17.密偵
あたしは、今も昔も、心の底から鬼になる覚悟はできてなかった。
鬼の仮面をかぶった、ただの弱い人間なんだ。
変装して
「生きて、あたしに復讐して」
偽者の鬼に負けた鬼にそう言うことで、もし一人でも多くの鬼が死なずにいられたら。
あたしは、それで罪を償ったことになるのだろうか。
それで生きる希望を与えられるのだろうか。
生きる希望を与えることは、罪の償いになるのだろうか。
そして、武士でないあたしが、武士になって人を斬った。女の癖に斬れない刀で人を斬った。
その罪は、許されるのだろうか。
琉菜はよりいっそう稽古にはげんだ。
非番の日でも、重い買い物でへとへとになっていても、毎日の稽古を欠かさなかった。
生きてかかってこい、と言ったからには、彼らは稽古を積み、琉菜に復讐に来ることも容易に想像できるわけで。
もちろん、琉菜も負けてはいられない。
死ぬわけには、いかないのだ。
そして、琉菜のもとに一通の手紙が届いた。
坂本からだ。
桂との話し合いを三日後に木屋町近くの近江屋で行うという。
琉菜は自分の
うれしくなって、琉菜は手紙をぎゅっと握り締めた。
「琉菜さん、どこ行くんですか?」
非番の日、外に出ようとする琉菜を見つけた沖田が朗らかに尋ねた。
「ちょっと遊びに!」
「誰とですか?」
琉菜はまさか坂本龍馬に会いにいくとも言えず、「ほら、あの島原の小夏ちゃんです」と言った。
「そうなんですか。行ってらっしゃい」
沖田はそんな琉菜の様子を気にもとめず見送った。
琉菜は島原とは反対方向、祇園方面に向かった。
近江屋は、のちに坂本龍馬の暗殺現場となる宿であるが、未来においてはその面影はなく、石碑が立つのみである。
故に、琉菜は現存する近江屋に行けるというだけでもテンションは上がりっぱなしなのであった。
近江屋は、今も昔も繁華街のど真ん中にあった。
あと数か月でそこが坂本龍馬の暗殺現場として歴史に名を刻むことなど、誰も知る由はない。
醤油商だったということで、「ごめんください」と声をかけて中に入ると、一階は広い土間があり、醤油の樽や製造に使うであろう木製の機械が並んでいた。
「どなたはんどすか?」
怪訝な顔をして出てきた女中に、「琉菜と申します。才谷さんに用があって来ました」と告げた。
女中は首を傾げつつも、いったん二階に上がった。やがて、琉菜が怪しい者でないと確認したのか、少しほっとしたような顔で階段を下りてきた。
女中に案内され、琉菜は緊張して階段を上った。
今度は、坂本龍馬だけではなく、あの桂小五郎もいるのだ。
「才谷せんせ、琉菜はんいう方いらっしゃいましたえ」
着いた部屋の前で、女中が中の人物に呼びかけたので、琉菜の緊張はますます高まった。
「おおっ!入るきに」
坂本の陽気な声が聞こえ、襖が開かれた。
琉菜はぎくしゃくしながら中に入り、その場にすとんと座り込んだ。
坂本の横には、端正な顔立ちをした、坂本と同い年くらいの男がいた。
この人が、桂小五郎!
背後で襖が閉まったのに気づく間もなく、琉菜はどうしたらよいかわからない心境になっていた。
ああ、っていうか、ここって多分まさに暗殺現場になる部屋だ!写真撮りたい!でも無理だ!うわああ!
琉菜は興味津々で部屋を見回した。絵心があればこの光景をイラストに残したりもできるのだろうが、残念ながら琉菜にそこまでの画力はなかった。
「琉菜ちゃん、こちらが、桂さんじゃ。桂さん、この子が琉菜ちゃんじゃき」
紹介され、琉菜はハッと我に返ると「よ、よろしくお願いします」と頭を下げた。
ところで、坂本さんは桂さんにあたしのこと何ていったんだろう。
「君か。私に会いたいとかいう女は」
「は、はい」
「坂本さんからは、長州の人間に探し人がいると聞いたんだが……」
なるほど!坂本さんうまい!
