春の嵐・5


 中々お昼寝しないジュエルをやっと寝かしつけ、エリザはララァの家に向かった。

 今日は、薬草からとったエキスを抽出して、瓶に詰め込む作業が待っている。採石の季節が終わった今、ラウルが手伝ってくれることになっていた。

 道を急いで、雪に足をとられ、すてん! とエリザは転んだ。

「あいたたた……」

 元々雪の積もらない地方で育ったエリザは、どうも雪道が苦手だ。

 霊山にいた頃は、銀の結界が足下を守り、転ぶことなど滅多になかった。冬でさえ、祈りの祠に上がる階段を、裸足で上っていったものなのに……。

 ふと、サリサの手紙の「転んではいませんか?」を思い出し、エリザは切なくなった。だが、すぐに言い聞かせた。

「忘れなくちゃ……」



 エリザの顔を見たとたん、ララァが悲鳴のような声をあげた。

「待っていたわ! エリザ!」

 何事か? と、きょとんとしているエリザの前で、ラウルが真っ赤になって姉を追いかけている。

「や、やめろよ! おせっかいなヤツめ!」

「いいじゃない! いいじゃない! こういうことは、早いほうが!」

 ララァは弟を振り切ると、包みの中からばっと何かを取り出した。

「じゃああん!」

 広げられたものは、真っ白な絹の布だった。

 目にもまぶしいほどの、美しい生地。銀糸の刺繍が織り込まれた、手の込んだものである。

「すごいでしょ? そりゃあ、巫女姫の衣装には負けるけれどね、それに匹敵する生地よ! わざわざ、桑の村まで行って買ってきたんだから!」

 ララァはそう言うと、生地をぱっとエリザの肩に掛けた。

「どう? 私の見立て。花嫁衣装にいいでしょう?」

「馬鹿! まだ、気が早……」

 ラウルの声が、途中で止まってしまった。

 エリザは、目を見開いたまま、ララァのなすがままに布を纏っていた。

 白地の美しい生地が、エリザの銀の輝きを際立たせ、ぱっと顔色を明るく見せた。

 まるで、巫女姫時代に戻ったような華やかさが、エリザを包み込んでいた。

「……きれいだな……」

 惚けたまま、ラウルが呟いた。


 エリザはゆっくりと手をあげてみた。

 そこには、しっとりとした絹の感触があった。


 ――巫女姫たるもの、美しく装うことも必要です。


 凛としたフィニエルの姿が目に浮かんだ。

 エリザは、一生懸命、フィニエルの言葉に従い、完璧な巫女姫を目指して励んだものだった。

 でも……それは、ただひとつの邪な願望のためだった。


 ――サリサ様に、見てもらいたくて。


「ヴェールのほうはね、いいのがなくて。次回、次回」

 ララァの声で、エリザは我に返った。

 今、思い浮かべたことをラウルに悟られたのでは? と思い、慌ててラウルを見たが、彼は、ただただエリザに見とれていた。

 おそらく、初めてエリザを見た『祈りの儀式』の事を思い出しているに違いない。

 ララァのほうが、エリザの不安気な顔に先に気がついた。

「あ? どうしたの? 気に入らない?」

 エリザは、とっさに話を合わせた。

「でも……これ、ものすごく高そう」

 はっきり言うのは申し訳ないが、ロンの店はそれほど繁盛しているわけではない。家賃も高いので、ララァたちはキチキチの生活をしている。

「何も心配しなくていいのよ。これ、ラウルのお金」

「え? 何?」

 ぼっとしていたラウルが、驚いて声をあげた。

「あら? 忘れた? 花嫁をもらうには、それなりに金が掛かるって言ったでしょ?」

「そんな金、ないぞ!」

 昨年の採石シーズンは短かった。ラウルは、思ったほど稼げていない。

「バッカねー! ほら、この家の頭金。あなた、私に預けていたじゃない? あれを使ったの」

 もしも、この話をサリサが知ったら、かなり落ち込んだだろう。

 石をラウルにあげるのさえ嫌がったのに、その石がエリザの花嫁衣装に化けるのだから。

「男って、こういうことに無頓着だから。私が有効活用してあげたってわけ」

 ララァは、まるで自分のことのようにうれしそうに微笑んだ。

「ねえ、エリザ。ヴェールは、春になったらいっしょに見に行きましょうよ。桑の村の市は、中々素敵なものが多くて目移りしちゃう……」

「え? ええ」

 うっとり夢見がちなララァに、エリザは慌てて中途半端な返事をした。

 この調子では、無駄なものまで買ってきそうだ。

「……おいおい、ララァ」

 夫のロンが、不安そうな声をあげた。



 あまりに寒い夜だった。

 エリザは温まる薬草をたっぷり入れたお湯にした。

