第32話 コウヘイさん結婚への道
その日のコウヘイさんはネクタイを締めていた。いつもお客で来るワッフルとは違い、今日は2階のマスター自宅の客間だ。しかも相手はマスターとしてではなくヨシノさんのお父さんとして会うのだ。まさに緊張のカタマリだった。
「で、コウヘイ君、用って何だ?」
「今日はお願いがあって来ました」
「ふうん、何だ?」
「あ、あの、ヨシノさんのことで。えっと僕をヨシノさんと、結婚させてください」
思い切ってストライクゾーン真ん中めがけてストレートを投げた。
「ほう、ちゃんとやってけるのか?」
ストレートは軽くファウルされた。
「あ、はい、えっとこれからショップだけではなく、個人としてツアーの引率とかもしてやっていきたいと思って…います(汗)」
2球目はストライクゾーンギリギリを狙ったカーブ。
「俺だって自転車乗るからそれがどんなもんかは判る。結婚って、一生モノなんだよ。それでずっとヨシノを食わせていけるのか、と聞いているんだ」
だめだ、甘く入ったカーブはショートの頭上を越えてレフト前に転がった。
「お父さん、私も働くし」
「ヨシノは黙ってなさい。これはコウヘイ君に聞いていることだ。それだけの覚悟で来てる筈だろ」
マスターもいつものマスターとは違った。
「…」
「オレを納得させられる準備をしてから来い、コウヘイ君」
「は、はいっ」
確かに甘かった。学校を卒業してから自転車しか知らない生き方だから、これが本当の世間なのかも知れない。コウヘイさんは一旦引き下がって建て直すことにした。
「ごめん、コウヘイ。私も甘かったわ」
「いやヨシノさん、これは僕とマスターの問題なんです。これ位の事、マスターは言って当たり前です。もう少し時間下さい。今日はこれで引き揚げます」
ヨシノさんは切ない想いでコウヘイさんの背中を見送った。マスターはその後、この話には一切触れなかった。
♪チョリーン
「いらっしゃいませ」
三日後、カフェ・ワッフルに四十代半ばと思しき一人の男がやって来た。
「カウンター、いいですか」
「はい、どうぞ。何になさいます?」
五十鈴さんが聞く。
「えっと、ブレンド。それからマスターいらっしゃる?」
「はい、呼んできますね」
五十鈴さんが階段の下から声を張り上げた。
「マスター!お客様です」
エプロンの紐を締めながら階段を降りてきたマスターは怪訝そうな顔を男に向けた。
「はい、何か?」
「初めまして。コウヘイの店の店長です。いつもお世話になってます」
「え?ああ、それはそれはようこそいらっしゃいました」
男の前に香り立つブレンドコーヒーが置かれた。男はカップを持って一口すすると
「この度はお騒がせして申し訳ありません。私が口出しすることじゃないと判っているんですが、コウヘイの落ち込みが酷いんで、それに私も彼に言ってない事がありましてね。お話ししておいた方が良いかと思い参った次第です」
「はあ、そうですか。ま、ウチも娘の婿殿になるかどうかですから、愛想よくハイハイって訳にはいかないもんでね」
「それは判ります。私も同じくらいの娘がいるんで。コウヘイみたいに来たらモンキーでぶん殴りますわ」
「ほう、じゃ今度はフライパン用意しとこかな。それでそのお話って何ですか?」
「私、近く移住しようと思ってるんですよ、カナダに」
「は? カナダですか?」
「はい、息子の方がカナダにいましてね、マウンテンバイクに乗ってるんですけどメカニックが要るんだと言ってきたもんで、本場ですから、私も勉強になるし行こうかなと思ってるんです」
「へえ、MTBのメカニックですか。思い切りますねえ」
「なので、今の店をコウヘイに譲るつもりです」
「え?譲るんですか?」
「はい。彼は彼でいい腕してますんで、企業チームのメカニックの引き合いもありますし、もう一人位若いの入れたら、何とか回って、その、お嬢さんを食べさせていくってのは何とかなるかなと」
「なるほど」
「ま、それ以上に出来るかどうかはコウヘイの才覚と努力次第なんですが、今自転車ブームですし、ここいらにはスポーツサイクルをきちんとメンテできるエンジニアは少ないんで、当面は大丈夫と思ってます。ま、マスターもお乗りになるなら状況はお判り頂けるかと思いますけど」
「その話、コウヘイ君にはまだ言わないんですか?」
「ええ、自分で考えさせて、もう一度マスターの所に行かせますから」
「なるほど」
「という事なので、お嬢さんのためにこういうベースだけは準備するとご理解下さい。ま、私は親じゃないんですけどね」
「判りました。後は本人の自覚次第としておきます。あ、五十鈴ちゃん、コーヒー入れ替えて」
二人の中年男はその後、自転車メカの話で盛り上がった。
一週間後、再びコウヘイさんはネクタイを締めて、ワッフルを訪れた。
2階の客間にて、緊張の面持ちでマスターを待っていたコウヘイさんだったが、マスターが現れ、座ると同時にマスターの前に飛び出した。そして、土下座した。
「マスターすみません!稼ぐ手は思いつきませんでした。でも絶対ヨシノさんには悲しい思いをさせません!どうか、結婚させて下さい。お願いします!」
これにはヨシノさんもびっくりした。コウヘイ…。
「当たり前じゃねえか。一週間で思いついたらそっちの方が怪しいよ。顔上げな」
「は、はい…」
「いいかコウヘイ。今が最高にいい時なんだ。これからどんどん下がってく。たまには上がる時もあるけど今と全く同じにはならない。それが覚悟できるか?」
「はい、覚悟します」
「ヨシノ、お前もだよ。一緒に苦労するんだ。そしたら今と違った色で上がる事もできる。それが夫婦なんだからよ」
「はい」
ヨシノさんも緊張して答えた。
「で、式はいつにするんだ?」
「お父さん!」
一転してヨシノさんの顔が輝いた。
「有難うございます!有難うございます!」
再びコウヘイさんは土下座した。
「それはもういいんだよ。じゃ、俺は店に戻るわ」
出て行くマスターの後姿を見ながらコウヘイさんは言った。
「カッコいい…。俺もいつかあれやりたい」
「何言ってんの、厚みが違うわよ」
「あれ?」
二人は顔を見合わせて笑った。若さがそこいらに溢れていた。
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