吹いて、愛して、戦って。

おうごんとう

第1楽章 楽器のいる生活

メランコリーはホルンを起こす一Ⅰ

「あああああああああああぁぁ…」

 

 誰もいない部屋に、疲れた叫び声が響いて消えた。飛び込んだ布団からお日様の匂いでもすればちょっとは幸せだったかもしれないけど、最近の私にそんな気力は無い。


 スランプ。


 この言葉が何よりもしっくり来てしまう。ホルンが、そして音楽が、好きで好きでどうしようもなくて音楽家の道を目指した。


 だけど、最近の自分は。ああ吹きたい、こう吹きたい、あの人みたいになりたい。なんで、なんで私はあんな風に吹けないの。どうしたらそんなに響くの。

 そんなことばかりぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ考えていたら、何も吹けなくなってしまった。このままでは、送り出してくれた父さんと母さんに、友だちに、先生に顔向けできない。

 そして、何よりも、誰よりも申し訳ないと思う相手はというと。


「ごめんね…イナリ…………」


 恋人ではない。ペットでもない。

 吹奏楽経験者ならいるかもしれないけど、私は楽器に名前を付けるタイプだ。なぜ稲荷イナリなのかは置いておいて。

 中1のときに、おじいちゃんが買ってきてくれたホルン。古いけど美しい、きっと価値のあるイナリ。何よりも、あなたに申し訳ない。私がもっといい音で吹けたら…と思わずにいられない。


 せめていつもより入念に手入れをしてから寝よう、と思って顔を上げた。しかし、そこで私の体は驚きで硬直する。

 ホルンが入った楽器ケースの上に、8歳かそこらの少年が座っていたのだ。


「…?」


 紺色のソフトケースの上に少年は座っていた。ケースと同じ素材のジャケットに短パン、丸襟のシャツにリボンタイ。そしてその上に法被はっぴを羽織った不思議なファッション。輝くブロンド、真っ青なクリクリの瞳のCGレベルの美少年だ。


 ………フッ。


「ついに…幻覚か……」


 疲労感で朦朧とした頭のままふらふらと少年に近寄り、形のいい頭に触れる。


「あ、触れるんだ、幻覚って。サラサラだね…かわいい…」


 よっこらせっと。とそのまま抱えてどかそうとすると、小さな手でパァン!と頬をぶたれた。衝撃で床に倒れ込む。

 つ…強い。


「な…なんでぇ!?」

「素手でベタベタベタベタ触んな!指紋つくだろうが…!いつもみたいにもっと丁重に扱え!」


 柔らかい声質だが横柄な、よく響く声で子どもに怒られた。なんだもう、よく出来た幻覚だなあと思いながら向き直る。


「いつもみたいにってねえ…触ったことないよ。初対面でしょ、キミ」

「違う!毎日、365日会ってる!」

「はあ…?」


 ええ、全く心当たりが無い。

 てか指紋って。


「私が365日丁重に扱うのは、愛しのイナリだけだよ」

「だから丁重に扱えって」

「…うん?なんか会話噛み合ってなくない?」

「だーかーら!頭悪いなあ。おれと音楽のことばっか考えすぎなんだよ、あすかは」

「…名前教えたっけ」

「お前、東海林しょうじあすか、おれイナリ」


 すると、少年がケースから降りた。


「分からないなら、これ、開けてみろよ」


 言われるがままに、私はケースを開いた。

 そこにあったのは、いつも通りのホルン、イナリだ。悲しいことに少しだけ傷や凹みがあるが、綺麗な本体。高校の時に新しく買ったマウスピース、歪んだ部屋を映すベル、映ってるのは横に伸びてブスな顔した私。いつも通り、のはずなのに。


「…違う!何これ!!」


 言葉では説明できないけど、なんとも言えない喪失感が感じられた。空っぽ、という言葉がピッタリだ。知り合いの顔そっくりのマネキンを見ているような、そんな感じ。


「分かったか?おれが、イナリ…あんたのホルンだって」


 少年がほれみたことか、と言った調子で言い放つ。


「…うん………ごめん分かんない」


 私の脳みそでは処理しきれなかったようで。

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