未完成タイムマシン

@tanaka01

第1話

 成人式には行かなかった。

 式の一週間前に、不参加の旨をメールで両親に告げると、翌日の朝早くに父から電話がかかってきた。大学進学のために上京してからというもの、生まれ故郷の九州には一度たりとも帰省せず、実家とのやり取りも半年に一度、大学の成績表を送るついでにメールで近況報告をするに留まっていたため、父の声を聞くのはおよそ一年半ぶりのことであった。

 記憶の中の父は滑舌が良くいつも大きな声で話をしていたが、電話越しに聞く父の声もやはり快活さを感じさせる大声であった。髭面の頬に浮かんだ皺の数までもが思い出されるような以前と何一つ変わらないその声音を聞くと、上京してからの一年半は幻であったのかもしれないと、解し様のない疑念がよぎる。

 その疑念はどうにも質が悪く、一年半と言う月日の実体が希薄になればなるほど、無為に費やした大学生活の空虚が浮き彫りになって、動悸と足の震えを止められなくなった。

 一生に一度のことだ、せっかくだから行っときなさい。

 行き帰りの交通費は出してあげるから。

 父は繰り返しそう言った。いつになく積極的な父の真意が、果たして本当に成人式への参加にあったのかは分からない。ひょっとすると、一年以上も息子の顔を見ていないことに寂しさを感じ、成人式にかこつけて久々の再会を望んだのかもしれない。

 今になって振り返ると、父はこの成人式に限らず、以前から僕と会う口実を探していたようにも思われる。昨年の五月、大学の学園祭が近づくと、父は来訪するから案内しろという旨のメールを業務連絡のような堅苦しい文章で送ってきた。

 僕はサークルに所属していない。またクラスの出し物も形ばかりの参加であった。そのため、学園祭に参加する気が無いと正直に返信すると、やはり堅苦しい文章で残念だと伝えてきたのを覚えている。

 しかし、味気ないメールの文面からは読み取りようもないことながら、このメールを送信する際の父は、ひどく落胆していたように思えてならない。感情や思惑を前面に押し出した文章を書けなかったのは、息子に構いすぎない理解のある親でありたいという健気な矜持が、ともすれば弱音を綴りかねない父の両腕を絡み取ったのだろう。

 父の熱意は電話越しにもはっきりと伝わったが、僕は結局、それを右から左に受け流し、式への不参加を電話口ではっきりと宣誓した。

 父との関係は、少なくとも表面上に限って言えば決して悪くない。父の教育方針に思うところがないではなかったが、今だって不満を表に出さないで留めておける程度には、父への敬意を抱いているし、母との仲も概ね似たようなものである。

 両親との交流を求めて実家に帰省することは無いにしても、だからと言って両親が嫌で実家を避けることもない。上京後、一度も帰省しなかったのは、単に飛行機や新幹線を利用しての長距離移動が面倒だったからだ。

 ただでさえ人混みは苦手である。ましてどう短く見積もっても最低半日はかかる実家までの道のりは、よほどの理由がなければ足を踏み出す気にはなれなかった。

 とはいえ成人式に関して言えば、帰省を動機づける理由たりえなかったのは言うまでもないことながら、むしろ父の熱意を裏切るほどのらしからぬ頑固さを発揮してしまうほどに、不参加への積極的理由が存在した。

 故郷の成人式に参加すれば、小学校や中学校の同級生、そしてかつての担任教師らと再会することになるが、それはあまり好ましい状況ではなかった。

 僕は中学校生活に良い思い出が無いのだ。


 ***


 中学三年生の僕は、当時の担任教師とどうにも折り合いが悪く、原因は様々ながら事あるごとに衝突を繰り返していた。

 もちろん衝突すると言っても教師と生徒の関係である。ただでさえ小心者の僕は担任から一方的に怒鳴られては謝るばかりで、正論を唱えられ悔しい思いをすることもあれば、理不尽な誹りを受けて発散できない怒りを涙で解消するような日々が続いた。

 担任の名前は島崎靖男といった。一年生の時から三年連続で僕の代の学年主任を務めた島崎教諭であったが、僕自身は中学三年生に進級して彼の担任するクラスに配属されるまで、彼との接点をほとんど持たなかった。

 しかし進級直後から、島崎教諭は僕のことを傍目に見ても分かるほど毛嫌いしていた。

 嫌われていた本当の理由は今でも分からない。

 友人らの話すところによれば、単に顔が気に入らなかったからだとか、学業成績が良いわりに挙手、発表等での授業への貢献が少ないのを知っていたからだとか、説教を食らっている最中に表情が変わらないせいでなめた態度をとっているように見えるからだとか。

 いずれにせよ、僕と島崎教諭はどこか根っこの部分で絶望的なまでに相性が悪かったのは間違いない。僕が彼の挙動に悩まされるのと同じくらい、きっと彼も僕の振る舞いに不愉快な何かを感じていたのだろう。

