(戊)

 再び目を開いた時、焼けただれた皮膚も、髪も、元通りだった。それほど時間はたってはいない。

 月は依然として天にあった。

 あやかし共の血を吸ったあげく、焼けて煤けてしまった着物と刀だけが、先ほどの名残を残している。

 まだ、靄がかかったように、頭がはっきりしない。いつものことである。


 死んで、後は。


 なぜなのか、いつからなのか、はっきりしないが、氷織は死ぬことができない身であった。痛みすら感じない。ただ、炎や熱だけは苦手だったが。死へは至らない。無論、心の臓を貫かれても、首を切り落とされても、である。意識を失って――死んでも――少し経てば、元通りである。否、多少姿が変わることはあったが。


 のだが、すべて無駄だったのだ――立ちすくむ氷織の耳に、赤子の泣き声が聞こえた様な気がして、頭を巡らせる。


 探してどうする、と冷静な声が呟いた。

 が、それに気付かないふりをして、歩みを進めた。 


 忘れ去られたかのようにひっそりと、塚があった。墓標とおぼしきささやかな石は割れ、苔むしている。


 声は、その地面の中から聞こえてくる。


 乾いた血に汚れた手で、氷織はそれを掘り返す。それはほとんど、何が出てくるのだろう、という好奇心だった。


 降り出した雨が、背を打つ。だが、氷織は手を止めなかった。


 やがて、堅い物にぶつかる。棺の蓋だ。声は、この中から聞こえる。

 蓋を開けると、声はますます大きくなった。見ればそこに、母とおぼしき遺体。墓のふるさとは対照的に、青白い肌は、死んで間もないもののようにも見えた。そして、その腕に赤子が抱かれていた。


「……」


 氷織は、その赤子に恐る恐る、殆ど恐怖に近いような色を浮かべて手を延べる。白くふくふくとした小さな掌が、ぎゅっと氷織の細く長い指を握った。

 それは思いの外、強く。


 軽く息を吐き、持ち上げて抱えると、ふえふえ、と声を漏らす。

 それは、穢れを知らぬと、雪の様に真っ白だ。黒々とした目がぱっちりと開いて、氷織を見詰めてきた。


 氷織は、己の血だらけのこの身を初めて何か、恥ずかしく思った。


 何故こうして生きながら墓に埋められたのか、または母体が死して後に何らかの理

由で生まれたのか――それは分からぬが。


 直後、母とおぼしき遺体が、突如、肉がそげ、瞬く間に骨と化して崩れ落ちた。

 このままにしておくわけにも行くまいとて、氷織は塚を元通りにしながら思う。


「――お前、私と行くか?」


 答えられるはずも無いのだが、問う。


(またあの御方が難癖を付けてきそうだが――)


 まあ、その時はその時、である。


「腹が空いただろう、なにか口にせねばな」


 だが、その前に。


 倒れたままの、高嶺の旁らに歩み寄った氷織は、盃を取り出した。

 赤子を片腕に抱えたまま、反対の腕で白み始めた空へと盃を掲げ、未だ白く浮かぶ明月をむかえ入れた。


「――乾杯」


 言うと、それを飲み干し、高嶺の傍に置いた。


「月が証人。これで私は約束を守った」


 赤子を抱え直す。それきり、氷織は踵を返して歩き出す。


「……ああ、これ、泣くな泣くな」


 ぐずり始めた赤子の対処に戸惑いながら。

 二度と、振り返らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る