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東京からの国内線は、紅葉のシーズンを過ぎているにもかかわらず込み合っていて、バゲージ・クレームで自分のスーツケースを受け取るまでにかなりの時間がかかった。
地方の沿線情報誌にしては珍しく、遠方へ出張しなければならなくなったのにはいろいろと訳があるのだけれど、それはまた別の話となる。
とりあえず編集長に簡単な報告を済ませ――すでに取材原稿のラフはメールで送っていた――僕は自宅に向かった。
自宅への道すがら、僕はかすかな違和感を覚えていた。それが何なのか、はっきりとはわからなかったけど、明らかに何かが違っていた。結局その正体を掴めないまま、僕は自分のマンションへと帰ってきた。
三日間の出張だったから、荷物はそれほど多くはなく、誰かにお土産を買ったわけでもないので、荷ほどきは後回しにして、原稿の仕上げにかかった。
仕事がひと段落して、洗濯をしようとスーツケースを開けて初めて、自分のものではないことに気がついた。
スーツケースの中身は、女性の衣類と化粧品、それに女性向けのファッション雑誌だった。このスーツケースはかなり古く、地味でシンプルな形だけどこれまであまり似たようなものを見かけなかったから、完全に油断していた。
僕はすぐに空港に電話をかけて、間違えて荷物をピックアップしてしまったことを伝えた。確認してもらったところ、僕の方のスーツケースは届けられていなかった。
届けられたら――もしかしたら望み薄かもしれない――連絡をもらうことにして、僕はもう一度、間違って持ってきてしまったスーツケースを確認してみた。
不思議だったのは、暗証番号だ。
他人のスーツケースなのに、なぜ僕の暗証番号で鍵が開いたのか。もちろん、暗証番号が偶然同じだったとしか考えられないのだけど、なんとなくそこには隠された意味があるような気がした。
それと、スーツケースの内ポケットに、名前と連絡先が書かれたタグを発見した。
僕のスーツケースにも、同じタグが付いていたけれど、僕はそれを取り外してしまっていた。なぜなら、そのスーツケースのもともとの持ち主の名前が書かれていたからだ。
僕が間違えて持ってきたスーツケースの内ポケットから発見したタグの、立花珠恵と書かれた名前は、立花の部分に二重線が引かれて、その下に佐伯と書き加えられてあった。
立花珠恵の文字と、書き足された佐伯と連絡先の文字は筆跡が明らかに異なっていた。つまり、最初の誰かが立花珠恵という名前だけを書いて、別の誰かが佐伯と連絡先を書き足したということになる。
そして、立花珠恵という文字の筆跡とよく似た字を書く人を僕は知っていた。
その人に初めて会ったのは、今から四年前の冬の日のことだった。
*
その年の冬はとても寒くて、この地方には珍しく、よく雪が降った。
僕は会社を辞めて、せっせとアルバイトに精を出していた。
その日は雪こそ降っていなかったけれど、寒かった。
とても寒い夜だった。
アルバイトの帰り道、繁華街の路地裏を僕は歩いていた。
猫の鳴き声がした。
猫は建物と建物の間の狭い空間にポツンと座って、こちらを見ていた。
僕も立ち止まって、猫の目を見つめた。
グレーの薄汚れた野良猫だったけど、どことなく凛としたものが感じられた。僕と目が合っても逃げもせず、ただこちらをじっと見つめ返してきた。
僕はゆっくりと一歩踏み出した。
猫は立ち上がって、いつでも逃げ出せる態勢を取った。
でも、そのまま僕が動き出さないことがわかると、また同じ場所に座った。
こうして、にらめっこは一分くらい続いた。
その頃の僕は暇だったのだ。
動物はたいてい、しばらくすると、つっと目を逸らすものだ。
その猫は違った。
僕はゆっくりとしゃがんで、手を差し出した。
その頃の僕は相当暇だった。
やがて猫はこちらに向かって歩き出した。
そして、僕のそばをさっとすり抜けた。
振り返ると、女の人がいた。
それまでまったく気がつかなかった。
彼女は猫に小魚のようなものを与えていた。
僕はなんだか急に恥ずかしくなってしまった。
でも、この場を立ち去るには、しゃがんでいる彼女のすぐそばを通らなければならなかった。
こちらもしばらくしゃがんだまま、猫に餌を与えている彼女を見ていた。
たぶんすぐ近くのお店から出てきたのだろう、薄着のままで、サンダルを履いていた。
猫がほとんど食べつくした頃、ようやく彼女は顔を上げた。
「あなたの猫ですか?」
僕は尋ねた。
彼女はほんの少し微笑んで――僕には微笑んだように見えた――首を振った。「いいえ」
静かな視線だった。
猫のように、僕の目をじっと見つめていた。
僕は視線を外すタイミングを失ってしまった。
今度は彼女とにらめっこが始まるのか、と不安になったとき、食べ終えた猫が立ち去ったので、僕たちの視線は自然とそちらに逸れた。
彼女も立ち上がった。
それから、何度か彼女に会った。
アルバイトの帰り道、週に二、三回は見かけた。
会うたびに、僕たちは二言三言、言葉を交わすようになった。
猫のことや、天気のことを。
そのときの僕の見立てでは、彼女は二十代前半、実際には二十三歳で、そのときの僕よりも一つ年下だった。
たぶん夜の店で働いているのだろう。僕と会うときは、いつも買い物袋を持っていた。普通そういった買い物は、若いバーテンダーがするものだけど、彼女の店はよほど小さいのか、彼女が働き者なのか、とにかく、彼女とよく会ったのは、彼女が店に出る前のようだった。
ということは、同伴のない、小さなスナックだろう、と僕は当たりをつけた。
しばらくして、僕たちは一緒に例の猫に餌をやるようになった。
その猫はただの日本猫ではなくて、外国産の猫らしかった。
僕は猫の種類に詳しくなかったからよくわからなかったけれど、彼女は何やら難しい品種を説明してくれた。
そんなふうに、猫の種類を一生懸命説明してくれたときの彼女の瞳は、まるでつきることのない好奇心を秘めた子供のようだった。
いつしか僕は、彼女のことが頭から離れられなくなってしまっていた。
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