紫嵐隠密組

天柳李海

一の巻 「華と月」

(1)忍軍潰し

 

 草は影

 影ゆえに 月の大事を軽んずれば

 己が心に 光さし入る――



 空にたなびく紫雲の上に、十六夜の月が昇った。

 ようやく出た感のする丸いそれは、梶尾かじお藩主が治める館林の小さな城下町に白々とした光を投げかけている。

 暮れ六つ半(午後七時)の鐘が鳴り終わると、城下の南にある花街の通りには一斉に紅の花提灯に火が入った。


 そのぼんやりと霞むような橙色の明かりに誘われて、ひとり、またひとりと侍や大店おおだなの若旦那衆が現れては、一時の逢瀬を楽しむべく遊廓の中へと吸い込まれていく。


 にわかに活気づいてきた花街の通りに面した旅籠の二階から、一人の若い男がその様子をじっと見つめていた。

 障子を開けてそのふちに腰掛け、柱に背中を預けて片足を立てて座している。黒の着流し姿に長い黒髪。月の光を受けて鈍色に光るそれは、紺色の組み紐で一つに束ねられ、細身だがしなやかな背中に流れ落ちている。


 男は階下の日常的な光景に飽きた様子で目線を上に上げると、花街から聞こえてきたお囃子や三味線の小気味良いその音に耳をすまし、物憂気に右手をあげて頬杖をついた。


 まだ二十代前半と見受けられる男の細顔は、着流しの袖からのぞく若竹のような腕と同じように青白く、半ば伏せた切れ長の眼は、どこか世の中を一歩下がった所から見ているような、斜に構えた雰囲気を漂わせている。


 男は静かに目を開いた。

 同時に左手奥の襖が勢い良く開いて、何者かが部屋の中に入ってきた。


「よかった。まだいたんだな、清月せいげつ

 窓辺に座していた黒の着流しの男――清月は、部屋に入ってきた虚無僧姿の、やはり年若い青年に向かって、薄く笑みを浮かべた。


「どうした、鬼伯きはく。何かあったのか?」

「いや……そうじゃないんだけどよ……」


 鬼伯は手にしていた編笠を畳の上に置き、窓辺に座して丸い月を眺める清月の傍らへと歩いてきた。清月とは対照的な、艶のある白い髪を背中で揺らしながら。


「なあ、清月。今回の館林の仕事……けっちまおうぜ」


 清月は柳眉をしかめ、意外そうに鬼伯の困惑した顔を見上げた。けれど口元にはからかうように薄い笑みが貼りついている。


「どうした? お主らしくない」


 鬼伯はきまり悪そうに頭を掻き肩をすくめた。


「いや……オレとしては、あんな弱小忍軍の依頼を受けても、大した報酬がもらえるとは思えねぇんだ。なぁ、清月。今回の仕事、忍軍潰しだろ? はした金で見合う仕事じゃねえよ。危ない橋を渡った挙げ句、結局一文にもならなかったらどうするつもりだ。だったら最初っからやめたほうが、利口ってもんだろ」


 鬼伯がしゃべり終えたのを見計らって、清月は左手を着流しの袖の中に入れた。そして再び出された手の上には、紫のふくさに包まれた塊が二つ握られていた。


「館林忍軍からすでに前金として百両もらっている。依頼の内容を果たしたら、もう百両をもらうことになっている」


 清月は小判の包みを鬼伯へ差し出した。久しぶりに見る金の輝きに、鬼伯がごくりと音を立てて唾を飲み込む。

 清月は何気ない素振りで小判を再び袖の中へとしまった。


「鬼伯。お主も知っての通り、我らは他の忍軍のように大名に仕えていない。我々『紫嵐隠密組しらんおんみつぐみ』は、我らの力を買いたいという者達の依頼があってこそ、生計を営めるのだ」


「そうだよ鬼伯。お頭の言う通りだ。生きていくのにお金は必要なんだよ」


 お囃子の音に乗せて幼い声が聞こえたかと思うと、清月の座している窓に影が踊った。

 あどけない十三か十四ぐらいの童が、窓の上から頭を突き出し、部屋の中を覗き込んでいる。茶色の短い髪が逆立ったまま、にやりと白い歯を見せて笑った童は、一瞬驚いた表情でこちらを見る鬼伯に向かって、部屋の中に音もなく飛び込んで来た。


