川越邸の二人
アヤカとノリコが帰った後、中年の女性清掃員たちが喫煙所で煙草を吹かしながら井戸端会議をしている。話題は当然、その場にいない隣人のことだ。
「ねぇ、あの二人ってどういう関係?」
「誰?」
「ノリコさんとアヤカちゃん」
「あぁ……」
「苗字一緒じゃない。やけに仲良いし」
「義理の親子らしいわよ」
「え、そうなの?」
「そう。聞いたことない? 川越充さんって……」
「あぁっ、え、あの……?」
「そうそう、前科持ちの子の里親引き受けまくってるっていう」
「まさか」
「そ、ノリコさん、その人の奥さんよ」
「え、じゃあアヤカちゃんって……」
「多分ね」
「え〜……全っ然見えない」
「でしょ。でも多分そうよ。いっつもアヤカちゃんのこと待ってる若い男の子いるでしょ」
「あぁ、あのボロっちいコート着てる子?なんか気味悪いわよね。あの子……」
「あの子なんか、如何にも闇深そうな感じじゃない。多分あの子もよ……」
「私、見たよあの子」
「どこで?」
「病院のロビーで。精神科の受付に行ってた」
「うわぁ……怖い……あんまり関わんないようにしましょうね」
「そうね、でも、またなんか見たら教えてよ」
「ウフフ、そうね」
「フフフフ……」
♦︎
T市記念病院精神科。ケントは、五つある診察室の前に並べられたソファに腰掛ける中で最も若い患者だった。
いつも通り痩せた体をオーバーサイズ気味な深緑のモッズコートで覆い、体を抱き締めるように腕を組んで俯き、静かに順番を待つ。
首筋まで伸びた黒髪の隙間から覗く顔立ちは美しくも、病的に青白い顔色からは生気の欠片も窺えない。
「
「はい」
真ん中の診察室から優しく呼びかけるナースの声に小さく応じる。
綿毛のように軽いはずの体を力なく、重々しく起こし、片腕で体を抱いたままもう片方の手で診察室のドアを開ける。
「失礼します」
「やあケントくん。元気にしてたかい」
「はい」
ケントは親しげに声をかける
「本当かい? 随分顔色が悪いよ」
「いえ……昨日ちょっと夜更かしをしてしまって、それで」
「ほう、夜更かし? 何してたんだ」
「……ゲームを」
「ゲームかぁ。どんなゲームだ?」
「いや、別に……」
「なぜだ。教えてくれ」
ケントは、この嘘がノガミに通じないことを悟り口籠った。何も言わず俯くケントに、ノガミは尚も優しく声を掛けた。
「何か悩みでもあるのか」
「いや……」
「『別に』はもうナシだ」
どうしても言いたくないことだった。ケントは唇を噛み、頑なに黙り込む。
「私が信用できないか?」
「……違います。話したくないだけです」
問い詰められていると、その答えを守ること一つに注意が向き過ぎる。ケントは何も考えず、左の袖口に右手を突っ込んで手首をボリボリと掻いた。
その瞬間、身を乗り出してきたノガミに左腕を掴まれた。
「手首を見せなさい」
「えっ……あっ」
「見せなさいっ!」
「いや、ちょっと」
「またやったなッ!!」
ノガミはケントを激しく問い詰め、無理やり袖を捲り上げた。左手首には、無数の古傷の上に新たな傷が生々しく刻まれていた。これは相当に深い。そして新しい。切ってからまだ一日も経っていないだろう。
二人は一言も交わさないまま暫く暴かれた自傷痕を見つめていたが、やがてノガミが顔を上げてケントの目をまっすぐに見て言った。
「なぜやるんだ……」
ケントは答えない。ノガミは駄目もとで質問を続ける。
「生きている実感が湧かないか? 何か具体的な証がほしいのか?」
ケントがゆっくりと目線を上げ、ノガミの目を見返す。
深いクマの上でギョロリと光る大きな、そして死人のように虚ろな瞳。いつもと同じ。動じた様子は微塵もなかった。
「違いますね」
「……後ろめたそうには見えないな」
「はい」
「なぜだ」
「別に、先生に聞いてほしいことがあってやったわけじゃないからです」
「む……」
