クロス・ピックアップ(前編) ~沿線ライター小清水くんと些細な出来事シリーズ⑦~
Han Lu
1
「佐伯珠恵さんのスーツケースを預かっています」
佐伯健二の家に、航空会社から電話がかかってきたのは日曜の午後のことだった。そのとき佐伯は居間でビールを飲みながら、秋の天皇賞の結果をテレビで見ていた。十五時四十分発走のレースはさっき終わったばかりだった。佐伯が買っていた馬券はことごとく外れていた。
「どういうことでしょうか」
佐伯の問いに答える前に、航空会社の担当者は確認を入れた。
「珠恵さんは御在宅ですか?」
「いえ。今は不在です」
「失礼ですが、ご家族の方ですか」
「ええ。夫です」
「奥さまからスーツケースのことで、何かお聞きになっていませんか?」
「いえ、特には……」
「そうですか」
佐伯が無言でいると、担当者は続けた。
「実は、奥さまのスーツケースと別のお客様のスーツケースが空港のバゲージクレーム――手荷物引渡場で入れ違ってしまったようなのです」
バゲージクレーム――佐伯は心の中でつぶやいた。そして、手荷物引渡場のことを英語でそういうのか、と思った。
「手荷物引渡場って、あのベルトコンベアみたいなので荷物が運ばれてくる……」
佐伯の言葉を、担当者は大げさに肯定した。
「そうです。おっしゃるとおり、それがバゲージクレーム――手荷物引渡場です」
「家内から細かな話を聞いてないのですが、それは海外の空港ということですか」
「いえいえ、国内線ですよ。羽田発、K空港着の――」
K空港は佐伯たちの家から最も近い空港だった。
「ああ、そうですよね」担当者が続ける前に健二がいった「それで、家内のスーツケースが別の人のと入れ違ってしまったと?」
「はい。クロスピックアップ――ほかの人が自分の荷物を間違えて持って行ってしまうことですね、それが発生いたしまして」
どうやらこの担当者はわざわざ英語の表現を使わないと気が済まないらしい。
「ただ、奥さまの荷物を先に誰かが持って行かれたのか、奥さまが先に誰かの荷物を持って行かれたのか、そこのところは不明でして……」
「いや、それはどちらでもいいでしょう」
「いえいえ、それがそういうわけにもいかないのです。どちらが先に間違えたかで、トラブルになるケースが多々ありましてですね――」
「少なくとも、こちらは別に問題にはしませんから」健二はリモコンでテレビを消した。「こちらはどうすればいいんですか。荷物を取りに行けば?」
「奥さまは、今スーツケースをお持ちですか? つまり、間違って持って行かれた――奥さまが先に間違われたのか、別の方が先に間違われたのか、それはひとまず置いておくとして――今奥さまがお持ちのスーツケース、そちらにございましたら、大変お手数なのですが、空港までお持ちいただけますでしょうか。その際に、奥さまのスーツケースと交換させていただきますので」
そこで、しばらく沈黙が訪れた。
深いため息をついて、佐伯が口を開いた。
「実は、家内とは連絡が取れない状態になっているんです」
航空会社の担当者が返答をためらったのは、ほんの一瞬だった。
「左様でございますか。では、いかがいたしましょう。奥さまのスーツケースはこちらにございますから、取りに来ていただいて結構です。奥さまと連絡が取れないので、確実なことは申せませんが、もしかしたら、奥さまが別の方のスーツケースを持って行かれていない場合も考えられます。その可能性は低いと思われますが。いずれにせよ、奥さまのほうの確認が取れない状況だという旨を、先方にお伝えしてもよろしいでしょうか」
少し考えて、佐伯が答えた。
「その、先方の方と、直接お会いすることはできますか」
「先方のお名前やご連絡先などをお伝えすることは、個人情報にあたりますから、できかねますが、先方に奥さまのご家族の方がお会いしたいと申されている旨をお伝えすることはできます」
「わかりました。では、先方に伝えてください。向こうも、こちらの荷物の確認が取れないという回答だけでは、納得しないでしょう。私から直接説明させてもらうということをお伝え願えますか」
「わかりました。そうしていただけると、こちらとしても助かります」担当者は答えた。「通常はできるだけ当事者同士は顔を合わせず、私どもが間に立ってやり取りさせていただくのですが、もし直接やりとりされるほうが、ことがスムーズに運ぶのであれば、その方向で進めさせていただきます」
「その方向で進めてください」
こうして、佐伯珠恵の夫、佐伯健二は、珠恵のスーツケースを間違って持って行った――珠恵が先に間違ったのか、別の人間が先に間違ったのかは置いておくとして――人物と会うことになった。
その人物とは、もちろん僕のことである。
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