Ⅱ 奇跡とまでは呼べなくても

Ⅱ-1

「ちょっと、君。これ、なに?」

 僕の隣に座っている男が天井を指差しながら、若いバーテンダーにそう尋ねたのは、僕たちが店に入って二十分ほど経ったときだった。

 バーテンダーは、一瞬なんのことかわからずきょとんとしたあとで天井を見上げ、「この音楽のことですか?」といった。

「有線やWebラジオじゃないよね。なにをかけているか、わかる?」男はそういいながらカウンターに身を乗り出した。

 そのときまで、僕は店にかかっている音楽に全く気が付かなかった。どうやら八十年代の洋楽のようだったけど、聴いたことのない曲だった。

「あの、これ実は、古いカセットテープなんです」バーテンダーはうしろの棚に置いてあるオーディオ装置を振り返った。「別のものをおかけしましょうか?」

「いや、いい。ああ、やっぱり、ちょっと止めて、そのテープ見せてもらってもいいかな」

「ええ、かまいませんよ」

 そういってバーテンダーはカセットテープをデッキから取り出し、男に手渡した。


 僕の隣でカセットテープをしげしげと眺めている男、村山晃一と直接顔を合わせたのはその日が初めてだった。

 彼はこの街で三軒のライブハウスを経営し、インディレーベルの主宰もしていた。今年で五十一歳。この地方都市の音楽業界(と呼べるほどのものでもないのだけれど)ではそこそこ名の知れた人物で、ここ数年は特に若いミュージシャンの育成に力を入れていた。実際、彼が育てたバンドが最近メジャーデビューを果たしている。

 その日、僕は沿線情報誌のインタビュー記事を書くために、村山に取材をしていた。正確にいうと、取材を始めようとしていた。

 村山の第一印象は決していいものではなく、取材も仕方なく応じているという態度だった。音楽専門の紙面ではなかったから、メリットを感じなかったのだろう。どうせ音楽に詳しくない人間が来て、くだらない質問をするのだと思っていたのかもしれない。編集長と村山が知り合いではなかったら恐らく取材は実現しなかっただろう。

 当初僕たちは、村山の行きつけの店に行く予定だったけど、あいにくその日は臨時休業だった。そこで急遽、僕の知り合いがやっているカウンターだけの小さなバーに変更した。開店したばかりで、客は僕たちだけだった。

 インタビューに入る前、まだ雑談の段階から、彼からはどこか上の空のような印象を受けた。もちろん機嫌はよくなかったのだろうけど、なにか別のことに気をとられているような、そんな感じがした。

 ともかく本題に入ろう、そう思ったとき、「ちょっと話の腰を折って悪いんだが」と僕に断ってから、村山はバーテンダーに声をかけたのだ。


「いまどき珍しいですね」

 僕は村山の手元のカセットテープを覗き込んだ。

 TDKのSR60ハイポジション。

 ということは、CDなどの音源から誰かがこれに録音したということだ。そしてどうやら、ひとつのアルバムをダビングしたのではなく、複数の曲を集めて録音してあるみたいだった。今でいうと、プレイリストのようなものだ。

 兄の影響で僕が洋楽を聴き始めたのが小学校の頃。その頃はすでにカセットテープはほとんど使われなくなっていたけど、兄の部屋にはたくさんのカセットテープが積み上げられていた。ラジオからのエアチェックやレンタルCDのダビングに、当時兄はまだカセットテープを使っていた。


「え? ああ、そうだね」村山はまるで僕がいることをすっかり忘れてしまっていたかのような顔をしていた。「中断させてしまって悪かった」

 彼はバーテンダーにカセットテープを見せて尋ねた。「このテープは、君の?」

「いえ、たぶんオーナーのだと思います」

「そうか」村山は少し考え込んでから真剣な表情で僕に向き直った。「君、この店のオーナーと知り合いだっていったよね。インタビューのあと、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

 そのときには既に村山の不機嫌はどこかに吹き飛んでいて、まるで僕がなにかの謎を解く重要な鍵を握っている存在であるかのような、そんな態度に変わっていた。

「村山さん、そのカセットテープのことで、オーナーに聞きたいことがあるんですよね」と僕はいった。

 村山はうなずいた。

「もしよかったら、そちらを先にしませんか?」僕はスマートフォンを取り出した。

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