 島崎教諭は何かにつけて僕に仕事をさせたがった。新クラス発足直後のクラス委員の選定では、いつまで経っても立候補者が現れないのを見かねたのか、彼は突然に大声を上げて、なんでやらんとや、と立候補しない僕を叱りつけた。

 どうして僕だったのだろうか。

 クラスには30人もの生徒がいたのに。

 訳も分からないまま罵倒され大混乱に陥った僕は、「すいません、すいません」とただひたすらに頭を下げた。

 結局、クラス委員の役割は引き受けたが、その後も島崎教諭の怒りが収まることはなかった。彼は委員の任期中ずっと、僕が行う仕事について粗探しをしてはクラスメイトらの前で批判を繰り返した。

 クラス委員の仕事の一つに、帰りのホームルームで一日の反省を述べるというものがあった。これが意外に厄介で、何か一つでも反省点を見つけなければ、お前は本当にクラスのことを見ていたのか、と島崎教諭からお叱りを受ける。とは言え、馬鹿正直に悪い所を指摘すれば、今度はクラスメイト達の反感を買う。

 この反省会で僕に出来ることと言えば、とにかく婉曲的な表現を用いることで、島崎教諭とクラスメイト、両者の批判をかわすことただそれだけであった。

 しかし、とかく僕を罵倒したがる島崎教諭が、僕にスポットライトが当たるこのひと時を見逃すはずもない。彼は毎度のように僕を非難した。

 授業中に眠っている生徒が多かったものだから、「授業中に頭が下がっている人がいました」と曖昧な反省を述べたところ、どうしてお前が注意しないんだよ、と怒鳴りつけられたこともあった。

 当時、教室の中でも廊下側の席に座る僕が、真反対の窓側にいる生徒に向かってどう注意すればよいというのか。授業中に突然大声を出して、「小林君、ちゃんと起きて授業聞こうよ」とでも言おうものなら、僕は教室中の笑い者になってしまうだろうし、名指しで注意された生徒はとんだ晒し者だ。

 そもそも中学生は仕切りたがる人間が嫌いなものだ。隣の席でうつらうつら舟を漕ぐ生徒に小さく声をかける程度であれば、あるいは単なる厚意として受け取ってもらえるのかもしれない。しかし、たかが口頭の注意とはいえクラス委員として偉そうな振る舞いを見せてしまえば、調子に乗っていると陰口を叩かれるのは必至であった。

 島崎教諭から向けられる指図がおよそ中学生の現状に適していなかったのは言うまでもないが、さらに納得がいかないのは、この反省会で僕と全く同じ発言をした女子クラス委員に対しては一度たりともその怒号を向けたことはなく、挙句の果てに、彼女が委員会の仕事で何かのミスを犯そうものなら、その失敗がさも僕の責任であるかのように話をすり替え、ここぞとばかりに僕を罵倒したことであった。

 つまるところ、島崎教諭の言動その端々には、隠し切れない僕への悪意が透けて見えていたのである。

 とはいえ、島崎教諭に叱られること自体はさしたる問題ではなかった。もちろん、意味も分からず怒られれば嫌な思いはする。一時間以上もの間直立の姿勢で説教を受け続ければ、頭の中にはノイズが走り、額にはべたべたとした汗が張り付くこともしばしばであった。

 一方で、島崎教諭は物理的な暴力に訴えることだけは絶対にしない人物であった。彼から向けられる悪意はただ精神的なものにとどまっていて、当時の僕にとっても、決して耐えられないほどのものではなかったのだ。

 しかし、島崎教諭の言葉それ自体は平気であるにしても、クラスメイト達の前で毎日のように恥をかかされるのはとても辛かった。

 もとより僕は高いプライドと強い虚栄心を持ち合わせていた。それは勉強も運動も人並み以上にできるという実際的な能力に依る部分もあったし、生まれながらの性質として人の目を気にしすぎる面もあったように思う。

 いずれにせよ僕は、クラスメイト達から下に見られるのが嫌で仕方なかったのだ。

 叱られてばかりの僕のことをクラスメイト達がどう思っていたのかは分からない。島崎教諭の説教には理不尽なものも多く、大半の生徒は僕に対して同情的ですらあったのかもしれない。

 もしあの時、島崎教諭に対する正直な不満を友人らに漏らしていたら、彼らはきっと、たくさんの慰めを僕に与えてくれた。そうすれば当時の僕も随分と救われていたに違いないのだ。

