Ⅰ-2

 彼の姿を見かけたのはそれからちょうど一週間後の同じ時間帯で、また電車の中だった。前日から降り続いた雨がやんだばかりで、乗客はみんな傘を持っていた。

 みさきが男性に気づいたのは、あのとき彼が下車した駅のひとつ手前の駅を過ぎたあたりだった。一週間前と同じ、ベージュのステンカラーコートを着ていた。彼女が座っている場所から少し離れたところで、つり革につかまって立っている。

 ステンカラーコートの男性は駅に着く直前に、扉のほうに向かった。みさきも立ち上がり、何人かの乗客をはさんで彼のうしろに立った。

 でも、いざ声をかける段になって、みさきは逡巡してしまった。何て声をかければいいんだろう。相手はもう私のことなんて覚えてないんじゃないか。もしかしたらかえって迷惑なんじゃないか。あれほど心に誓ったのに、なかなか一歩が踏み出せなかった。

 電車が駅に着き、扉が開いた。乗客たちが降りていく。彼もホームに降り立った。

 みさきは扉の前に立ったまま動けなかった。もう今さら追いかけても遅いだろう。ところが、彼はすぐに改札に向わず、ホームにあるベンチにカバンを置いて、スマートフォンの画面を見ている。

 どうしよう。

 これを逃すともう二度と会う機会はないかもしれないのに。今度こそ勇気を出そうって思ったのに。

 十七秒――それがこの沿線で電車の扉が開いてから閉まるまでの平均時間だった。十秒が経ち、アナウンスが始まった。

 扉が閉まりはじめる。

 ガラス越しにまだ彼の姿が見えている。

 あと十センチ――扉が閉まりきる直前、みさきの顔の横になにかがすっと差し出され、扉に挟まれた。

 杖?

 一瞬、みさきはそう思った。

 持ち手がごつごつとした木でできている杖のようなもの。それが扉に挟まり、五センチほどの隙間をつくっていた。異物に反応して扉がふたたび開く。

 みさきは、今度はためらわなかった。

 ホームに降り立つと彼のほうに歩いていった。

 彼は、みさきのことをちゃんと覚えてくれていた。そして、ふたたび彼女と会えたことを喜んでいるようだった。

 これがきっかけとなって、二人は付き合いはじめた。


 もし、あのとき扉が開かなかったら。

 二人はよくそのことを話題にした。

 あの杖のようなものはなんだったんだろう。扉のそばに人が立っていたのはなんとなく憶えていた。たぶんあれはその人が扉の隙間に差し込んだのだ。

 でも、なんのために?

 あのとき、ホームに降りたのはみさきだけで、その人は降りなかったはずだ。二人はあれこれと推測したけれど、納得のいく答えは見つからなかった。

 魔法の杖。

 いつしか二人は、あのとき扉を開けたモノのことをそう呼ぶようになった。「あのときの、魔法の杖に感謝しなくちゃね」しばしば彼らは、そんなことを話した。

 またあの魔法の杖の人に会うことがあるだろうか。みさきが電車を降りるとき、ちらっと顔を見た気がするけれど、若い男の人だということしか記憶に残っていない。もし会えたらその人にもお礼をいわなければ。みさきはそう思った。

 でも、そんな機会は訪れないまま、やがて一年が過ぎた。

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