氷妖伝
宵
第零話 つきに盃
白の衣が
ずぶりと、肉を貫く音が耳を突いた。
刃で貫かれた傷が、燃えるように熱い。
「……私は、熱いのが苦手なんだが。知っておろう。――なあ、
「
「約束だったからのう――言うたのは、お主だろうが。月見の盃を交わそう、と」
「馬鹿か……あんな、あんな……他愛も無い、約束」
「――友との約束は、守るものではないのか?」
氷織の言葉に、男の顔が泣き出しそうに歪んだ。
* * *
じじりと
遠くの軒先にかかる風鈴ばかりはりりん、りりんと涼しげな音を立ててなどいもするが、さりとてこの灼熱をばどうして耐えられよう。
雪白の衣からのぞく皮膚から、じわりじわりと
僅かな木陰に涼を求めて這い来たり、氷織はその場にバッタリ倒れて天を仰いだ。
余りの暑さに耐えかねたか、氷の如き薄蒼の瞳が、弱々しくも恨めしげに太陽を見遣る。
癖のない長髪は髷にする事も無くそのままに、汗で彼の白い頬に張り付き鬱陶しげだ。傍にはぼろぼろの書物が、風が吹く度、煽られた表紙が閉じたり開いたりしていた。
彼はもう、長いこと、ここでひいひいぜいぜい瀕死の魚よろしくべったりと地面に横たり、僅かに肩を上下させていた。
が。突如、頭から水を浴びせられて、氷織は眼を瞬いた。
「もし。生きておられるか?」
いかにも快活そうな男が、桶を手に笑いかける。氷織は緩慢な動作で起き上がる。冷ややかな水が、風に涼しい。
まさに、生き返るようだ。
「……主は、」
問う表情で男を見返すと、彼は
「最近ここらに来られたお方だろう。いつもここで書物を読んでおられると、噂だ」
確かに、ここで読書をして過ごすのが、この街に流れ着いて以来の彼の日課であった。
「ああ……」
積極的に人との交わりを結ぼうとも廃そうとも思わないのが氷織だ。居を定めてからも、近隣への挨拶に出向くなどという考えは無い。なんのかんのと言われて居る自覚はあったが、興味も無い。
二言三言、当たり障りのない言葉を交わし、その日は別れた。
翌日も、その翌日も、高嶺は通りかかる度、氷織に声を掛けてきた。まるで、十年来の友の様な親しさで。
けれども、必要以上に踏み込んでも来ない。 絶妙な距離感は、氷織にとって、そう鬱陶しいものではなかった。
両親に先立たれた髙嶺は、両親の残した遺産で細々と食いつなぎ、父の知己であった塾長の元に妹共に身を寄せていた。塾での講義も仕事も無い、そのほんの一時が、彼の自由な時間らしい。
氷織が読書を好むことを察して、塾長が所蔵している様々の書物を借りて持ってきてくれた。それで自然、二人の会話はその書物の内容が多くなる。
「ほんに、氷織は学識が高い」
「褒めても何も出ぬぞ」
扇を手繰りながら、つんと答えた氷織に、高嶺はまたわらう。
「はっはっは。どうだ、うちの塾で書を講じてはくれまいか。今人手が足らぬのだ」
「すまぬな。私は人を教えを垂れることのできるような男ではない。なにせすべて、暇つぶしだからの。青臭い餓鬼どもの相手など暑苦しい。暑苦しいのは主だけで十分」
「そうか。まあ、気が向いたら言ってくれ」
「気が向くことは無い故、他の当てを探すことだ」
素っ気なく答えた氷織に、ついに高嶺は吹き出した。
「そこは、その気が無くとも、わかった、っていうところであろうが。正直な男だな!」
「大声を出すな。暑苦しい」
彼は、学問の話の他は、ただ一人の肉親である妹の話をよく、した。
肉親の情を解せぬ氷織には、殆ど理解は出来なかったが。妹のことを話す彼の目が、穏やかに凪いでいるのを、悪いものとは、思わなかった。
* * *
血に染まった氷柱が、砕けて大地に散る。
倒れ伏し、ものも言わぬただの肉塊と化したそれを、氷織は見下ろす。
「……つまらぬ……」
心底つまらなそうに零す。そこに、良心の呵責などありはしない。ただ、べっとりとした血の臭いが鼻について、氷織は不快げに眉を寄せた。
* * *
「今年は、殊に蒸すなあ」
飽きもせずにやってきた高嶺は、そう快活に笑いかけてきた。
「だが、それが終われば秋だ。秋はいい。食い物はうまいし、過ごしやすい」
「――そうだな。夏よりは過ごしやすいであろう」
杯を傾けて、氷織は相づちを打つ。
「秋と言えば、月見だな。そうだ、氷織、秋になったら月見でもしよう」
「月見、か……それも良いかもしれぬな」
「そうだ。約束だからな?」
約束、その言葉を口の中で転がす。氷織の無表情が、わずかに動く。
「……私は、約束はしない主義なんだが」
「どんな主義だそれは。友と約束も交わせぬか? 大した約束でもあるまい」
不思議そうな表情で、髙嶺は首を傾げた。
「……友、か」
氷織は、ほんの少し、口の端を上げた。
「わかった、わかった」
軽く言うと、髙嶺は、少年のように笑った。
高嶺の言うとおり、その夏は、殊に厳しかった。
氷織は、氷の塊をいくつも口の中に含んでは囓り、相変わらず木の下で読書をしていた。
「――ここも、去り時であろうか」
まだ日は高い。が、まばゆい日の下にも闇は隣するのである。その、闇の、あちらこちらに潜む気配。隠してはいるが、氷織には分かっていた。
「あの御方も、……ほんに、
読みさしの書物を、そっと閉じる。
“――約束だからな?”