 しかし当時の僕はあまりにもプライドが高すぎたせいで、友人らの前で島崎教諭の名前を口にすることなど出来はしなかった。

 会話の中で島崎教諭に触れてしまえば、僕が彼を意識していると知られてしまう。そのような敗北宣言は絶対に避けなければならなかった。

 僕は弱い人間だとは思われたくなかったのだ。

 島崎教諭が関わる思い出はどれもこれも嫌なものばかりだが、特に耐え難かったのは学校行事の一つ、合唱コンクールにまつわるものだった。

 中学の合唱コンクールは十一月の頭に本番を迎えたが、練習に必要な時間を考慮して、曲の選択及び伴奏者、指揮者の選定は五月の中頃に行われた。

 その日、合唱コンクールに関する話し合いのために、五・六限通しのロングホームルームが設けられた。話し合いはまず曲の選定から始め、続けて、曲の難易度を踏まえた上で伴奏者と指揮者の立候補者を募るという流れであった。

 僕はクラス委員として話し合いの司会進行を担当していた、

 希望曲の選定はすぐに済んだ。何のことはない。ただ希望曲に投票してもらうだけのことである。

 しかし問題は、続いて行われた伴奏者決めであった。

 まず立候補者を募ったが、手を挙げる者は誰一人としていなかった。

 クラスにはピアノの経験者が僕を含めて六人いたが、誰もかれも受験勉強の妨げになるからだとか、最後の部活動に集中したいからだとか、ピアノを止めて数年経つからだとか、もっともらしい理由を掲げて伴奏者になることを拒んだ。

 拒絶の意思はいつだって語らずに表明される。

 その後の沈黙と言ったらなかった。司会として前に立つ僕は、まるでクラス中から責められているような魔女狩りの気分を味わわされた。

 刻限は間もなくやって来た。

 結局、話は翌日以降に持ち越しとなり、その日はとりあえずピアノの経験者全員に候補曲五つ全ての楽譜を渡し、自宅で今一度考えてもらうこととした。

 翌日改めて伴奏者決めのためにロングホームルームの時間が取られた。まず前日に楽譜を渡した面々にピアノを弾く意思があるか確認したが、好ましい返事は一つも得られなかった。

 僕自身そうだったので分かる。全員はなから伴奏者を引き受ける気など無かったのだ。楽譜を持ち帰ったのだって、周囲の目を気にして一応は考え悩んでいる振りをしたに過ぎない。

 誰か弾いてくれませんかと僕が繰り返したところで、教室は沈黙に包まれるばかり。候補者たちは仕事を引き受けないことによる罪悪感からだろうか、それとも万が一にも仕事を押し付けられることへの恐怖だろうか、皆一様に表情を強張らせていた。

 一方、伴奏と縁のない生徒たちは、つまらない話し合いが続くことへの不満を隠そうともせず、気だるげな気持ちを表情に貼りつけていた。

 僕は途方に暮れていた。

 実をいうと、その前年度、二年生の時にも僕は全く同じ状況を経験していた上に、結局その時は、担任の山下教諭に絆される形で伴奏を引き受けてしまった、という苦い思い出があったのだ。

 今思うと、山下教諭の説得は非常にふざけたものであった。

 彼女が繰り返し言うことには、二年生で伴奏を引き受けてくれれば、三年次には決して僕に伴奏者を押し付けたりしないと約束する、だからその年二年生の時ばかりは伴奏を引き受けて欲しいということだった。

 そもそも中学三年間で僕が必ず一回はピアノを弾かなければならないという訳でもないのだから、この年伴奏をしたから次の年は伴奏をしなくても良いなどと言う理屈は全くもって意味を持たない。山下教諭が提示した約束はおよそ僕の感情に訴えかける以外には何の効力も持たなかった。

 しかし、当時の僕は毎日毎日放課後に山下教諭の呼び出しを受けては説得の言葉を聞かされる日々に辟易していたし、なにより、伴奏を断り続けることで周囲から思いやりのないやつだと白い目で見られるのが怖かった。そのため結局は伴奏を引き受けてしまったのだ。

 その年の伴奏自体は問題なく終了したものの、山下教諭との約束が守られることはなかった。というのも、これが彼女のふざけたところであるが、彼女は僕が三年生に進級すると同時に他学校へ異動となったのだ。

 山下教諭本人がいないのでは約束も何もない。大体、冷静に考えると、彼女が学校に残ったとして、果たして引き続き僕の担任教師になっていたかどうかも分からない。彼女と交わした約束はあらゆる面において意味をなさないものであったのだ。

 つまるところ、当時の僕にはまともな分別など具わってはいなかったのだろう。無意味なはずの山下教諭との口約束を心の拠り所として、三年次には絶対にピアノを弾かなくても良いのだと妄信していた。

 他の伴奏候補者らにも言えることではあるが、きっとあの場における僕の態度は、はなから伴奏を引き受けるつもりなどないことが透けて見えるものであったに違いない。

 島崎教諭はひょっとしたら僕の衷心を見抜いていたし、だからこそ怒りを募らせていったのかもしれない。立候補者など一向に現れず、静寂が続くばかりのホームルームで、次第に島崎教諭の苛立たしげな貧乏ゆすりの音だけが存在感を増していった。

