第29話 万引き

 磐井杵子がいつの間にか釈放されて、日常を取り戻していた。日常を取り戻したとは言え、以前のようにマンション住民と親しい交流が出来るわけではなかった。話し掛けようとすると、誰もが杵子の会話を断ち切るように挨拶をして足早に去って行くようになっていた。杵子のフラストレーションはそうした日常の中で、毎日暴発寸前の限界を彷徨っていた。


 或る日杵子は、スーパーで買い物をしている妖子を見掛けた。


「あの女…」


 杵子の憎しみが弾けた。妖子に同じ苦しみを味わわせてやる絶好のチャンスだった。杵子は野菜コーナーに陳列してあるサヤエンドウのパックを持って妖子をつけた。そして、買い物中の妖子のト-トバッグに入れることに成功した。しかし、それだけでは満足しなかった。気付かない妖子のアホさ加減をいいことに、嵩張らず重くない商品を選んでは、次々に妖子のトートバッグに入れていった。


「無神経女が…後で吠え面かくな」


 杵子はこの半年間味わったこともないような満足感に浸った。一瞬、妖子を見失った。慌てて店内を探した。店員が居たので万引きをしている女を見たと訴えた。その時、レジで会計をしている妖子を発見した。


「あ、あの女ですよ!」


 店員は急いで事務所に向かった。レジを済ませた妖子がスーパーを出たところで警備員に呼び止められた。


「どうして呼び止められたかお分かりになりますか?」

「いいえ?」

「レジがまだ済んでない商品をお持ちではありませんか?」

「全部済ませましたよ?」

「ちょっと、事務所まで来ていただけますか」

「…はい」



 通報した杵子は、妖子が調べられている事務所に、勝ち誇ったように入って来た。


「お客さん、ここは関係者以外立ち入り禁止です」

「あら、磐井さん !?」

「奥さん、ついにやっちゃったようね。明日、マンション中が大騒ぎになるわよ」

「どうしてここに?」

「私はあなたの万引きを目撃したのよ」

「大丈夫なの、磐井さん?」

「それはこっちのセリフよ!」

「あなた、以前に万引きで逮捕されて実刑になってたでしょ? 盗み癖の病気は治ったの?」

「人のことより自分のことを心配したらどうなのよ!」

「私は何もやってないから心配してないわよ」


 妖子の持ち物、ポケットなど全て調べたが、未会計の商品はひとつも見当たらなかった。


「ありませんね。おばあちゃん、あなた本当に見たんですか?」

「見たわよ! 最初にサヤエンドウのパックを万引きしたのを、私はこの目で確かに見たんだから! それから、2階に上がって歯ブラシとタワシと…兎に角、もう一度その女をちゃんと調べてよ!」

「ちゃんと調べました。ありませんでした。おばあちゃんの勘違いです」

「そんなはずはない! 私がこの手でそのトートバッグに入れたんだから間違いないんだよ!」

「おばあちゃんが入れたんですか !?」

「とにかくもう一回調べろ!」

「磐井さん…私のバッグに入れようと思っているうちに忘れて、まだ持ってるんじゃないの?」


 妖子の言葉に、警備員の目が杵子を睨んだ。


「一応、あなたも調べさせてもらいますね」

「親切に万引き犯を教えてやった人間を調べるのかい!」

「一応ですから…」

「ないに決まってる! なかったらただじゃ済まされませんよ!」


 警備員が磐井杵子のバッグから、未会計のサヤエンドウのパックを初め、その他の商品を取り出した。杵子は驚いた。


「違う! それは私のじゃない! 誰かが私のバッグに入れたんだ!」

「おばあちゃん、他人のバッグに入れようとしたのは、あなたのほうでしょ! 悪質だ! 警察を呼ばせてもらいます」


 警備員は妖子に平身低頭に謝った。


「申し訳ございません!」

「磐井さん、また逆戻りね」

「おまえを呪ってやる!」

「おばあちゃん、人を呪わば穴二つよ。それより、病院で診てもらたらどう? 脳腫瘍とか認知症の症状かも知れないわよ。もし病気だったら少しは罪も軽くなるかもしれないわ」


 店長が出て来た。


「また、あなたですか…うちの店は出入り禁止にしていただきましたよね、磐井杵子さん」

「今回は何かの間違いですから! あたしは万引きしてませんから!」

「言い分があれば警察の方に話しなさい」

「私は自分で取ったんじゃないよ! 他人のバッグに入れただけだよ! 何が悪い!」

「おとなしくしてなさい!」


 杵子は連行される途中で倒れた。警察官らは最初仮病だと思い、ぐったりしている杵子をパトカーに乗せたのだが、朦朧とした状態に慌てて救急車を要請した。脳卒中だった。運よく昏睡から覚めた杵子だったが、様子が一変していた。検査の結果、認知機能が著しく低下しており、そのまま寝たきりの状態になってしまった。


 杵子は、鬼ノ子マンションから、同じコロニー内に隣接する老人介護施設に移されることになった。杵子の部屋は施設費用に充てるため人手に渡り、すぐに新しい所有者が決まった。梅林理沙である。虎鈴がボディガード代わりに理沙と同居することになった。


 引っ越しは深夜秘密裏に行われた。松橋英雄とマタギ衆仲間の然辰巳が見張りに立った。室内では竜の家族が引っ越しの整理を手伝っていた。かごめと虎鈴はすぐに仲良くなった。


「雷斗、虎鈴ちゃんがクラスメートになるといいね」


 雷斗は虎鈴をちらっと見て、すぐに整理作業に戻った。


「雷斗、顔が赤くなったんじゃない?」

「お姉ちゃん、黙って作業しろよ」


 マンション住民には気付かれずに理沙の引っ越しは完了した。表札はしばらくの間、“ 磐井 ” のままにしておくことになった。


〈第30話「募金」につづく〉

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