第36話春風は芍薬の香気を纏って港へ届く
また不眠の夜がはじまろうとしている。世の鳥たちはすでに眠りに落ち、木々は風に揺られてざわめく。そのうちに幾つもの命を宿して。私は窓を固く閉ざしたまま、その音に耳をすませる。窓の外からもれでていた明かりはとうに絶え、ひとり手帳に万年筆を走らせる。
そのうちに怒りをこめてペン先が震えた文字が走っていたり、酩酊とともにもたらされた眩暈によって歪になった文字列が並んでいたりする。
そのうちのひとつにお前の名があった。
ルディア・レシュヴァン。美しく、誇り高い名の示すとおり、おまえは颯爽と花卉を描いたドレスを翻して街を歩いた。あるものは女優だと言い、ある者は卑しい娼婦だと嘲笑った。
夜毎ランプが灯る売春宿の使用人はおまえに声をかけて引き込もうとしたし、歌劇場の主人はおまえを見初めた。
しかし首を横に振ったおまえは、ドレスを纏ったまま、ヒールを履いたうつくしい足で岸辺へと走った。そこから遥か先に見える船影を求めて。
船はついぞ辿り着かなかった。座礁したと伝えられたのも十七年前の昔になる。私は日毎彷徨い歩くおまえの指を彩るエメラルドが嵌め込まれた指輪の元の持ち主だった。
ただそれだけの間柄に過ぎなかった私だが、おまえは宝石商から話を聞いて私のもとを訪ねてきた。
私は言葉少なに売文業に身をやつしていると告げたが、おまえは興味を示さず、代わりに稀覯本のひしめく書架に目を留めた。
そのうちに画集があり、さる無名の画家が手がけたものだ、と私は説いた。静物画を好んで描いた画家で、貧苦に喘いで名も絵も売れず、野垂れ死んだ。
「共同墓地の片隅にある墓は忘れ去られ、花を供えるのは私ぐらいなもので、手入れもままなってはいない。鳩が巣を作っているのを墓守が見かねて追い払ったぐらいだ」
と私が淡々と話す間にも、彼女はじっと絵に見入って、
「これを頂戴」
と一言告げた。
「指輪のよしみだ、受け取るといい。代わりに、船を探すのはもうやめた方がいい。きみが探している男というのはこの画家なんだろう」
おまえは頷いて画集を胸元に抱え直し、その指から指輪を抜き去った。
「これをあなたに」
「なぜ?」
「私の本当に帰りたい場所が見つかったから、もう要らないの。記念にとっておいて」
「これはまた、重いものを預けられたな。午後のお茶でもどうだ?」
「あいにくと、男の誘いにはもう乗らないの」
おまえは笑って去った。それからしばらくの間、私はひとりで静かに紅茶を淹れた。果物を齧りながら、香り高い紅茶を含み、おまえのドレスの裾が風にひらひらと舞うのを思い浮かべた。
数年後、おまえは画集を胸に抱いたまま早すぎる死を迎えた。流行病がこの小さな港町を襲い、またたく間に広まったのだ。私は難を逃れたものの、こうして不眠症を患うに至った。
夜が明けたら、画家の隣に建つおまえの墓に参ろう。私は花屋へ赴いた。軒先に溢れる色とりどりの花々が五月を告げていた。私はそのうちから芍薬を選んで指輪を外す。
「これを、君に返そう。お眠り、ふたり並んで」
私は小さくつぶやいて、その声は春風に巻き上げられて海へと散っていった。
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