41.奇跡
慶応四年五月三十日。
楽しい日々というのはいつの時代もあっという間に過ぎるものだ。
今日、琉菜は沖田に永遠の別れを告げる。
琉菜は前日から一睡もできず、一晩中考えていた。
今までのことが走馬燈のように思い出されていく。
すやすや眠る夫の寝顔を、琉菜はじっと見つめた。
やっと総司さんって呼ぶの慣れたのに。
やっぱり言えない。
今日だって、あたしが言いさえしなきゃ、普通の日として終わる。
総司さんに寂しい思いさせたくないし。
その時、沖田がゆっくりと目を開けた。
琉菜はその目をじっと見つめた。
病気のせいか、ここ何日も沖田の目は虚ろだった。
それでも、新選組の一番隊組長として京都で活躍していた時の輝きは一点残っているようにも思えた。
「おはようございます」
「おはようございます」琉菜はそっと答えた。
そして沖田はいつもと同じ調子で尋ねた。
「今日は?」
琉菜は少し戸惑った。
「大丈夫です」
沖田はしばらく琉菜をじっと見つめた。
「本当に?」
琉菜はぎくりとしたが、平静を装って頷いた。
「私を騙せると思ってるんですか?」
琉菜が何も言えないのを見て、沖田は続けた。
「いつもと表情が違う。本当のことを言ってください」
ああもう、バレバレだ。
総司さんは、死ぬ日を知って覚悟を固めたいって言って、あたしにこの頼みごとをしてたんだよね。
なのにあたし、約束破ろうとしてる。
琉菜は沖田の目をじっと見据えた。
「今日が、総司さんの命日です」
声が震えた。言いたくなかった。言ったら本当のことになる気がしてしまう。
琉菜がわなわなと体を震わせているのを止めるように、沖田は琉菜の手を握った。その顔には笑みが浮かんでいる。
「そういうことなら、今日は離しませんよ。もう薬もごはんもいりません。今日一日、琉菜が私の目の届く範囲にいれば他には何もいらないから」
沖田はそう言って琉菜を抱き寄せた。
琉菜は浮かない顔を隠すように、すっかり華奢になってしまった沖田の胸に顔を埋めた。
命日は知っていても、「その時」が何時何分なのか、琉菜は知らなかった。
太陽が真上に来る頃、琉菜は台所に立ち、昼食に素麺を用意した。沖田も、よろよろと歩いてついてきた。昼食を作っている間に私が死んだら、悲しむでしょう?と言って、琉菜が止めるのも聞かなかった。
それから二人で小さな縁側に腰掛け、ゆっくりと昼食を取った。
梅雨が明けたばかりの空は高く、太陽がじりじりと照りつける。温暖化など始まってはいないが、暑いものは暑い。
冷たくて食べやすいものをと思って用意した素麺だったが、沖田は二、三口口に入れただけでそれ以上は食べることができなかった。
「何年になりますかね。琉菜と出会ってから」沖田が不意に言った。
「そも、私たちが初めて会ったのはいつということになるんでしょうね。”中富さん”が入隊した時なんでしょうか」
琉菜はくすっと笑った。
「あたしが、賄い方として、中富新次郎の子孫として新選組に拾ってもらった時ですよ。そこは、ぶれません」
「そうですか。……思い出すなぁ。私が初めて琉菜に会った時のこと。……変な格好をして、自分は未来から来たって」沖田はおかしそうに笑った。
「あたしだって頭真っ白だったんですよ!?周りの様子がすごい変わってて、新選組とかいいだすし」
琉菜は初めてこの時代に来た時のことを思い出した。
沖田も思い出にひたっているようで、二人はしばらく黙りこんだ。
楽しかったなあ。
本当にいろんな人に出会って、いろんな人と別れて。
幕末という時代を肌で感じて。剣道もやって。
総司さんを好きになって。
「あたし、この時代に来られて本当によかったです。総司さんに会えて、みんなに会えて」琉菜は総司の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私も、琉菜に会えてよかった。もしあなたがここにいなかったら、私はこんな生きた心地で余生を過ごせなかったでしょう。あなたがこの時代に来てくれて本当によかった」
「……もしこの時代に来ていなかったら。そんなこともう考えられません。ここでの生活が当たり前すぎて。あたしはもう、すっかりこの時代に染まっちゃったんだなぁって実感してます」
琉菜は爽やかすぎるほどの空を見上げた。
「私も一度琉菜の住んでた未来に行ってみたかったなぁ。死んだらいけますかね?」
死んだら。
その言葉は、妙に非現実的な響きがした。
死ぬなんて縁起でもないこと言わないでください。
そんな言葉はもはや気休めでしかないことは琉菜にはわかっていた。
「はい。きっと」
力強く答える琉菜に、総司は満足気に微笑んだ。
「琉菜。未来はどうなるんですか?」
琉菜は何気ない総司の笑顔をじっと見た。
ああ、やっぱり、別れは近づいてるんだ。
琉菜は大きく溜め息をついた。
総司は不思議そうに琉菜を見返した。
「未来では……」
言い掛けて、琉菜はぐっと言葉を詰まらせた。同じ質問をして命を散らしていった男たちの顔が嫌でも浮かんでくる。
もう、これで最後だよね?
