第30話 霧の中の刃

「今のって……」


「ついてきて!」


 山田は、先ほどまでとは違う厳しい口調で呟くと、籠を放り出して駆け出した。


「え? ま、待って下さい!」


 健作は、自分の籠と山田の籠をウエストポーチに押し込んで、山田の後を追った。


 山田は、木々の間をすり抜け、小石や木の根を飛び越えながら全力で走る。対して健作は木にぶつかりそうになるのを避けたり、石や木の根に躓きそうになってよろけたりしながら、ついていくのがやっとであった。


 そうして、山田が立っている場所に着いた。最初に木登りした喋る樫の木のいる場所だった。


「山田さん、いったいなにが……」


 山田は樫の木を見ながら言葉を失っている。健作も、その視線の先を見て言葉を失った。


 樫の木は無残に切り刻まれていた。


 ナイフによるものだろうか? 痛々しい傷が、何本も無造作に刻まれている。


「……ひどい」


 健作は思わず呟いた。自然にできる傷ではない。何者であれ、加害者の悪意が見えるようだった。


『き、きり……』


 木は微かに絞り出すように言った。犯人の手がかりだろうか?


 山田は震える指で木の傷に触れた。


「大丈夫よ、すぐに……治してあげるからね」


 その声は震えていた。爆発しそうな怒りを抑えるように、努めて優しく言っているようだった。


『ダメ……。わたしはいいから、あいつを追って……。他の子たちが……危ない……』


 途切れ途切れで、今にも消え入りそうな声だった。


「……えぇ、わかってる。わかってるわ……」


 顔を覆った手拭いの上からでも、山田の顔が苦渋に歪んでいるのがわかる。


 その様子が、何故か十魔子と重なり、健作の胸を刺した。


 出会ってから1時間程度だが、彼女らはいい人達だ。決して、このような仕打ちを受けていいはずがない。


 健作の心に煮えたぎるような怒りが沸き起こった時、彼の鼓膜が枝が踏み折られる微かな音を拾った。弾かれるようにその方向を向くと、遥か彼方の木々の間に、白い霧のようなものが見える。それは、意思を持つかの様に移動していた。


 あいつだ!


 殆ど直感であったが、健作は行動せずにはいられなかった。


 健作はポーチから健作と山田の籠を取り出す。異界物質が詰まったそれをドサッと置く。


「山田さんは、彼女を診てて下さい」


「え、健作さん?」


 山田の返事も待たず、健作は大きくジャンプして付近の木の枝に飛び乗り、そこから木々へ飛び移って山の奥に向かう。


「あ、こら、待ちなさい!」


 背後で山田が叫んだが、しかし、健作は止まらない。


 燃え滾る怒りの一方で、冷厳な意思も健作を動かしていた。


 もしも、切り刻まれたのが、父だったら? 母だったら? 十魔子だったら? それをチラッと考えるだけでも、健作は総毛立つ思いだ。あの刃がいつ、何かの気まぐれで大切な人たちに向けられるかわからない。ならば、戦わねばならない。


 昨日、メフィストと対決した時もそうだが、健作は”戦う”という選択肢を選ぶことに躊躇がなくなっていた。むしろ、当然のことだと思っている。いや、正確にはそう思う事すらしていない。息をするように自然と戦うことを選ぶのだ。


 獣は、自らの縄張りを荒らすものを執拗に攻撃する。それは、自分の生活基盤を守るための行動であるが、同時に家族や仲間を守るための行動でもあるはずだ。


 健作にとっての縄張りは、家族であり、友人であり、そして十魔子だ。そして今夜、山田やこの山の木霊たちも健作の縄張りに加わった。


 ならば、彼らを傷つけるもの。あるいはその可能性を持つものはすべからく”外敵”に他ならない。


 健作は、木々の枝や幹を飛び移りながら白い霧に向かう。


 霧に追われて、一本の木が根を必死に動かして逃げる。


 霧の中に人影が見えた。健作は、人影に向かって全力で幹を蹴ってロケットの様に突進する。


 ドカッ!


 固いが軽い手ごたえ。


 その勢いのまま霧の外に転げ出る。


 そして、何度も転がり、健作は”それ”の上に馬乗りになった。


 ”それ”はコートを襟を立てて着ていた、つばの広い帽子を目深にかぶっているので、顔はわからない。が、そんなことはどうでもいい。


 健作は”それ”の胸倉を掴み、怒りを込めて怒鳴った。


「女の子をいじめるのがそんなに楽しいか! 歯ぁ食いしばれ!」


 固く拳を握り、”それ”の顔面に叩きつけた。


 ガシャン!


 何かが砕かれる音がした。

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