「これ、俺の体ですよ。俺の好きに使っていい筈だ」
ケントの態度は冷静そのもの。どう言えば、ノガミがそれ以上突っ込んで来られないかを完全に弁えているように見える。
しかしこの生気の無さはどうだ?一体何が彼を苛み、ここまで追い詰めているのか。
ノガミはその後も少し粘ったが、結局何一つ聞き出せないままその日の診察を終えた。
ケントは申し訳程度に処方された睡眠薬を病院向かいの薬局で受け取ると、また背を丸め、両手で体を抱くようにして腕を組んだまま、ゆっくりと帰路へ着いた。用心深く、行き交う人々に目を背けて。
♦︎
病院の帰りにケントは、いつも通りアヤカが勤めるホテルリーガンTへ寄った。アヤカの送迎は、養父・ミツルに言いつけられている唯一の仕事だった。
理由は歳が近いから、という単純なもの。アヤカはケントより一歳年下だと聞いている。
ケントがチンピラ風の三人組を追い払った後、アヤカはいつも通りケントの後にピッタリと付いて歩く。会話は全くない。
閑散としたT市の通りを、一言も交わさず歩くのは中々に気まずい状況だったが、どうやらそれを感じているのはいつも以上に視線を下にして歩いているアヤカだけのようで、ケントは寧ろいつもより背筋が伸び、いつもより堂々とした歩き方になっている。
「あの」
背後から、アヤカの呼びかける声が聞こえた。男としては小柄なケントだが、アヤカの小ささはその比ではない。振り返って少し視線を落とし、さらにもう少し落としてやっと彼女の顔を視界に収められる。
「何?」
「あ、あの、さっき、ありがとうございました……」
「うん……聞いたよ、さっきも」
「あっ、うっ……す、すいません……」
不十分だと思ったのか、ただ沈黙を破りたかっただけか、勇気を振り絞ってかけてくれた不器用な言葉をケントは一蹴した。
アヤカは一層背を丸めて俯き、それでもケントに着いて行く。閑散とした通りから路地へと入り、市街地が遠ざかる。川越邸はもうすぐそこだった。
と、ケントが不意に立ち止まった。ただ歩幅を合わせて後に続くことだけを考えていたアヤカは反射的に立ち止まり、こちらを振り返ったケントを潤んだ目で見上げた。
「アヤカちゃん」
「は、はい……?」
ケントはアヤカと視線を合わせたり、外したりを繰り返し、組んだ腕を摩りながらようやく言葉を紡いだ。
「その、さっきの、気分悪かったな。あの、ごめん……ほんとごめん。悪かった」
鼻と耳を真っ赤に染めて、震える声でケントは何度も謝罪を口にした。
ただでさえ口下手なアヤカは不意を突かれ、えっ、いや、そんな、を繰り返すばかりで何も言えない。
またも、二人の間に沈黙が流れる。今度は向かい合っている分一層気まずい。歩き出すにも会話を続けるにも、二人は完全にその機会を失ってしまった。
「おう、どうした二人とも」
突如沈黙を破って投げかけられた言葉に、二人は一斉に振り向く。
「……んん? なんだ、赤い顔して」
声の主は、恰幅の良い初老の男性。丸坊主の頭を摩りながら、福々しい顔に鷹揚な微笑を湛えながら二人を見やる。
彼こそ、篤志家・
「いや、その……えっと」
駄目だ。何て言っていいのか分からない。ミツルはそんなケントの目を細い目でまっすぐ見つめながら歩み寄り、大きな手でケントのボサボサの黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
「いい。話したくなったら聞こう」
「あー……すいません」
「ともかく二人とも、ウチへ入りなさい。疲れたろう」
ケントはアヤカの方をちらりと見やる。俯いたままで、自分ともミツルとも目を合わせようとしない。彼女はミツルがいるといつもこうだ。結局一言も交わせないで、ミツルに促されるままに門を潜りその日は終わった。
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