 島崎教諭のジャージが擦れる音が大きくなるにつれて、僕の頭の中にもノイズが広がっていった。最初、音だけで主張を始めたそのノイズは、次第に白黒の砂嵐となって視界を覆った。

 酷く悪心を感じた僕は、早くこの話し合いが終わってくれないかなと、そればかりを願うようになっていた。

 島崎教諭が突然に挑発するような大声を出したのは、ちょうどその折だった。

 なんでお前が弾かんとや、人に頼むくらいならお前が弾けば良いやろうが。 

 島崎教諭はそう言った。

 お前とはもちろん僕のことで、島崎教諭はその鋭い目つきをはっきりと僕の方へ向けていた。

「弾きたくないです」と返せば、去年は弾いたやろうがと怒鳴られ、「去年は他に人がいなかったから弾いただけです」と反論すると、今だって誰も弾く奴がおらんやろうが、ともっともな返しをされた。

 その時の僕は内心色々と思うところはあったが、それを島崎教諭にぶちまける勇気などあるはずもない。おまけに、胃の奥から突き上げるムカつきのせいで、真面に口を開く元気すらなかったものだから、「弾くつもりはありません」とだけ震える声で返答するに留めた。

 島崎教諭が僕の言葉をどのように受け止めたのかは分からない。しかし彼はハッと嘲るように笑い、お前は本当に自分勝手で自分のことしか考えとらんのやな、クラスのことなんか何にも考えてない、と粘り着く声で言った。

 島崎教諭の言葉は僕の脳内を真っ白にした。

 どうしてピアノを弾かないくらいで自分勝手と詰られなければならないのか、弾かないのは他の生徒達だって同じではないか、元々やりたくもないクラス委員まで引き受けているのにどうして伴奏者までも押し付けようとするのか。

 どうしようもない理不尽に対する怒りが、頭の中を所狭しと泳ぎ回った。

 結局その日の伴奏者決めは僕への罵倒に終わり、伴奏者が決まることはなかった。話し合いはまたもや翌日以降に持ち越しとなったが、改めてロングホームルームの時間を設けることは困難であったため、その後の話し合いは昼休みを潰して行われた。

 話し合いは二週間続いたが、いつまで経っても立候補者は現れなかった。島崎教諭は毎日話し合いに参加したわけではなかったが、偶々教室に足を運んだ折には、僕のことを自分勝手だなんだと非難した。

 島崎教諭がいない時も決して気楽な話し合いなどではなかった。彼の呪詛が奏功したのだろう、僕が伴奏を引き受けないから昼休みが潰れるのだという、クラスメイト達からの敵意に晒される羽目になった。

 あるいは、そのような敵意など本当は存在しなかったのかもしれない。ひょっとすると、中には理不尽な詰りを受ける僕を見て、同情してくれた者もいるのかもしれない。

 しかし追い詰められた僕には、もはや自身に向けられる感情全てを敵意と一括りにして処理するほかには、状況を把握する術がなかったのである。

 話し合いとは名ばかりの僕に対する拷問がどのように遂行されたのか、その仔細を思い出すことは出来ない。覚えていることと言えば、当時僕はただただ辛くて学校に行きたくないと、そればかりを考えていたことである。

 しかし、それまで優等生として振舞ってきたせいもあって、そしてプライドが邪魔をしたせいで、両親の前では弱みを見せることなど出来る筈もなかった。絶望的な感情を押し殺して毎日登校する他なかったのだ。

 話し合いに関する正確な記憶はない。しかし、一つだけ確かなのは僕の心が二週間にも渡るそれに耐えられなかったことである。

 三週目に入ろうかというタイミングで、僕はとうとう決心した。

 昼休みになると、僕は相方の女子クラス委員と共に、島崎教諭がいる体育準備室に向かった。

 伴奏者を引き受ける旨を伝えるためであった。

 この報告に行くときの僕は、少しばかり晴れやかな気持ちであった。もちろんピアノを弾くのは嫌だったが、それでも話し合いの場で晒し者にされる日々が続くよりはずっとましなのだと、心が弾んだ。

 しかし島崎教諭から返ってきた言葉は、僕の想定の埒外にあった。

 島崎教諭が言うことには、今まで駄々をこねて散々クラスメイトに迷惑をかけたのだから、今さら伴奏をしたいなどとふざけたことは断じて許されない、と言うのだ。

 島崎教諭はひとしきり僕のことを非難した後に、最後にもう一度だけ、ダメ弾かせない、と言うと、手をひらひらさせて教室に帰れと示しながら、体育準備室の扉を閉じてしまった。

 お褒めの言葉を頂戴できるとは露ほども思っていなかったが、まさか伴奏者になることを認められないとは予想だにしないことであった。

 僕は訳も分からないまま教室に戻り、島崎教諭からの許可が下りなかった旨をクラスメイト達に伝えた。

 クラスメイトの多くも事態を理解できなかったようで、教室はざわざわと喧騒に包まれた。そんな中、一人の女子生徒が手を挙げて、とりあえずもう一度島崎教諭の下に向かい謝った方が良いと言った。