琉菜は、未来人としての思いを、沖田に、新選組の面々に伝えたかった。
「未来は、平和です。今は、動乱の時代だけど。新選組の皆は逆賊だなんて言われているけど。絶対、汚名は晴れますから。あたしの時代の人は、みんな新選組、カッコいいって、新選組が好きですから。そんな風に言えるくらい、あたしの時代ではもう、藩とか関係なくて。日本が一つになって、発展していきます。総司さんたちが切り開いてくれた時代を、間違った方向に進めてしまった時期もあったけど、そういうのも全部乗り越えて、平和を手に入れたんです。あたしのいる時代は、未来は、平和です。だから……」
琉菜は頭を下げた。
「本当に本当に、ありがとうございます。総司さんはもちろんだけど、新選組の皆も。言われても困るでしょうけど、薩長の人たちにさえも、感謝の気持ちはあります。一人ひとりが、本気で日本の未来を考えて行動してくれたから、今のあたしたちがあるんです。だから、ありがとうございます」
案の定と言うべきか、沖田は複雑そうな表情を浮かべていた。薩長にも感謝しているなどと、聞きたくない言葉だろう。
それでも、琉菜は自分の発言に後悔はなかった。そして、今まで誰にも言っていなかった事実を、言うことにした。
「今総司さんがした質問、みんながしていきました」
沖田が驚いたような顔をするのを見ながら、琉菜は続けた。
「山南さんに始まって、お鈴さん、芹沢先生……もうきりがないくらい。あたしの前からいなくなっていく人はみんな、未来を心配してる誠の武士だった。だから、総司さんも誠の武士です。法度に背こうが、農民の出身だろうが、新選組の人はみんな、誠の武士だったって、あたし、そう思います」
沖田はそこで初めてにこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。……未来は、平和なんですね。安心しました」
その時、奇妙な鳴き声がした。
いや、実際は奇妙でもなんでもないただの猫の鳴き声なのだが、琉菜にはなぜかとても不吉で奇妙な鳴き声に聞こえた。
あの黒猫だ。
「また来た」沖田は少し沈んだ声で言った。
ねえ、あなたやっぱり、総司さんを迎えに来たの?
