第3話 一条時雨
女学校からの帰り道、光の君と別れた蝶子は1人で歩いていた。
いつも通りかかる空き地では子供たちが野球を楽しんでいる。
キン、と小気味よい音がすると、ボールが高く飛んでくるのが見えた。
すると、ちょうど蝶子がいる近くの藪にボールが消えてしまった。
ああ、という声と共に子供たちがこちらに走ってくる。
蝶子はそのまま通り過ぎるかわずかに悩んだ。
しかし必死にボールを探す子供達を、見て見ぬふりはできなかった。
「私も一緒に探すわ」
そう言うとザクザクと藪に分け入った。
「お姉ちゃん、汚れるよ」
子供の1人が心配そうに声をかける。
「大丈夫よ、これくらい」
蝶子はその忠告には耳を貸さず、真剣にボールを探した。
「確かこのへんに落ちたような気が…」
ガサガサと草葉を手でかく。
その時だった。
何かにつまづいて蝶子はそのまま倒れ込んだのだ。
「いたっ……」
草木ではない何かの感触を体の下に感じた。
急いでそちらに目を向ける。
そこにあったのは横たわったまま動かない―――人の姿だった。
蝶子の鼓動は一気に跳ね上がり、体から嫌な汗がにじむ。
異変に気付いた子供たちが寄ってきた。
「この人……死んでる?」
「死体だ!」
ぎゃあぎゃあと一斉に騒ぎ出した子供たちをよそに、蝶子はその人に近づく。
そして、おそるおそる声をかけた。
「あの、もし……」
反応はない。
今度は肩を揺らしてみる。
「もし―――」
するとその時。
その人は蝶子が肩にかけた手をつかんだ。
そして、うるさい、と低い声で呟いたのだ。
蝶子はぎょっとして声の主を見た。
彼は気だるそうに頭をかくと、ゆっくりと上体を起こした。
そして大きなあくびをひとつしてみせた。
子供たちもびっくりして遠巻きに様子を伺っている。
彼はキョロキョロと辺りを見回した。
皆の視線が自分に向いていることにようやく気づいたのだ。
「あー……俺は、大丈夫だ」
彼は若干ばつが悪そうにそう言った。
そして自分の一番近くに座り込む少女と目が合った。
彼女はつぶらな瞳でこちらをまっすぐに見つめてくる。
「あの」
少女は意を決したように言葉を発した。
なんだ、と聞き返す。
すると彼女はこう言った。
「手を、離してほしいのですが」
彼は自分をゆすった少女の細い腕をずっと握ったままだったのだ。
「……悪い」
彼はますますばつが悪いといった様子で目をそらした。
「どこか具合でも悪いのですか?」
蝶子は気遣わしげに尋ねた。
「いや…寝ていただけだ。問題ない」
「こんなところで、ですか?」
彼は不思議そうに見つめてくる少女をちらりと見た。
長く艶やかな黒髪と、それを飾る蝶々結びのリボンが風に揺れている。
袴はわずかに土で汚れていたが、良家の子女なのだということはすぐに見て取れた。
「君の名は?」
男は少女の質問には答えず、問い返した。
蝶子は刹那答えるか迷ったが、なんとなく彼になら名を教えてもいいという気がした。
「私は……橘蝶子です」
それを聞いた彼は少し怪訝な顔をした。
「蝶子?変な名前だな」
「……どこがです?」
少女は青年の発言の意図するところがわからずに、尋ねた。
「だって……虫だろ」
蝶子は虫と言われ、頭に血が上るのを感じた。
「む、虫呼ばわりとは失礼な!!」
男はそれを見てにやりと笑い、おもむろに立ち上がると、着物をはたいた。
先ほどまでの緩慢な動きに反し、その立ち姿はどことなく精悍だった。
そこで初めて蝶子は彼の背が自分よりだいぶ高いことに気づく。
「あなたは一体、誰なんです?」
その場を立ち去ろうとする男に、問いを投げかける。
「俺は、一条時雨だ」
「いちじょう、しぐれ殿」
蝶子はかみしめるようにその名を繰り返した。
「このへんでは最近若い女性が狙われる事件が起きている。明るいうちに帰った方がいい」
時雨は少女に注意を促すと、背を向けて歩き出した。
そういえば光の君も同じようなことを言っていた…と思いながら、蝶子はぼんやりと男の後ろ姿を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます