第一幕

転生

蘇る衝動

 遂にやったな、『悪魔の子』……。

 お前には、ちょっとばかり注目していたよ。

 あの野郎がくたばってからここらの人間どもにはもうスッカリ面白みがなくなったかと思ったが、お前だけは例外だった。


 しかしまさかが、お前に目をつけるとはな。


 クックック……俺が何だか気になるか? まぁ、それもそうか。お前はこれから、俺の力を得るわけだからな。

 よし、なら自己紹介といこう……そうだな。さしずめ俺は、お前のひいおじいちゃんってとこだ。クックックックッ……可愛い家族が増えて嬉しいぜ。お前も嬉しいだろう? 寂しい『イミゴ』……俺は、お前をそんな風には呼ばない。


 おォ、おォ、覗けば覗くほど悲惨な人生だ……よくもまぁ、くだらねぇ理性とやらで己を縛り続けられたモンだ……馬鹿すぎて感心するよ。しかし最後に、ちょっとばかし間違えたな。

 どれか一つでも欠けていりゃあ、もう苦しまずに済んだのに……全くそいつも、罪な女だなァ……


 まぁ、いい。残念ながらもう遅い。お前の、短くも安楽な生は終わった。そしてこれから、未来永劫の地獄の始まりだ。


 歓迎するぜ、仰木健人オオギ ケント。今日からお前は正真正銘、俺たちの仲間入りだ。

 お前がその力をどう使うか……見ものだなァ。


 もう世界に神はいない。邪魔者もいない……

 暫くは好きにさせてやる。俺が許す限り、その目に映る全てがお前のものだ。


 出来るだけ長く足掻けよ。俺の掌の上でな……クックックックックッ……



 ♦︎



 悪夢にうなされ目を覚ますと、ケントは死の崖の麓でへたり込んでいた。ボロ雑巾みたくなったモッズコートはずぶ濡れになっていた。

 足場を少しずつ抉り取るように叩き付ける荒波と暴風を目の前に、彼は先程砕け散った筈の自身の頭を懸命に巡らせる。


 何が起きた……? 俺は死んだ筈じゃ? 俺は、俺は……


 ケントは己のあらゆるものに、猛烈な違和感を覚えていた。

 ボロ切れのようになったコートやズボンはずぶ濡れになっているのに、髪や肌は瞬く間に水気を跳ね飛ばし乾いてゆく。叩きつける波の威力も、風の冷たさも鮮明に感じているのに、ちっとも寒くはなく、恐ろしくもない。

 それは先程までの、死へと向かう際のぼんやりとした意識がもたらす無意識的な鈍感さとはまるっきり違っていた。目の前にある諸々が命を脅かすものであるという感覚それ自体が、綺麗さっぱり消え失せたようだった。


 そして、気付いた。傍に立つユミコの気配に。


「俺に何した」

「まぁ、心外ね」


 クスクスと嗤う女の声にケントはいちいち激しい怒りを覚え、同時にそんな自分にまた違和感を覚える。


 俺は、こんなことで怒る人間だったか。いやそんなことより、目の前の脅威を……


「何とかすべきね」


 相変わらずケントの思考を読み、発しようとする言葉を先に言うユミコの挑発的な態度は変わらなかった。

 ユミコの身につけているものには、傷一つ付いていない。弾ける波は彼女の体に触れる寸前で見えない「何か」に吹き散らかされ、霧となって弾け飛ぶ。一方で髪やコートは風に揺れ、ワインレッドのクローシェが飛ばされないよう片手で抑えている。


 霧になった水はケントの顔にかかっては、瞬く間に弾けて飛んでゆく。ケントは凄まじい恐怖を感じた。この身に起きた変容は、己を、目の前にいるこのユミコという非人間的な女とまるっきり同じにしてしまったのではないかと直感したのだ。


『今日からお前は正真正銘、俺たちの仲間入りだ』


 頭の中で、さっき見た悪夢の中で聞いた悍ましい声が反芻する。ユミコがまたケントの手を引く。掴まれた手の感触も、先ほどより一層強く感じる。


「部屋に戻りましょう。ケントくん。ここじゃあちょっと、ね?」


 ユミコはそう言うと、ケントを無理やりに胸元へと抱き寄せて。そして先ほど堕ちてきた霰弾壁の、壁面すれすれを上昇する。

 混乱の極みの中でケントは横目に、突き出た無数の小岩の先端に削り取られた肉片と、深緑のコートの切れ端を見た。それらは全て、もう決して返って来ないかつての自分の物だと分かった。


 何が起きた。俺はどうなった。今の俺は、この体は一体何なんだ。


 あっという間に先ほどの岸壁の上に降り立つと、ユミコはケントの頬に両手を当てて恐怖と混乱に歪むその顔を真正面に見つめた。彼女の瞳に、また得体の知れない赤光しゃっこうが爛々と輝く。


『そうすれば、ずぅっと一緒にいられるもの』


 ケントの頭に、飛び降りる寸前に彼女が口にした言葉が流れ込む。ここは、それを聞いた時に立っていた場所。そしてかつてシミズに出会い、理由のない生に縛り付けられた場所。


 まだ、終われない。


 体が砕け散る寸前に感じた強烈な不安は確信に変わった。

 瞬間、ユミコはケントの思考を打ち切るようにその唇を奪った。借り物の脳に突き立つローズの香りに、強烈な衝動が込み上げるのを感じた。失った筈の自我が蘇る。


 パァンッ


 炸裂音と共に、ユミコは猛烈な勢いで後ろへ吹き飛ばされた。驚きの余り目を丸め、真っ赤なルージュに彩られた唇が愉悦に歪む。


「あぁ、やっと見せてくれたわね、その目……怖い、怖い。ゾクゾクしちゃう」


 ケントの狂気に満ちた四白眼からは、


 まだ終わっていない。なら、こんな女の相手をしている場合じゃない。戻らなければ。


 アヤカ!

 ケントは脳裏に焼き付いたその名を頼りに、朝焼けに照らされた至羅浜の荒野へ一心不乱に駆け出した。


『無駄よ、ケントくん……やめときなさい』


 ユミコのまとわりつくような声がしつこく頭に響く。


 うるさい、黙れ、鬱陶しい!


 ケントは迷いを振り切るように、猛然と走る。もはや人間でなくなった彼の足は、至羅浜駅を通過する列車を一瞬にして追い越してしまった。

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