄の振袖を用意してやった。菊乃は喜んで、一時、何処へ行くにもその振袖を着て歩いた。どこかでその人の目に留まることがあれば、という切ない乙女心ゆえだった。家中では衣桁に掛けて、見える所に無いと落ち着かなかった。或る時には日がなそれを眺め、また或る時には胸に掻き抱き、満たされぬ心を慰めた。なれど、再会の日も見えぬまま、可惜あたら過ごす娘の、人知れぬ袖の雫は、如何ばかりであったか。


 結局、菊乃がその人に再び相見える僥倖ぎょうこうは、ついぞ訪れなかった。

 菊花の舞う如く、日毎にしおれ、菊乃は床から起き上がることもなくなった。

 その今際の時、痩せ細った白い手が、何かを求め足掻くように伸べられて、落ちた。

 承応四年、睦月十六日のことである。

 花の命を散らした娘の棺に、両親はくだんの衣を掛けてやった。


 寺に収められた振袖は、商人に売りに出され、別の娘の手に渡った。が、新たに持ち主となったその娘はたちまち病に伏せ、「あの人はどこ」などとうわごとの様に言い始め、幾何いくばくもなくして淡雪の如く、儚くなった。

 奇しくもその日は、睦月十六日。菊乃の命日であった。

 娘の親は、上等のその振袖を棺に掛けてやった。

 

 再び寺に収められた振袖は、やはり商人によって売りに出され、町娘・いくの手に渡った。家で、いくがこの振袖を着てみたところ、胸の辺りに違和を覚えた。以来、昼も夜も無く振袖を眺めては涙を流し、美しい若衆の幻に焦がれて死ぬなどとわめき散らして、見る間に憔悴していった。医者に診せたが打つ手は無く、ある朝、母が揺すってみたところ、既に冷たくなっていた。自ら掻きむしった胸や爪が、血でぬらぬら光っていた、という。

 その日は果たして、睦月十六日だった――。


 

 振袖の掛けられた棺を運んでいく一行を認め、氷織は氷を思わす薄蒼の目を細めた。その傍らで、童女が「綺麗な衣ですねぇ、ひおりたま」と、暢気に言った。

 あの中身を、幼いこのわらわは、未だ知らない。

 明日を信じて疑わない、澄んだ瞳。


「――執着は、人を殺す」


 無表情に言った氷織を、目を丸くして童女が見上げる。


「分からずとも良い」


 行くぞ、冴。男はくしゃり、と童女――冴の頭を撫でて、その手を引いてまた歩き出した。


   * * *


 三度みたび、寺に収められた衣を、住職は流石に不審に思い、供養のために焼いた。ところが、読経中、突如吹いた暴風に煽られて、衣は燃え盛りながら天高く舞い上がった。その場にいた者の中には、激しくはためく袖口から、にゅるり・・・・と、白い女の腕が伸びていたと云う者もいた。火は本堂に燃え移り、瞬く間に寺全体を覆い尽くし、一陣は湯島六丁目、また一陣は駿河台するがだいへと広がり、凡そ二日に亘って燃え続け、江戸を焦土と化した。


 明暦三年、睦月十八日のことである。『むさしあぶみ』によると、死傷者は十万を優に数えたという。火を避けて川に飛び込み、溺死した者も多かったという。

 

 この未曾有の大火災は「明暦の大火」、俗に「振袖火事」とも呼ばれ、長く人々の記憶に留められることとなる。

 


 古書に曰く、「すべて女は はかなき衣服調度に心をとどめて なき跡の小袖より手の出しを まのあたり見し人ありと云」と。

 

 この大火も、亡き娘の死皮しにがわの衣に、自身のみならず、衣を手にした娘達を次々と死に至らしめた程の、執着の炎が宿っていた為であろうか……。


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