1.4 酒場の噂
シモフを帰してから、トゥエンは油がさめるまでひと眠りした。起きてからできあがった刀身の油をふいてゆく。時間があったためにシモフの包丁も作って――獣人の話が一段落した後に包丁を作ってくれと頼まれたのだ――、王宮騎士団へは夕方、剣をのせた車を手でひっぱっておさめた。シモフからは高い金をとった。騎士団からは、もっと高い金をふんだくった。
報酬のいくらかを手にのこして、のこりを金庫にしまう。トゥエンは酒場へと足早にむかった。ずっとかたい表情をしていたトゥエンが、酒場への道ではニコニコしていた。
酒場の名前が『ネコの目』ということを、入り口をまえに立ちどまってはじめて知った。看板は木の板に黒い墨で店の名をしるしてあるだけで、人をよびこむつもりはどこにもない。この店のまわりだけベルクタープ・ギーエンがつづいているかのようだった。
扉の鈴を鳴らしてみれば、中にいるのはやはりマーターひとりだけだった。いもしない客のためにグラスをみがいていた。
「ああお客さん、またいらしてくれたのですね」
「またのみたくなったので」
「では、エルボーでよろしいですか」
「いや、ボブネから」
「では、料理もあわせて、ということでよろしいですか?」
「ええ」
出入り口で注文をかわし、トゥエンはカウンター席に歩いていった。注文をしてから席に座るとは順番がちがうが、あたかも長年いりびたっているかのような会話がどこか不思議だった。トゥエンはそこまで通いつめているわけでもないから地に足がついていないような気分になったが、対して、舌がおぼえていたハチミツ酒の味と暗い店の雰囲気が群と強くなった。
トゥエンがついたときには、マーターは注文を伝えて、カウンターに入っていた。トゥエンの正面だった。見えているのは、しかし背中で、タルからボブネの酒をそそいでいるようだった。
グラスがコンとおかれた。十粒ほどのちいさなアワがとびあがった。
「ずいぶん厚手なチュニックで」
「ええ、鍛冶をするときにはこれをきるんです、うすいチュニックでは火花ですぐ穴があいてしまうんですよ」
「ああ、どうりで」
「きのうから働きづめで、ちょっとは寝たのですがまだ寝足りないというか」
マーターからグラスに目を落として、アワが優雅に浮かんでゆくさまを眺めた。ユラユラと舞いながらのぼってゆくさまは酒場によくいる踊り子を思い出させた。トゥエンは、だから『ネコの目』には舞台がないのだろう、と考えた。この酒場の舞台はハチミツ酒の中である。あと、彼の目の前。
「でしたら、のちほど
「料理を食べ終わってからぜひ、温めていただけますか」
トゥエンのほおは紅潮こそいないが、目じりだとか口元に宿る雰囲気はすっかり酔っ払っていた。マーターに笑顔で返事をしたのち、彼は奥へとつづく扉に目をやり、よけい笑みに顔をくずした。はやく料理が来るのをまちのぞんでいた。
「かしこまりました。しかし、今日は何だか上機嫌なようですが。あ、てっきりしずかにお酒をのまれるお方だと思っておりましたので」
「この店は何だか楽しいんですよ。また来たいって思わせる酒場なんてそうはありません。ここ数年はずっと酒場に入ってなかったんですよ」
「まあそれはありがたきお言葉で」
トゥエンは扉をちら見してようやく、酒をひと口、飲みにとりかかった。きのうと同じ、ボブネのハチミツ酒をメルヒェンドの水でわったぬるい酒のはずだった。しかし彼の舌はきのう以上にその香りをうけとめた。辛口でハチミツ感はあまりのこっていないはずなのに、あまい香りがあった気がした。しかしハチミツのとはちがうものだった。なんだろうかと彼は考えてみるも、しっくりくる言葉は見つからなかった。語彙のとぼしさに反して、彼の感覚ははっきりかつずばりといえる答えを見つけだしていた。きのうのハチミツ酒よりもおいしい。
トゥエンが酒に笑みをほころばせた瞬間、マーターが、ところで、と話しかけた。
「さいきん獣人の活動があやしいなどという話ですが、どうなんでしょうね、王宮は何か対策するのですかね?」
「さあ、対策とかは知りませんが、きくところによると、殺戮の女王がうごいてるらしいですね」
マーターは相槌の後に少し言いよどんで、
「そういう話もありますね、殺戮の女王エグネ――なつかしいですね」
とグラスの一つを手に取った。
「同じくです。『大虐殺』以来ぶりにきく名前ですから」
「大虐殺というと、アーネシュトライアの黒焼きですか?」
マーターは後ろを振り返って、グラスにいろいろなものをいれはじめた。エルボーにボブネをまぜて、黄緑色のシロップに――
「よくご存じで。迫害されてアーネシュトライアの中腹に身を寄せていた獣人たちをハプスブーグ王家の人が焼き殺す、むごたらしいものですが、そのあとのエグネもむごかったというかなんというべきか」
「たった五人で軍の二中隊を全滅させましたから。武神がいたら腰を抜かしてるでしょう」
「マーターはずいぶんとお詳しいのですね」
「お客さまだって」
マーターが振りかえって、その手には黄色っぽい黄緑色の酒をもっていた。その頃の酒といえば黄色いハチミツ酒しかないのに、トゥエンの目は酒に興味を示さず、扉とマーターの目とを行き来していた。
ただ話がもりあがったからマーターに興味があるわけではない。マーターのその知識にアレ? とおもったのだ。戦争にかんすることはそれほど疑問に思うことはない、しかし、獣人のウワサはそこまで広がっているものか。トゥエンだってさっき聞いたものだ。
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