Ⅷ-4

 珠恵が去って、すぐさま僕は柱の後ろのめいのもとへ走り寄った。

「大丈夫だ」

 柱にもたれて立っているめいの顔色は、あまりいいとはいえなかった。

「話はだいたい聞こえた」めいは、僕の上着の裾をぎゅっとつかんだ。「小清水くん、周りをよく見ろ」

 一瞬、めいが何をいっているのか、わからなかった。

「柱の前に行って、周りをよく見るんだ。早く!」

 僕は慌てて柱の前に戻り、周囲を見渡した。

 そしてようやく、めいのいっている意味を理解した。

 今まさに、バスに乗り込もうとしてステップに足をかけた彼女の後ろ姿が、僕の目に飛び込んできた。

 たぶん珠恵が何か合図を送ったんだろう。それを見た彼女は、僕がもう立ち去ってしまったと判断したんだろう。その判断は少し早すぎた。

 いつかめいがいったとおり、僕はいつも月子の姿を探していた。自分ではもうそれが意識的なのか、無意識なのかわからなくなるくらい、ずっと。そして僕は恐れてもいた。本当に月子を見かけたとしても、僕にはもう彼女のことがわからなくなってしまっているんじゃないか、と。彼女の顔も、声も、立ち姿も、それらの記憶はだんだんとおぼろげなものになってしまっているんじゃないか、と。

 でも、それは杞憂だった。

 僕は一瞬で、彼女だとわかった。

 ただ、とっさに動けなかったのは、月子がひとりではなかったからだ。

 まもなくバスの扉は閉まるはずだ。

 バス停まで二十メートルほど。 

 でも、僕は動けなかった。

 上着の裾が下向きに引っ張られた。

 僕は苦しそうにあえいでいるめいの体を支えながら、しゃがみ込んだ。

「息を止めて」僕はめいにいった。「いち、に――」

 カウントを始めた僕をさえぎって、めいがいった。

「行くんだ、小清水くん」苦しそうな呼吸の合間に、めいが切れ切れにいった。「これが――最後の――チャンスかも――しれないんだぞ」

「いいから、黙って」

 視界の隅で、バスの扉がゆっくりと閉まっていくのが見えた。

「大丈夫。きっとまた会える」僕はめいの背中に手を乗せた。「だから、息を止めて」

「あのー」そのとき、僕たちの頭上で若い男性の声がした。「大丈夫っすか」

 見上げるとそこに、山下直人の顔があった。


 数分後。

 僕とめいは山下直人の車の後部座席に座っていた。

 めいは僕にもたれかかっている。

 呼吸はもう安定しつつあった。

 直人の車に乗っていた友人たちは、僕とめいを見て、口々に、「その子、大丈夫っすか」「マジ、やばそうっすけど」「病院行った方がよくないっすか」と喋っているのを直人が車から追い出し、代わりに僕たちを車に乗せて、発車させた。

「で、どうします?」

 前を向いたまま、直人が尋ねた。 

「五十四番の市内循環バスだ」めいが答える。「ナンバープレートを暗記した。今から道順をいう。たぶんすぐ追いつく」

「小清水さん。この子、スパイかなにかっすか」バックミラー越しに、直人が僕を見た。

「いいや。ただの、マジカル・スター・エンジェルスが好きな女の子だよ」

 ああ、この子が、という顔で、直人はうなずいた。

「そんじゃまあ、行きますか」

 直人はバスを追って、車線を変更した。


 めいのいったとおり、バスにはすぐに追いついた。

 あとは、月子がどこかのバス停で降りるのを待つだけだ。

 車に乗っているあいだ、直人は僕に、リリコ――このとき僕は初めて彼女の本名を知ったのだけどとりあえずリリコのままにしておく――とのその後についての話をしてくれた。でもそれはまた別の話だ。

 やがて、あるバス停で、月子とその連れはバスを降りた。

 直人はバスの数メートル手前で車を停めた。

 直人に礼をいって、僕とめいは車から降りた。

 月子は僕たちに背を向けて、歩き出そうとしていた。

 僕の手を、めいはぎゅっと握りしめた。

 めいがそばにいてくれることが、とても心強かった。

「月子!」

 僕は叫んだ。

 月子はこちらを振り返った。

 月子と手をつないでいる、小さな女の子も、こちらを振り返った。


 僕と月子は、近くの公園のベンチに座っていた。

 少し離れたブランコに、めいと月子が連れていた女の子が座って、話をしている。

 どうやら、めいの持っているマジカル・スター・エンジェルスのキーホルダーについて、話をしているみたいだ。かなり盛り上がっていた。

 そんなふたりを、僕たちはしばらく眺めていた。

「ほんとに、遥ちゃんの子供じゃないの?」

 僕はため息をついた。

「わかってて、いってるだろ」

「だって、遥ちゃんにはいつも驚かされてばかりだったから」月子は笑った。「覚えてる? あの雪の夜。あのときだって、ほんとにびっくりしたんだから」

「そうは見えなかったよ」

「あのときは、一緒に住んでた子が勝手に部屋を解約して、敷金をもってどっかいっちゃって、ほんとに困ってた。でもまさか、遥ちゃんがあんなことをいいだすなんて、想像もしてなかった」

