繭の子

みじんこしろいな

第1話

 繭とは芋虫から成虫になる間、無防備となるその身を守るために作られる防壁である。

 一番親しみがあるものだと蚕の繭だろうか。白い糸で作られたカプセルのような形状をしていて、中では幼虫から蛹となった虫が身を潜めている。だが知りはするが、見慣れたものではないと思う。蚕の繭が親しみがあるだろう言っても、家畜化された蟲である蚕を普段見ることはない。

 一応、自然界にも繭を作る虫はいる。しかし注意深く探しでもしない限り、そうそう目にしないだろう。

 それが自室の中であったり、人ひとりが入れるくらいの大きさだったりすれば恐らく見ることは一生ない。俺もそんなものを見ることになるとは、想像すらしていなかった。しかし有ってしまった。

 目の前に広がるのは床に壁、天井すら覆い尽くす白い糸、そして部屋の中央に鎮座する大きな繭。

 消し忘れた室内灯に照らされ、うっすらと繭の中の物体が浮かび上がっている。時折身悶えするように動く影は、繭の大きさに見合い人と同じ程度の大きさだ。

 まるでパニックホラー映画のワンシーン。お約束に沿うならば、哀れ第一発見者のモブキャラは羽化した化け物に食べられてしまいました、となるだろう。

 これが本物か偽物かなんてのはわからないが、異常であることは変わりはない。自分で対処できないことは、逃げて隠れてやり過ごすに限る。

 幸いなことに頭だけは冴えていた。恐怖で体がまったく動かないなんてこともない。慎重に、すり足ぎみで後退していく。ワンルームのマンションのため玄関までは一本道で、途中の扉も開けっ放しの1枚だけ。障害になるものは置いてなかっただろうから、ぶつかって音を立てるなんこともない。

 だからと言ってそう簡単にも行かなかった。なにもないと分かっていても、もしかしたらなにかあったかもという疑念はぬぐえない。

 動きは亀のごとく緩慢な動きになっていた。なのに頭は妙に冴えているものだから、鈍重に動いているのが自分だというのに早く動けと自身の体に命令を出す。

 恐怖を感じているという点を無視して思考してしまってまっている。フローリングの冷たさが全身をこわばらせているのではないかと、くだらないことを考えてしまうほどだ。

 しかし、もともと5メートルもない廊下だ。いくらゆっくり動こうともそんなに時間はかからない。かかとに段差の角が食い込む。玄関についたという合図だ。

 ここまできたらすぐに終わる、扉を開けて出ていくだけ。

 助かるという確信からか、恐怖で縮こまっていた心臓かハイスピードで動き出す。もちろんこの時も繭から眼を離すなんてことはしない。ホラーにおいて油断ほど怖いもはないのだから。

 扉をあけ外に出れば、鈴虫の声がまるで勝利のファンファーレのごとく俺迎えてくれる。扉を閉めば、これで終わり。

 勝った!俺は死の運命に勝った!

 思わず両手を天に掲げ、叫びそうになる。俺は晴れて序盤で死ぬモブキャラではなく、序盤で死なないモブキャラになったのだ。

 さて、喜んでばかりはいられない。当面の危機が去ったとはいえ、我が家は謎の物体に占領されたままだ。まず警察に連絡しなければならない。

 家に繭がある、といっても信じてもらえないだろうから、家に人がいる気配がするとでも言っておこう。

 それさえすれば俺の出番は終わり。あとは主人公たちがどうにかこうにかして、どうにかなってエンドロールで終了だ。

 楽観的? 知ったことかそんなもの。

 今、俺は生きている。それが重要なのだ。


「コンバンハ」


 ふと透き通るようなきれいな声、同時に意識がぼやける。スマホを取り出そうとしていた手は止まり、足に力が張らなくなり倒れ伏す。心地よい鈴虫の声は不快な耳鳴りのような音となって脳を揺らして思考の邪魔をする。

 固く、無機質な手に抱え上げる。

 こいつは誰だ、何をされた、わからない。

 わかることは一つ、必死になって逃げてきたあの部屋に連れ戻されそうになっているということだけ。抵抗をしようにも体に力は入らず、ぼやけた視界で下を見つめることしかできない。

 あぁ駄目だ、終わった。だから油断はしてはダメだと言ったのに、この様だ。

 丁寧に下ろされた床は真っ白で、ふわふわでねばねばした糸の感触。あの繭があった俺の部屋で間違いない。

 意識はさらに薄れ、もうすぐ途切れるだろう。

 せっかく逃げたのに、助かったかもしれないのに結局これだ。くそったれ。

 せめてこれから生まれてくるだろう化け物が、凄惨な死に方をしますように。精一杯に不幸を願い、俺は意識を手放した。

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