「約束、か」
おかしそうに呟きながら、氷織は姿を眩ませた。
* * *
季節はいつしか移り、蒼蒼とした山気には、豊穣な秋の気配が漂い始めていた。
ぽた、ぽた。闇の中に、何か、しずくの落ちるような音が断続的に響いていた。
黒々とした何かが折り重なっている山の中に一人、あぐらをかいて酒をかっくらっていた氷織は、眉根を寄せてふと眼を閉じる。
そして、皎々たる月を見上げた。
「――もう、明日か……」
氷織は立ち上がる。
遠くで獣の鳴き声が、した。
* * *
氷織は久々に、あの木の下に座って書を読んでいた。日が暮れた頃、近づいてくる足音がして、見上げれば、高嶺だった。
「氷織――……どうしてここに? 否、今までどこに……」
氷織が高嶺の前から姿を消して、一月ほどが過ぎていた。
「……少し、な」
言葉を濁して、氷織は高嶺を見遣った。その様子に、違和感を覚えた。
「――――――!」
切られた、と理解するのに、氷織は少し時間がかかった。
「私は、熱いのが苦手なんだが。知っておろうが。――なぁ、高嶺? 私を殺すなら、一息にやってもらわねば」
痛みなどよりも、焼けるような熱さに、氷織はクラクラとした。
「氷織……何故、来たのだ」
今し方、氷織を貫いた剣の切っ先を震わせながら、高嶺は問うた。
「――言うたのは、お主だろうが。月見の盃を交わそう、と」
うすく微笑む。
「……馬鹿か……あんな、あんな……他愛も無い、約束」
「友との約束は、守るものではないのか?」
くしゃりと、高嶺の表情が歪む。
彼は、氷織の前に膝を着いた。
「許してくれ、……妹を人質に取られたら……私は……」
そんなことだろうと思った。無表情に小さくうなずいた氷織は、顔を上げた。
「――それで、主らは、誰を殺めようという心算か」
闇に向かい、言い放つ。
「氷織?」
誰に話しかけて、言いかけた高嶺の表情が凍り付く。
彼の足下の影から、物陰から、草むらから、それは姿を現した。
或いは汚泥が形を得て動き出したようなもの、あるいは目をぎょろつかせた小鬼、餓鬼。或いは、黒いもやのような、影のような揺らめきに、青白い鬼火。また或いは、獣のすがたのように見えながら、目が一つだったり、舌が異様に長かったり、角が生えたりした――異形の群れである。
耳障りな笑い声を上げ、彼らが一斉に飛びかかったのは、手負いの氷織ではなく――高嶺である。
が、直後、地面から鋭い、巨大な棘のような影が突き出し、それらの異形を串刺しにした。月光を浴びて透明にきらめくその影は、巨大な氷柱であった。
「なん――」
顔色を変えた高嶺に、中空から飛来した双頭の烏が、再度襲いかかろうとする。が、その黒い影は、氷織が腕を振るうと、忽ち凍り付き、動きを失って落ちる。と、氷の塊と化した烏は、氷もろとも砕け散った。
一方的な蹂躙に近い形で氷織が異形たちをを殺し尽くすと、辺りは静けさを取り戻す。
氷織は髙嶺を振り返った。
怯えた様な眼と眼が合えば、氷織は何とも言えない気分になった。
「……怪我は無さそうだの」
「……ひお……」
何か言う暇を与えず、彼は素早く髙嶺を気絶させた。
鈴虫の音が、耳に痛い。
「……私の事など、放っておいてくださりませぬか――
氷織がその名を呼ばうと、炎が燃え上がり、地に散らばった異形の群れを焼き尽くした。その、炎の中から、黒い巫女装束を纏った女が現れる。
黒髪を炎熱に翻し、紅色の瞳には炎の如き金の揺らめき。素足の足は、地面に着いてはいない。その場にふわりと浮いて、氷織を見下ろしていた。
「――其方が悪い。塵芥の如きつまらぬ者にうつつを抜かして。忘れてはならぬ。其方が求めるものを与えてあげられるのは、妾だけと」
「求めるのも疲れたのです」
つんと言い放った氷織に、女は笑った。
「ほほ。まさか。其方がそれを諦めるものか。其方の目にある渇望が、妾にわからないとでも思うたか」
女が氷織に近づく。そして、その耳元にささやいた。