「いくつ?」僕は女の子を見ながら尋ねた。

「六歳」

「名前は?」

「あかね」

「森下あかね……でいいのかな」

 横目で月子を見ると、彼女はうなずいた。

「あの子を産んだのは、あなたと会う二年前。父親はいない。私が妊娠してるってわかったら、さっさと逃げ出しちゃった。だから、結婚はしていないの」

 僕と暮らしていた頃と比べると、月子は全体的にふっくらとしていたけれど、それ以外はほとんど変わっていなかった。髪型さえほとんど変わっていない。

「家出同然で出てきたから、実家に泣きつくことはできなかった。ただ、幸い、母方の祖母が私のことを気に掛けてくれて、とりあえず子供はその祖母に預けることになった。

 その頃の私はふらふらして、いい加減だったから、祖母はある約束を私にさせた。

 三年間ちゃんと働いたら、祖母のところにいる子供を引き取りに行ってもいい。そんな約束だった。

 ちょうど三年が過ぎようとしていた頃、その祖母が入院した。癌だった。

 少し早かったけど、私は子供を引き取ることになった。

 私は事情を書いた手紙をスーツケースの中に入れて、あなたのもとを立ち去った。

 手紙は、正直いって見つからなくてもいいと思ってた。

 たぶん自信がなかったのね。

 いろんなことに自信がなくて、本当にこれでいいのかって、いつも自分に問いかけてた。

 私は間違っているんじゃないか。

 私は取り返しのつかないことをし続けているんじゃないか。

 そんなことばかり考えてた。

 誰かにそれを指摘されるのが怖かった。

 だから、わざと見つかりにくいところに置いておいたんだと思う」

「その手紙は、結局、君の古い友達が見つけることになった」

「不思議よね。珠恵とふたりであのスーツケースを買いに行った日のことは、いまでもよく覚えてるわ」

 月子はその時のことを話してくれた。珠恵と一緒に働き出したときのことも。そして話は彼女の今の生活のことに移っていった。

「新しい場所で、新しい仕事を見つけた。昼間の仕事よ。子供と二人、そこでしばらく暮らしてみて、ちゃんと生活が軌道に乗るまで、誰とも会うつもりはなかった」

「僕はずっと会いたいと思ってたよ」

「結婚はしてないの?」

「してない」

「もしかして、あれから誰とも付き合わなかったの?」

「付き合ってない」

「好きになった人もいないの?」

「いない」

「嘘つき」

 僕は言葉に詰まった。

「いや。まあ、好きになりそうになったことはあったけど、結局だめだった」

 月子は笑った。

「遥ちゃんって、ほんと、いい人だよね」

 僕はため息をついた。

 月子は、隣に置いたトートバッグの中から、冊子を取り出して僕に見せた。

 それは、沿線情報誌の最新号だった。

「知ってたのか」

「いつも読んでるわよ」

「アルバイトに毛が生えたみたいなもんだよ」

 月子は首を振って、こういった。

「フロム・ナイン・トゥ・テン。

 ショート・ストーリーズのスクリプトは、小清水遥」

「まいったな」

「昔よく聴いたじゃない。びっくりしちゃった」

「たまたま、取材に行った時にディレクターが気に入ってくれて。たまに使ってもらうようになった。でも、いつもってわけじゃない」

「ずっと思ってたんだけど」月子はいった。「あなたには、人を引きつける不思議な力がある。私はずっと、すごいなぁって、思ってた。うまく説明できないんだけど、あなたはたぶん、うまくやれると思う。だから、もう私からの手紙は必要がないのよ」