 ちゃぷん……と、お湯を撫でると、波が立った。

 ふう……と、息をはいた。

 最高神官と逢える夜を、不安と期待に胸を膨らませ、待っていたエリザ。

 それは、はるか、過去のこととなった。

 あの頃、エリザは棒切れのような細い手足を持った、華奢な少女だった。胸はまだ未熟な果実のように堅かった。

 身も心も、誰かを受け入れるなんて、できなかった。

 大好きな人を上手に受け入れられないことを、エリザはどんなに哀しく思ったことか。ぎこちない夜を何度も通り、申し訳なく思い、時に感じているふりすらしてみた。

 だが、最高神官は優しかった。

 初めて結ばれた時は、少し恐怖を感じて動転した。でも、その後はけして無理強いすることなく、彼はエリザを大事にしてくれた。

 やがて……。

 何度も繰り返された口づけは、回数を増すごとに甘さを増した。小さくてカチカチだった胸は、何度も揉みほぐされて柔らかく熟れた。肉の足りない体は、何度も愛撫を受けて丸く柔らかくまろやかになった。


 ――抱かれるたびに、変わってゆく。


 成長したといえば、それまでだ。

 でも、エリザはそう思わなかった。望んで変わったのだ。


 身も心も、サリサ様と分かち合いたかったから……。 


 お湯の中で揺らめく腕に重なる腕は、もう、あの腕ではない。

 次にエリザを抱くのは、ラウルだろう。彼は、やや強引に、エリザを愛するだろう。

 温かいお湯なのに、なぜか体が震えた。

 優しい手や唇や、腕や胸や、銀の瞳や糸の髪を忘れるために……。

 なのに。

 エリザの素肌を愛撫するお湯も、頬を包む湯気も、額に渡る冷気さえも、今はずっと遠い高みにいる人のものになってしまう。

「……ああ、だめ……」

 湯船のふちに腕を掛けると、顔を埋めて泣き出した。

 ラウルとの結婚を決心したはずなのに、エリザはますます囚われてゆく。

 早く忘れてしまいたい霊山の闇の中に―― 



 翌日。

 エリザは、躍起になって掃除をした。

 この寒い季節に、何も窓を開けることはないのに、空気の入れ替えをして。

 何から何まできれいにしないと、自分がますます汚れてしまうような気がする。

 食器はすべて洗い直し、きれいに拭いた棚に戻した。燭台にこびりついた蝋燭もすべてきれいにとり、磨き直した。かまどのススもすべて払った。

 腕まくりし、タオルで口を塞ぎ、ほうきの先にハタキを繋げて、天井のすす払いもした。

 机をどけ、椅子をどけ、ベッドさえも動かして、徹底的に床を掃き、磨いた。

 さらに、絨毯をひっくり返したところで……。エリザは手を止めた。

 焼けこげた紙が数枚。まさかと思った。

 燃やしてしまったフィニエルの日記が、風であおられたのか飛ばされ、絨毯の下に潜りこんでいたのだ。

 エリザは掃除を中断した。

 そして、いたわるようにして、焼け焦げた紙を拾った。

 やや、読みにくくなったフィニエルの文字が、エリザの目に飛び込んで来た。


 やっと得られたはずの光の中に、私のいるべき場所はなかった。

 だから、霊山に戻り、マサ・メル様のもとに戻るしか、私には道がなかったのだ。


 六十年間も故郷を夢見てきたフィニエル。

 なのに……。

 どんなに切なかっただろう?


 エリザの知っているフィニエルは、切ないとか、哀しいとか、そういったものは何も感じさせない女性だった。

 仕え人は、世を捨てた人。彼女は、世を捨て、心を捨てた。

 ぽたり、ぽたり……と、焼けこげた紙に涙が落ちた。

 今のエリザも、いる場所がない。光の中にいながら、いないのだ。

 心は、常に闇に囚われている。


「……私も……戻りたい。でも……」


 フィニエルは強い。

 エリザは、とてもフィニエルにはなれない。

 サリサの美しい髪を梳き、湯浴みを手伝い、背を流し……若く美しい巫女姫が待つ場所へ送り出すなんて。

 平然と、そんな日々を……六十年も過ごせない。


「フィニエル……。許して。私、とてもあなたにはなれない。この世界で、光を取り戻したいの。穏やかに過ごしたいの」


 抱いた夢は、すべて潰えた。

 だから、せめて……この夢だけは、守りたい……。

 ごく平凡な幸せの夢。


 最後に残ったフィニエルの思いは、エリザの手の中で握りつぶされ、ハラハラと散った。

 エリザは、両手を握りしめたまま、号泣した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る