 僕は自分が悪いことをしていたつもりなど一切なかったし、なぜ島崎教諭に謝らなければならないのかさっぱり分からなかった。加えて、謝るように提案した女子生徒が他ならぬ伴奏候補者の一人であったものだから、何を白々しく提案などしているのだろうか、お前が伴奏を引き受ければ済む話じゃないかと、怒りに身を任せその女子生徒をぶん殴ってやりたい衝動にも駆られた。もちろん臆病な僕は、そのようなことはせずに、大人しく女子生徒の案に従う他なかったが。

 正直なところ、なぜ僕が弾きたくもないピアノを弾くために下手に出なければならないのかと、納得できない点が多分にあった。しかし仮に僕が島崎教諭の言に従って立候補を取り下げたとして、他に新たな立候補者が出てくるとは思われなかった。また、その後も昼休みの話し合いが続行されたとして、ピアノを弾く意思があるのなら僕が島崎教諭を説得すればよいだけではないかと、クラスメイト達の不満の矛先が僕に向けられるのは目に見えていた。

 もはや逃げ道など残されてはいなかったのだ。

 しかし島崎教諭は、ダメ、と言った。お前には絶対に弾かせない、と続けると、またもやそっぽを向いてしまった。

 僕としても引き下がるわけにはいかなかった。何度も何度も「すいません」を繰り返したが、島崎教諭もやはり、ダメ、と繰り返すばかりであった。

 結局、翌日以降も昼休みの話し合いは続行された。

 しかし話し合いの実態は被告人『僕』に対する裁判で、クラスメイト達の中では僕が伴奏者になるのだと確定しているものだから、島崎教諭を説得してこいとせっつかれるばかり。

 促されるまま不満を押し殺していざ島崎教諭の下へ向かい謝罪と懇願を繰り返したところで、島崎教諭もまた、ダメ、なめるな、を繰り返すばかりでまともに取り合ってはくれなかった。

 またもや追い詰められた末に、今度こそ登校拒否してやろう、もう絶対に学校には行かないと頭では考えながらも、実際の行動を起こすことは終ぞ叶わなかった。自分がいなくなれば、部活やクラス委員の仕事を含め、周囲にどれだけの迷惑がかかるのかと考えると、そして、期待をかけてくれる両親のことを思うと、不良息子を演じることなど出来はしなかったのだ。

 とはいえ、頼れる人間も両親しかいなかった。

 不良息子とまではいかないにしても、できた息子の仮面をひとまず投げ捨てて、両親に相談するくらいのことは許されるはずだと考えたのだ。

 しかし、それをしたところで事態が好転することはなかった。

 むしろ相談などしないままでいた方が、僕の心中はよほど穏やかでいられたのかもしれない。

 当時僕が抱いていた思いは甚く単純で、結果的に伴奏者を引き受けるかどうかなどもはや重要ではないから、一刻も早く伴奏者決めに関するいざこざの中心から解放されたいというその一心であった。

 伴奏者を引き受けるのは本当に嫌だけれど他に弾く人間もいない、島崎教諭に怒られてクラスメイト達から後ろ指を指されるのはもっと辛い、だから最悪ピアノを弾くのは構わないから、早く話し合いを終わらせたい、どうすれば良いか。

 僕は精一杯の言葉で両親に尋ねた。

 両親が僕の懇願をどのように受け取ったのかは知らないが、彼らの答えは僕の期待を大きく裏切るものであった。

 彼らは僕の話を聞くと、大変嬉しそうな表情を見せた。笑顔の理由は簡単で、僕が伴奏者という名誉ある役割を引き受けることが嬉しくてたまらないのだ。

 どうやら息子の活躍と言う事実が両親にとっては大きすぎたようで、僕の相談の真意になどは少しも気が回らない様子だった。

 両親は、頑張れ、お前は期待されている、わが子が晴れ舞台に立つことは本当に嬉しい、と繰り返し言った。

 彼らの態度は、当時の僕にとって本当に耐え難いものであった。学校はもちろんのこと、自宅でさえ味方はいないのかと思うと、夕食もまともに喉を通らなかった。

 今になって思うと、当時の僕は相談という行為に不慣れであったのだ。どこまでいっても無駄なプライドが邪魔をするものだから、本気の相談でもどこか冗談めかした態度をとってしまう。曖昧な振る舞いが両親の心を動かすはずもなかった。

 大体のところ、相談事の結果として即座に好ましい対応を得られないなんて、何もその時に限った話ではない。

 あの時の僕は、両親に本心を告げることで、彼らが学校や島崎教諭に文句を言って、事態を急に好転させてくれるような過大な期待を寄せていたが、わが子の活躍を願う両親にまさしくその活躍を妨げるような相談事をぶつければ、ただ励ます以外の言葉が出てこないなど自明のことであったのかもしれない。