「氷織。ほんに欲しいのならば、求めるのをやめてはならぬ。目をそらしてはならぬ。他に心を注いではならぬ。――ただ、妾を追うておいで。これは、罰だ」
耳から炎を纏った蛇を注ぎ込まれたように、氷織は眉を寄せ、その場に倒れた。熱い。内腑を焦がす炎の熱が全身を這い巡っていく。
氷織はただ、呻くように声を上げた。
女の笑い声が、夜陰に高く上がり、もはや炭と化したあやかし共の骸ごと消えた。
残された氷織は、地面でのたうち回った。内臓を焼いた炎が、皮膚を侵し、白皙の美貌は焼けただれた。歯を食いしばり、地面を這いずり、拳を握り締めた氷織の、ぼやけた視界の端を、倒れた高嶺が過った。
女――炫離が高嶺に命じたのだろう。氷織りを刺せ、と。敵意を向けられた氷織が、高嶺を自ら殺すことを意図したのだろう。それがうまくいかなかったから、己の配下達を使って、高嶺を殺そうとしたのである。
どこかで高嶺との約束を聞きつけていたに違いない。大切な妹を人質に取られたが故の、苦渋の決断であっただろう。
あの時姿を消したまま、氷織がのこのこ姿を現さなければ良かったのだ。
「っ。……だから、約束などするものでない」
* * *
再び目を開いた時、焼けただれた皮膚も、髪も、元通りだった。それほど時間はたってはいない。
月は依然として天にあった。
あやかし共の血を吸ったあげく、焼けて煤けてしまった着物と刀だけが、先ほどの名残を残している。
まだ、靄がかかったように、頭がはっきりしない。いつものことである。
死んで、起き上がった後は。
なぜなのか、いつからなのか、はっきりしないが、氷織は死ぬことができない身であった。心の臓を貫かれても、首を切り落とされても、である。意識を失って――死んで――少し経てば、元通りである。否、多少姿が変わることはあったが。
色々試してみたのだが、すべて無駄だったのだ――立ちすくむ氷織の耳に、赤子の泣き声が聞こえた様な気がして、頭を巡らせる。
探してどうする、と冷静な声が呟いた。
が、それに気付かないふりをして、歩みを進めた。
忘れ去られたかのようにひっそりと、塚があった。墓標とおぼしきささやかな石は割れ、苔むしている。
声は、その地面の中から聞こえてくる。
乾いた血に汚れた手で、氷織はそれを掘り返す。それはほとんど、何が出てくるのだろう、という好奇心だった。
降り出した雨が、背を打つ。だが、氷織は手を止めなかった。
やがて、堅い物にぶつかる。棺の蓋だ。声は、この中から聞こえる。
蓋を開けると、声はますます大きくなった。見ればそこに、母とおぼしき遺体。墓のふるさとは対照的に、青白い肌は、死んで間もないもののようにも見えた。そして、その腕に赤子が抱かれていた。
「……」
氷織は、その赤子をそっと持ち上げて抱えると、ふえふえ、と声を漏らす。
それは、穢れを知らぬと、雪の様に真っ白だ。
氷織は、己の血だらけのこの身を初めて何か、恥ずかしく思った。
何故こうして生きながら墓に埋められたのか、または母体が死して後に何らかの理由で生まれたのか。それは分からないが。
直後、母とおぼしき遺体が、突如、肉がそげ、瞬く間に骨と化して崩れ落ちた。
このままにしておくわけにも行くまいとて、氷織は塚を元通りにしながら思う。
「――お前、私と行くか?」
答えられるはずも無いのだが、問う。
(またあの御方が難癖を付けてきそうだが――)
まあ、その時はその時、である。
「腹が空いただろう、なにか口にせねばな」
だが、その前に。
倒れたままの、高嶺の旁らに歩み寄った氷織は、盃を取り出した。
赤子を片腕に抱えたまま、反対の腕で白み始めた空へと盃を掲げ、未だ白く浮かぶ明月を
「――乾杯」
言うと、それを飲み干し、高嶺の傍に置いた。
「月が証人。これで私は約束を守った」
赤子を抱え直す。それきり、氷織は踵を返して歩き出す。
「……ああ、これ、泣くな泣くな」
ぐずり始めた赤子の対処に戸惑いながら。
二度と、振り返らなかった。
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