 そして、いたずらっぽく笑った。

「今度はこんなややこしい女に引っかからないようにね」


 僕とめいは、道路を渡って反対側のバス停でバスを待っていた。

「しまった」

 突然、めいが声を上げた。

「どうした」

「山下直人に、マジカル・スター・エンジェルスのキーホルダーの礼をいうのを忘れた」

 僕は笑った。

「また会えるだろうか」

 めいはいった。

「きっとまた会えるさ」

 僕はいった。

 あのふたつのスーツケースがたどった道に比べたら、それはなんてことないように思えた。


     *


 その同じ形のふたつのスーツケースは、広いスーツケース売り場の隅で、寄り添うようにひっそりと置かれていた。彼女たちはひと目でそれを気に入った。まるで私たちみたいだ。珠恵はそう思ったに違いない。そして、口には出さないけれど、きっと月子も同じ気持ちのはず。珠恵はそうも思ったに違いない。でもたぶん、隣にいる月子の表情からは、そこまで読み取れなかっただろうけど。

 想定していた予算よりも少しだけオーバーしたものの、案外すんなりと決まって、珠恵はほっとしたはずだ。ルームメイトの月子は、普段は物事に無頓着なくせに、時々強いこだわりを見せることがあった。一緒に暮らすようになって半年が経っても、そのあたりの感覚はつかみにくかっただろうと思う。

 少々風変わりなところがあるにせよ、あまりプライベートな部分に干渉してこない月子は、狭いワンルームマンションで共に暮らす相手としては、文句はなかったはずだ。

 お互いに、生まれ育った場所のことはいっさい口にしなかったから、月子がこれまでどんな人生を歩んできたのかはわからなかった。少なくとも、幸せが不幸を上回っているような暮らしではなかったことは、夜中にうなされて自分の声で目を覚ます彼女の姿から想像できただろう。

 わずかなお金と身ひとつで家を飛び出してきた珠恵たちにとって、スマートフォンとネットの世界は唯一の生命線だった。通常のルートで部屋を借りることができない彼女たちがまず身を寄せるのはネットカフェだ。最初はアルバイトをしながら、ネットカフェに寝泊りしていたけれど、長期間居続けるのは限界があった。

 ネットカフェ以外の選択肢はいくつかあった。家出をしてきた女の子に無料で部屋を提供する男性もネットにはたくさん存在した。そういう人たちを紹介するサイトもあった。でも、そういう人たちは当然のように彼女たちに肉体関係を要求した。そんな場所からネットカフェに戻ってきた数人の女の子から、珠恵たちは話を聞いていた。

 別の選択肢もあった。彼女たちのような女性に職場と住むところを斡旋するサイトが、やはりネット上に存在した。珠恵も月子も最終的にはそのサイトを利用した。彼女たちはそこを介して働く場所と寝る場所を得た。職場はたいていが水商売か飲食業で、珠恵が雇われたのも、O市にある、できて間もないキャバクラだった。女の子たちは狭いワンルームマンションにふたりずつ住まわされた。珠恵と同じ日に雇われて同室になったのが月子だった。

 ふたりはそこで半年間働いた。女の子たちの定着率は悪くて、だいたい一か月くらいで辞めていく子が大半だった。

 でも、ふたりは辞めなかった。お互いに励まし合って、なんとか続けていた。

 お金も貯まって、ふたりで北海道旅行に行こうということになった。それで、おそろいのスーツケースを買った。

 北海道旅行から戻ってきてしばらく経った頃、月子が職場を辞めることになった。お客をめぐってのキャスト同士のいざこざは日常茶飯事だったけど、月子はそういう環境にうんざりしていたようだった。珠恵もそれはわかっていたから、止めることはしなかった。月子は小さなラウンジに務めることになった。

 当然、月子は珠恵と暮らしていた部屋を出ていかなくてはならなかった。その頃にはまとまったお金も持っていたし、彼女たちのような境遇の女性に部屋を貸してくれる信頼できる不動産屋とのコネもできていた。働く場所が別々になっても、珠恵は月子とは連絡を取り続けた。

 だから、月子があの雪の降る夜に、ある若い男と暮らし始めたことも、珠恵は知っていた。月子がその男の前から姿を消したことも、その理由も、珠恵は知っていた。

 もうほとんど忘れかけていたその男の名前――小清水遥という名前を久しぶりに目にして、珠恵はしばらく思案を続けたに違いない。

 スーツケースを脇に置いて、手には手紙の入った封筒を持って。

 どう考えても、月子に連絡しないわけにはいかなかった。

 珠恵は、電話をかけた。

 ねえ月子。

 珠恵は、久し振りに言葉を交わす、古い友達にこういったに違いない。

 あのときふたりで買ったスーツケース、覚えてる?

 こうして、同じ形のふたつのスーツケースは、数年ぶりに古い友達同士を再会させた。

 そして、同じ形のふたつのスーツケースは、僕を再び月子のもとへと導いてくれたのだ。

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