Ⅲ-5

 テスト勉強を終えて、しおりは恵子の家の玄関を出た。小さな庭を横切って鉄製の扉に手をかけたとき、背後から声が聞こえた。

「おーい」

 振り返ると、恵子の家の二階の窓が開いて、青年が身を乗り出していた。

「悪かったな」ちっとも悪いと思っていなさそうな、屈託のない笑顔で、青年はしおりを見下ろしている。

 こっちこそ、ごめんなさい。

 せっかく作ってくれたのに、食べられなくて。

 しおりはそういいたかったけど、結局、声にはならなかった。

 首を左右に振るしか、そのときのしおりにはできなかった。

「あんた、好きなものは」青年が叫んだ。

 しおりは首をかしげた。

「好きな食べ物は何だって、いってんの」

 具入りのオムレツ。そういいかけて、しおりは口をつぐみ、一瞬考えた。

 そして、しおりは叫んだ。「作ってあげる」

「あ?」

「今度は、私があなたに作ってあげる」

 そういって、しおりは二階の窓を指さした。

「あなたに、最高のオムレツを作ってあげる」

 きょとんとした青年は、弾かれたように笑い出した。

「こいつぁ、傑作だ」お腹を抱えて笑いながら、青年はいった。「気に入ったぜ。あんた、名前は? 篠原なんてぇの?」

「しおり。篠原しおり」

「よし。篠原しおり、いつでもかかってこい」

 大声で自分の名前を呼ばれたことで急に恥ずかしくなったしおりは、ふいっと横を向くと、そのまま振り返って、歩き出した。

「約束だぞ」

 しおりの背中に向かって、青年が叫んだ。

 その約束は結局果たされることなく、長い年月が経った。

 そのときのふたりには思いもしない、いろんなことがそれぞれに起こった。

 いいことも、悪いことも、だいたい同じくらい起こった。

 そんな、それぞれの日々は、お互いに接点のないまま過ぎていった。

 ただ、ふたりは、このなんていうことのない、五月の土曜日のことを、ふとした瞬間に思い出すことがあった。

 このときの約束は果たされなかったけれど、このなんていうことのない、五月の土曜日のことは、常にふたりを無意識の下に結び付けていた。

 もしかしたら、いつか約束が果たされる時が来るかもしれない。

 もしかしたら、約束はこのまま果たされないかもしれない。

 ふたりにとってそれはもう、どうでもいいことなのかもしれない。

 ふたりが約束を忘れてしまうことは、これから先も決してないだろうから。  

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