第42話月神の港にて、安らかなる眠りを。

 もはや言葉を紡ぐことなど忘れてしまった。忘却の彼方から亡霊が私の名を呼んでいる気がするが、その発音は判然とせず、歌のように流れてくる。岸辺で呼ぶ声にふらふらと近づいて、そのまま海へと引き摺り込まれることなどとうにわかっていた。不凍港・ラティノスと呼ばれるその港には街が広がり、そのうちの宿屋の屋根裏部屋に臥せる私に明日の光など見えようはずもない。いや、ラティノスの民が奉じる月光は窓から差し込んで私の青白い顔を照らし出してはいるが、もはやこの身は硬い寝台から身を起こすことも叶わず、月光を糧とするように渇いたくちびるをひらいて、言葉にならない無声の喘ぎがかすかに埃っぽい部屋の空気を揺らすばかりだ。

 病臥してまもない頃は友も幾人か尋ねてきた。そのうちに画家の若者がいて、私に作ったばかりだという画集を寄越して、得意げにサインを施したのを、苦々しい思いで受け取ったのを思い起こす。帆船と海、港とそこに舞うかもめたちを描いたその本を、私はなぐさめとして何度となく開いては眺めた。

 階下の壮年の主人が届けてくれた味の薄いスープとパン、わずかな果物のほかに、私の喉を通るものはない。主人はともかく、その妻は私を忌み嫌った。家賃を滞納して早半年以上、ねんごろな言葉を望む方がおこがましいだろう。私は主人の妻に嫌味をつぶやかれながらこれ見よがしに部屋中にはたきをかけられるのが不快でならなかった。友人が生けたまますっかり萎れた花々を新聞紙に包んで燃やす炎を窓から眺めているほかなかった日の悲しみが私の胸のうちに湧き起こり、そのうちにかつて恋したおまえの横顔がよぎると共に、胸痛は痛みを増して、私は寝台に身を沈めた。

 奇しくも、この夜も主人の妻は手紙を焼いた。おおよそ内容は窺い知れた。街は変わろうとしていることは新聞で読んだばかりだ。このラティノスは軍港として生まれ変わろうとしていた。そのために、この宿屋を撤去せよとの督促状に違いない。

 煙は高く立ち昇り、私の窓辺へと漂ってきた。吸えなくなって久しい紫煙を欲して窓を開け、煙を吸い込んでむせる。咳き込みはしばらく治らず、やがて音に気づいた主人が階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた。おまえの名も、もう久しくこのくちびるに乗せてはいない。涙を浮かべて席を立てる私の背を主人の厚い手のひらが支え、やがてもう片方の手のひらのうちに握った万年筆を私に示した。他ならぬ、おまえの形見だった。 

 私はそっとそのなめらかな黒いボディを握り、主人が膝に乗せてくれた画帳に、詩を書きはじめる。最後の言葉はまだおまえに聞かせたくない。たとえその先におまえが待つとしても。私は時折咳で身をかがめながら、月神の抱擁という主題を書き切った。主人の手のひらが私の骨ばった背をなで、私の身をふたたび枕に預けさせて、眠りの中へと私は落ちていった。


作業用BGM:Philippe Jaroussky/Passion Jaroussky

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