 しかし、当時の僕はよしんば解決策が得られないにしても、ただ悩みに共感してくれる味方が欲しかったのだ。あるいは、本当は解決策なんてどうでも良くて、僕が抱いた悩みや怒りが正当なものだと客観的に証明してもらいたかったのかもしれない。

 いずれにせよ両親は味方ではなかったのだ。

 自宅はもはや不快な空間へと成り果てた。

 不調で夕食が喉を通らないのに、好き嫌いをするなと説教を受ける状況は、まさしく僕をとりまく環境を象徴していた。

 学校と自宅、二つの世界しか知らなかった僕はとうとう居場所を無くし、所在なく漂う哀れなクラゲと化した。

 自宅と学校とを無気力に往復し、島崎教諭に頭を下げては罵られ、両親の不愉快な笑顔に吐き気を催すだけの生活が十日間ほど続いたところで、ようやく島崎教諭から、ダメ、ふざけるな、なめるな、以外の言葉が聞けた。

 お前は毎日毎日俺に謝りに来とーが、まず他に謝る相手がおろーが。

 お前、クラスメイトにはちゃんと謝ったんか。

 今まで自分勝手やってきたんやから、俺の前にまずクラスメイトに謝らないかんやろーが。

 それから弾かせてくださいってお願いせないかんやろーが。

 島崎教諭はそう言って、回転いすの背もたれに思い切り体重を乗せた。

 キィと、金属の軋む音がした。

 僕は、はいすいません、と島崎教諭に頭を下げて教室に戻ると、クラスメイト達にも頭を下げた。

 今まで自分勝手を言ってすいませんでした、どうか伴奏させてください。すいませんでした。お願いします。本当にすいませんでした。お願いします。

 ひたすらに頭を下げ続ける僕の姿は、彼らの瞳にどう映っていたのだろうか。彼らは黙り込み、教室は沈黙に包まれた。

 そして沈黙を破ったのは、やはり、途中から教室に戻ってきた島崎教諭であった。

 ダメ、全然心がこもってない。

 島崎教諭はそう言って腕組みをすると、お前は本当にふざけた奴やな、と続けた。

 厳しい罵倒ではなかった。ただいつも通りの言葉で、いつも通りに罵られただけ。しかしそれまでのおよそ四週間にも及ぶ出来事は僕の心を決定的に痛めつけていたようで、島崎教諭の言葉を聞いた瞬間、僕は訳も分からず泣き出してしまった。泣き声こそ出さなかったが、顔をくしゃくしゃにして、眼鏡を濡らし、体を震わせながら、泣いてしまった。

 泣けば許されるとでも思っとーとか、おい、と島崎教諭は言った。

 許されるとか許されないとか、悲しいとか悲しくないとか、確かな理由があって泣いたわけではなかった。その時の涙は、感情や思いが溶け出して言葉と言う形を失った末にこぼれ出たものであった。

 ごめんなさい、ひかせてください、おねがいします。

 僕は視線の焦点も定まらないまま泣き続けた。


 その後何が起こったのかは全く覚えていない。しかしいつの間にか僕は伴奏者に決定しており、隣のクラスの友人は「泣いちゃだめだよ」と僕を諫めた。

 合唱コンクールの結果は、五クラス中二番であった。練習に励んでいたクラスメイト達は、一番になれなかったことをとても悔しがっていた。

 当の僕はと言えば、伴奏自体はミスタッチもなく無難にこなし、なによりもようやく合唱コンクールやそれにまつわる責め苦から解放されたことに心底安堵していた。

 もちろんその後の僕が残りの中学生活を楽しめたはずもない。学校でも自宅でも、僕は周囲と談笑しながら、本質的には孤立した。

 ある時、社会科教師とクラスメイトの一人が会話をしているのが聞こえた。

 合唱コンで二番だったのは伴奏がしくったからじゃねーの、クラスメイトが隠す気もない大声で言うと、「何言ってんだ上手に弾いてただろ」と社会科教師は反論した。

 そのクラスメイトに対して、僕は怒ればよかったのだろうか?


 ***


 成人式には行かなかった。式の会場で中学生時代の知人を見るのが嫌だったから。

 中学校にも楽しかった思い出はたくさんある。少なくとも二年生までの僕は明るく学校に通っていたはずなのだ。

 しかし最後の合唱コンクールと言うただ一つの嫌な思い出が、幸せだったはずの二年間を肯定することを許してはくれない。

 ……三年生の嫌な記憶に引きずられ、中学校生活すべてが辛い過去へと成り果ててしまったが、そもそも中学生活三年間と言う区切りに意味はあるのだろうか。

 およそ七十年は続くであろう人生を考えた時に、たった三年間の出来事がどれ程の重みを持つというのか。終わり良ければ総て良しとはよく言ったもので、人生のゴールがどこかは知らないが、少なくとも中学卒業でないことは確かである。中学生時代の嫌な思い出など邪魔ならば切り捨ててしまえばよいはずだ。

 しかし同時に、その諺は果たして真実なのだろうかと僕は時々考える。もし島崎教諭と揉めたのが二年生の時であったなら、楽しい三年生の思い出によって塗りつぶす形で、僕は中学三年間を良い思い出として回顧することができたのだろうか?