小太郎こたろう、何時の間に。お前はさざなみ様と一緒に、紫嵐しらんの里で待つようにって言ったはずだぞ!」


 だが鬼伯の小言は沢山だと言わんばかりに、童――小太郎は舌を出した。


「その漣様に言われたんだい! お頭の手助けをするようにって。ねえ鬼伯。今回の仕事は貴重なんだよ? このやまとの国を東西に分けた戦が、和議という形で終わって以来、おいら達の仕事はどんどん減ってきてるんだ」

「それはわかってるさ。でも……」

「でもじゃない!」


 小太郎は拳を突き上げ、気の強そうな茶色い眼をくりくりさせながら、鬼伯をひたとにらみつけた。


「漣様は霊力で紫嵐の里を守って下さる大切なお方なのに、この二ケ月の間、キノコの雑炊を召し上がってるんだよ。鬼伯はそれを何とも思わないのかっ!」


 憤慨して身を震わせる小太郎の言葉を聞いた途端、鬼伯の今にも説教をたれようとしていた表情がみるまに曇った。


「……うう……それは……ああ……」


 鬼伯は唸り、その場に座り込んで胡座をかいた。


「小太郎。お前の言う事、すっごく説得力あるぜ……。漣様もキノコの雑炊ばかりじゃあ、体がもたないよなぁ……」

「だろー? 鬼伯もそう思ってるんなら、たかが忍軍潰しの仕事ぐらいでびびってんじゃねーよ」


 鬼伯の三白眼がむっとしたように細められる。


「オレはびびってなんかないさ。クソ餓鬼が」


 鬼伯はやおら手を伸ばして小太郎の口をむずと掴んだ。そのまま両手で口の端をぐっと引っ張る。小太郎はもごもごとうなりながら両手をばたつかせた。


「なにすーんだよ! ひていたいーじゃねえか、このとーへんぼく!」

「お前は何もわかっちゃいない、小太郎。オレはびびってんじゃなくて、清月に『仕事を選べ』って言ってるんだ」

ひてーいたいよ、放せったらー」

「……鬼伯、それぐらいにしてやったらどうだ」


 今まで鬼伯と小太郎のやり取りを、傍から面白がるようにながめていた清月が口を開いた。鬼伯はちらりと清月の落ち着き払った顔を見てから、いまいましげに小太郎の口から手を放した。


「鬼伯のくそったれ!」


 小太郎が赤く腫れた唇を庇うように両手で頬を押さえる。

 それを鼻息荒くフン! と鬼伯はあしらった。


「お主の懸念はよくわかる、鬼伯」


 窓際からふらりと清月は立ち上がり、そのまま部屋の柱に立て掛けていた刀を手に取った。黒塗りの鞘に茜色の柄糸が巻かれ、柄頭の先には金色の小さな鈴がぶら下がっている。それがチリンと涼やかな音を立てた。

 ふと清月はその鈴の音で、紫嵐の里に一人残っている漣の声を思い出した。


『この鈴があればどんなに離れていても、あなたの居場所が私にはわかります』


 一瞬だけ鈴に目をやり、清月は目の前に立つ鬼伯の困惑した顔を見た。


「この館林の土地は東の都「会度えど」に近く、我ら「紫嵐隠密組」を敵視する「影王かげおう」配下の「お庭番」も姿を変え多く潜んでいよう。けれど小太郎が言うように、それにいちいち臆するつもりはない」

「清月……」


 清月はまだ何か言いたげな鬼伯の側を通り過ぎ、廊下に出る襖へ手を伸ばした。


「これから館林忍軍の頭と会う約束だ。話を終えたら例の場所でおち会うことにする。子の刻にそこで待っていてくれ」


 鬼伯と小太郎は深くうなずいた。

 それを確認してから清月は、襖を開けてそっと部屋の外に出た。

 後ろ手でそれを閉めて左手に持った刀を握り直す。

 鈴がまるで問いかけるように、再びチリンと小さく鳴った。


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