――当たり前さ。
やめて。
もうちょっとだけ、そばにいさせてよ。
――どうかな。
沖田は横に置いてあった刀をおもむろに取り上げた。
そして鞘から抜くと、いつかの時のように、切っ先を猫の前にビュッと突き出した。
猫はぴくりとも動かなかった。
沖田は刀を取り落とし、ドサッという音がした。
「琉菜……私にはこの猫が斬れない……斬れないよ……」
はははは、と沖田は乾いた笑い声を出した。
そして、何もおかしいことでもないのに、笑い続けていた。
琉菜はその壊れてしまったような沖田を、ただじっと見つめることしかできなかった。
その後、沖田は座っているのもつらくなってきたようで、再び布団に入っていた。
よく眠っている。最近は、咳がひどくて満足に眠ることさえできなかったから、眠れるに越したことはない。
だが、今日は事情が違う。このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。もしかしたら、もうこのままなのかもしれない、と琉菜は気が気ではなく、ずっと、沖田の手首に手を当て、脈を計っていた。
「まだ、生きてる。息もしてる」
人間は、意識を失って、ただただ息をしているだけの状態になっても、聴覚だけは機能しているという話を琉菜は思い出した。だから、必死になって話しかけた。
「ねえ、総司さん。起きたら、一緒に甘味屋さんに行きましょうよ。大好きでしょう?お団子も、あんみつも。材料が手に入ったら、ケーキとか、プリンとかそういうのも作りますよ。チョコレートは、横浜とかに行けば手に入るのかなあ?知ってます?チョコレートっていう、西洋のお菓子があって。甘くて、苦いんですよ。毎年二月十四日になると、女の子は好きな男の人にチョコをプレゼントするんです。こっちの時代に来たらすっかり忘れていました。来年のバレンタインには、横浜でチョコを買ってきて、総司さんにプレゼントしますね」
琉菜は沖田の顔に耳を近づけた。まだ、息をしている。
琉菜は話しかけ続けた。未来では、新幹線という乗り物があって、京都まで一刻で行けるとか、新選組が全員美形キャラになっているアニメやゲームや漫画があるとか、そんなことを話してみた。だが、沖田は目を覚まさなかった。
そうしているうちに、夜になってしまった。
五月三十日は終わろうとしている。沖田は、目を覚まさない。けれど、息はある。
どういうこと?
このままなの?このまま、総司さんは……死んじゃうの?
やだよ。まだ、伝え足りてない。ありがとうも、大好きも。
命日なんか知ってたって、意味なかった。それでショックが和らぐわけでもない。こんな風にお別れするなんて、聞いてないよ……
琉菜は、沖田から目を離さなかった。すう、はあ、と一定のリズムで息をしているのを、ただじっと見つめていた。とても長い時間に感じられた。それでもいいと思った。このまま時が止まればいいと、思った。
やがて、ぼんやりと鐘の音が聞こえてきた。子の刻の鐘だ。十二時。日付が変わった。
沖田はまだ、息をしている。
え……?
命日は、五月三十日……だよね?
琉菜はそうっと布団の中に手を入れ、沖田の左胸の上に乗せた。まだ、上下運動を繰り返している。
もしかして……
歴史が、変わった?
そんな考えが、琉菜の脳裏をよぎった。
いや、実際は六月一日の未明に亡くなったのかもしれない。だから、便宜上「五月三十日」と記録されているのかもしれない。
琉菜は、沖田の命の灯を消さないように、一晩中手を握り続けた。
しかし、いつの間にか琉菜も眠りに落ちてしまったようである。朝日の光で、琉菜は目を覚ました。
今日は何月何日……あっ!!
琉菜はガバッと飛び起きた。目の前を見ると、沖田がいなかった。
「総司さん……?総司さん!?」
まさか、あたしが寝てる間に死んじゃって、どこかに運ばれたとか……?
「琉菜。おはようございます」
聞き慣れた、愛しい声がした。
琉菜が顔を上げると、庭に立ち、朝日を浴びながら体を伸ばしている沖田の姿が目に入った。
「総司……さん?」
琉菜は慌てて立ち上がると、沖田の元に駆け寄った。
「嘘、幽霊?じゃない……あったかい。動いてる……!」
「もう、人を化け物みたいに言わないでくださいよ」
沖田はにこりと微笑むと、軽く、琉菜に口づけた。
「琉菜、昨日私に嘘をつきましたね?昨日私が死ぬと言ったじゃないですか」
「本当に……?生きてる……?しかも、なんだか昨日より元気そう……」
久々にたくさん眠れたからじゃないですかね、と沖田は微笑んだ。
「総司さん、なんでかわからないけど、歴史が変わったみたいですっっ!」
琉菜は沖田に飛びついた。
歴史が、変わった。
そう思ったら、脳裏に浮かぶのはあの男の顔。
やったよ、山崎さん。歴史、変えられたよ?ねえ、これってすごいことなんじゃないですか?
「総司さん」琉菜は沖田の顔を真っすぐに見た。
「もう、これから先、どうなるかあたしにもわかりません。だから、一緒に、一日一日を大事に生きていきましょう?」
沖田は「はい」と笑った。
この笑顔がまた、見られるなんて。
琉菜は、こんな幸せなことがあるだろうかと、涙を流した。
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