 そうであったら良いなと思う。

 しかしきっと出来なかったのだろうとも思う。

 結局、島崎教諭との出会いが僕にもたらしたものは不愉快な思い出などではなく、僕自身の人間性の変化、世の中と向かい合う上でのスタンスの変容であった。

 思い出が客観的に見て良いものであったかどうかは、もはや何の意味も持たない。良い思い出を良いと感じられなくなったのが僕を冒す病症の本質である。

 夜眠る前、未だに考えるのは、あの時の島崎教諭の言動にも確かな道理があったのではないかということ。

 もちろん、彼をかばいたいわけではない。

 つまり、子供という弱い立場である時期に、理不尽を以て叩き潰されたという口惜しさが僕をずっと苦しめている以上、彼の言葉がどこまで辿っても正論であったならば、きっと今の僕はこれほどまでに情けない人間にはなっていないように思われるのだ。

 振り返ってみれば、島崎という教師は決して嫌味なばかりではなかった。たまにいる勉強も運動も、コミュニケーションさえも上手くできない生徒に対しては、彼らを本来は日直の仕事であるところの黒板消し係に任命して、しかもその黒板消しの技術をみんなの前で褒めてあげたりと、どうにかしてクラス内での立ち位置を確立して、自信を付けさせてあげようと努力していたように思う。

 僕に対する振舞だって、ひょっとすると個人的に嫌われていた部分もあるのだろうが、基本的には僕への指導・教育を第一目的としてくれたのかもしれない。

 例えば、あえて厳しくすることで、勉強のできる僕が傲慢な人間にならないように気を遣ってくれたのかもしれない。

 また例えば、クラス委員や伴奏者など、とかく仕事を押し付けたがったのも、僕がそれを引き受ける前提でクラス編成をしてしまった以上、やむを得なかったのかもしれない。あるいは、公立進学校への合格を目指す僕には内申点が十分でないものだから、無理やりに押し付けてでも僕に実績を積ませようとしたのかもしれない。

 しかし島崎教諭の言動にどれだけ好意的な解釈を加えたところで、やはり彼のやり方は単なる理不尽に過ぎなかったのではないかと、僕は疑いを拭い去れない。

 教育目的で僕に厳しくするのなら、わざわざクラスメイト達の前で晒し者にする必要はあったのか。

 内申点を慮って僕に伴奏者を押し付けたのなら、一度立候補した時に拒否したのはどうしてなのか。

 何の仕事も引き受けないで揉め事ばかりを起こすクラスのヤンチャ者に対してはにこにこと親しげに話しかけるくせに、心を押し殺してまで仕事を引き受ける僕には罵倒しかくれないのはなぜなのか……。

 少しでも疑いが生じると、島崎教諭が僕に向ける全振舞の背景に悪意が幻視されてしまって、僕は頭痛を止められなくなった。

 学級委員の仕事を僕に押し付けたのは、他に立候補者もいないし単なる嫌がらせであったのではないか。

 女子学級委員には優しく振舞い、僕にばかり厳しくするのも、やはり僕をいじめたかっただけではないか。

 伴奏者決めで僕ばかりに弾かせたがったのも、僕ならば無理やり弾かせても気が咎めなかったのではないか。

 いざ伴奏者に立候補した僕を否定したのは、単に僕の意向が通るのがおもしろくなかったのではないか。

 クラスメイトの前で謝罪させたのは、僕に恥をかかせてやりたかったのではないか。

 とめどなく溢れ出る思考の中で、島崎教諭の印象はますます理不尽の権化となる。

 仮に島崎教諭が教育目的で僕にきつく当たっていたにせよ、そもそも彼は僕のどのような部分を矯正しようと考えていたのか。ひょっとして彼は、僕のことを目立ちたがりで驕りやすい性格だとでも思っていたのかもしれないが、その認識は全くの誤りだ。人前に立つのは好きではない。驕るどころか、僕はいつ仕事のミスで周囲から後ろ指さされるかと、常にびくびくするばかりの小心者であった。それまで仕事を引き受けてきたのだって、能力的に相応しいのではないかという先入観に脅されて、精一杯の勇気を振り絞ってのことだったのだ。

 あるいは、実際に仕事をしている時の僕は、周りから見れば恩着せがましい不埒者に見えたのだろうか。そうではないと信じたいが、仮にそうであったにしても島崎教諭がそれについて僕を責めるのは明らかに適切ではない。そもそもやりたくもない仕事の中にやりがいを見つけるためには、人間だれしもが持つ傲慢な心に頼る他ないではないか。その傲慢をクラスメイトに指摘されるならばともかく、無理やり仕事を押し付けた島崎教諭本人から非難されることだけは許せなかった。

 とにもかくにも、島崎教諭の僕への教育は、そこに悪意があったにせよ、なかったにせよ、結果こうも歪んだ僕が完成した以上、完全に誤ったものだったのだと思う。

 そして教育者という視点を除いても、ただ理不尽に怒鳴り散らすだけの島崎教諭は、一人の大人として、最低な人物であったように思われる。


 近頃の僕はどうしようもない未来地図ばかりを思い浮かべている。

 その地図はどの道を辿っても、僕の破滅に向かっていた。

 決して不幸な未来を望んでいるわけではないのだ。しかし万が一にでも僕が幸せな人生を送ってしまえば、僕に対する島崎教諭の教育は結果として正しかったということになってしまう。

 それだけはどうしても耐えられない。

 あの瞬間、僕が伴奏者を引き受けた瞬間に、どうだお前のために弾かせてやったぞと島崎教諭が悦に入っていた可能性を考えると、僕は今なお怒りに震える両拳を御しえない。

 僕は例え人並みの幸福から遠ざかったとしても、教育者としての島崎教諭を貶めることで、倒錯した幸せに浸る方がよほどましだと考えているのだ。

 ……しかし、そんな破滅的な未来願望を抱きながらも、僕は本当の意味で幸せな未来を追い求める自分がいることにも気づいている。

 夜眠る前の妄想は、時に後悔、あるいはあり得たかもしれない過去への羨望に繋がっていた。

 妄想の中の『僕』は大層気が強かった。

 クラスメイトに謝ってピアノを弾かせてくださいってお願いしろ、そう島崎教諭が宣えば、『僕』ははっきりと言い返すのだ。

「いいえ、謝ったりはしません。お願いもしません。だって僕は別にピアノなんて弾きたくありませんし、そのことについて正直な意思を表明することがクラスメイトに対する裏切りだなんてこれっぽっちも思いませんから。だってほら、現に僕以外の伴奏候補者は一瞬たりとも槍玉にあげられたりはしないでしょう? 僕も彼女らと同じ立場なんですから、別にピアノを弾かなくたって責められる謂れはありません。

 クラス委員を引き受けたのも、去年ピアノを弾いたのも、他にやる人がいないから仕方なくやったんです。本当はやりたくなんてなかったのに、でも誰もやらないから、皆のためを思ってやったんです。最終的に引き受けたのは確かに僕ですし、クラスメイト達に恩着せがましく感謝を求めるつもりはありませんけれど、でも毎回毎回僕ばかりが貧乏くじを引かされるのは我慢なりません。繰り返しますが、伴奏者を引き受けなくたって、それの一体何が自分勝手だというんですか。僕には何の非もありません。だからみんなに謝ったり、お願いしたりは絶対にしません。

 大体、島崎先生、あんたの僕に対する態度はおかしいんじゃないですか? なんでもかんでも僕に仕事を押し付けて、いざ引き受けようとしたら文句を言って。それだけならまだしも、仕事内容にも一々一々口を出してくる。他の人には一度だってそんな態度見せたことないくせに、僕にばっかりネチネチネチネチけちをつける。

 結局、あんたは僕が嫌いなだけなんですよ。嫌いだから、ストレス発散代わりに怒鳴り声をあげる。率直に言って人として終わってる、最低としか言いようがない。あんたは嫌いな奴を好き勝手虐められて満足かもしれませんけれど、こっちは気が狂いそうです。これ以上意味が分からない説教を続けるっていうなら、僕はもうあんたがいなくなるまで学校になんて二度と来ませんから。まあ、あんたにしてみれば一人の嫌いなガキを排斥出来て、それで満足かもしれませんね」

 そうしたらきっと島崎教諭は怒鳴り声でこう言うのだ。

 お前はほんとにすっとぼけた奴やな!

 なに舐めたこと言っとーとや!

 そんな理屈も何もない恫喝を聞いた『僕』は、すかさず傍らのかびたパイプ椅子を手に取って、「うるせー!」と叫びながら、島崎教諭の頭を殴りつけるのだ。

 教師に暴力を振るった中学生の『僕』はどうなってしまうのだろうか? きっと両親は悲しむし、順風満帆な将来など期待できるはずもない。

 それでも『僕』は今の僕よりもずっと幸せだろう。


 僕は島崎教諭のことを恨んでいる。あの時、クラスメイトに謝れと彼が怒鳴った時に、あるいは僕がクラスメイトの前で涙を流した時に、僕は怒りに身を任せ椅子で彼の頭を殴りつければよかったのだと、そうすれば僕は口を大きく開けて笑っていられたのだと今では確信している。

 もし中学生活をやり直せるのならば、もし過去に飛べるのならば、僕は迷わず島崎教諭を殺しに行くつもりだ。

 タイムマシンの完成が、彼の死ぬ時だ。

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