琉菜は坂本をちらっと見た。坂本は桂の後ろで親指を立ててにんまりした。
「は、はい。昔生き別れた父が……」琉菜は咄嗟に言った。
うまくやらなければ、ぼろが出る。
ましてや新選組の人間だとばれたら、殺されるかもしれなかった。
しかし、琉菜はすでにぼろを出していた。
「先ほどな、女中の方が言っていたが、その方、刀のような包みを持って現れたとな」
琉菜はぎくっと心臓が跳ねるのを感じた。
刃引き刀は下で女中に預けてきたが、意味はなかったようだ。
「父が残した物を、護身用に持ち歩いております」琉菜は咄嗟に言った。
「ふうん。女子が護身用に、刀。それに、その名、どこかで聞いたことが……」
桂は考え込んだ。
坂本も、まさか名前でバレるとは思わなかったのだろう。偽名を使うことを考えてはいなかった。
「思い出した。若い志士たちの間で近頃話題になっている。新選組の賄い方。斬れない刀を使い、肉体ではなく武士の魂を斬る、などと言われているが」
琉菜はキッと唇をかんだ。
ばれた。
殺される。
きっと敵討ちだって、今ここで斬られる。
「そんなに怯えなくても、斬ったりはしない。たかが賄い方一人斬ったところで、ここが汚れるだけだ。私は敵討ちなどという低俗なことはしない。だがな、今日琉菜さんがここにいること、新選組の者は知っているのか?」
斬ったりはしない、に安心しながらも、琉菜も自分は今ここで桂を斬ったり捉えたりするつもりは毛頭ないとアピールしなければならなかった。
「知りません!っていうか、坂本龍馬と桂小五郎に会いにいくなんて言えるわけないじゃないですか!」
「そう言って、本当は密偵なのではないか?」
「そんなんじゃありません!」
「そうじゃよ、桂さん。琉菜ちゃんが密偵じゃったら、わしゃあ今頃死んどるきに」
坂本が間に入り、桂は「坂本さんが言うなら……」と小さく言った。
「では、なぜ新選組の者が私に会いに来たのだ?」
「この目で、桂小五郎という男を一目見ておきたかったのです」琉菜は正直に答えた。
「なぜだ。お前が私に何の用がある」
「父を探しているというのは口から出まかせでした。申し訳ありません。あたしは、お鈴さんが、どうして死ななければならなかったのか、それを聞きたくてきました」
桂は少し考えこむような顔をして、「ああ、鈴のことか」と呟いた。
「思い出した。そういえば、女子の賄いが入ったと言っていた。そなたのことだったのか。しかし、おかしなことを聞くものだな。あいつを殺したのはそちら側だろう」
「じゃあ、質問を変えます。どうして、お鈴さんを密偵にしたんですか。あたしは、お鈴さんが新選組にいてくれて、女の人の賄い仲間がいてとっても心強かったけど……それでも、もし密偵じゃなかったら、新選組にいなかったら、幸せに暮らしていたんじゃないかって……」
「へえ、幸せに、ね」
桂は、悲しそうな、だが不敵な笑みを浮かべた。
「何も知らないのだな。あいつの許嫁、広岡は池田屋で殺された。どう転んでも、幸せになどなれるはずがないのさ」
琉菜は雷に打たれたように動きを止め、黙りこくってしまった。
池田屋の後、バタつく現場で琉菜は山崎に声をかけた。
――あたしが、殺しちゃった人、二階の上がってすぐの部屋。奥の窓際に倒れています。胸を突いてトドメを刺しました。あの人が、歴史的に死ぬはずじゃなかった人なのかどうか、確かめてくれませんか。
そして、山崎の回答はこうだった。
――広岡浪秀っちゅうやつで、もともと池田屋で死ぬはずだった男や。
「もともと市井の甘味処に紛れて情報を流してくれていたが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、というわけだ。あいつは自分から、新選組の中に入ると言ったんだ」
耳に布を当てられたように、桂の話はぼんやりとしか聞こえなかった。
あたしが、お鈴さんの許嫁を殺した?
いや、あたしが殺さなくても誰かが殺していたはず。
誰かって、誰?
未来の、新選組の本に、中富新次郎の名前は載っていた。
中富新次郎は、あたしはもう歴史の中にいるんだ。
もしもなんてない。
あたしが殺したから、あの人は、「池田屋で死んだ人」として歴史に名が残っているんだ。
そうだ、でも
「お鈴さん、そんなこと一言も言わなかった。桂さんの親戚だから、役に立ちたかったからって」
「そんなことを言っていたのか。まあ、おおかた、お前に情が移ったのだろう。お前の話をする時だけは、あいつは憑き物が落ちたような顔をしていた」
桂の語ったところによると、鈴は
――誰が直接手下したかはわからん。じゃけ、池田屋に最初に突入したっていう近藤隊の十一人をみんなまとめて恨んどるんよ。けんど、最近その中の隊士の妹いう子が入ってきてなあ。仇の縁戚じゃいうんに、女子同士だからやろか、馬が合うんよ。
などと語っていたという。
そして、そろそろ新選組に密偵のことがバレる。もうやめて戻ってくるようにと桂は説得したそうだ。
だが、鈴は首を縦には振らなかった。まだ大丈夫、まだまだ情報を引き出せる、と新選組での滞在を延長しているうちに、とうとう沖田に斬られてしまったという顛末だった。
琉菜はぽろぽろと涙を流した。
自分が許嫁を殺してしまった罪悪感からくるものだったが、桂も坂本も、単純にこの悲劇的な顛末に涙しているものだと思っているらしい。
「琉菜ちゃん、泣きなや。そのお鈴さんいうんは、琉菜ちゃんと一緒に賄い方やれて幸せやったと思うき」坂本が琉菜の肩をぽんぽんと叩いた。
泣き続けて何も言わない琉菜を持て余したのか、桂と坂本はさっさと自分たちの話に切り替えた。
「坂本さん、それであんたの話とは」
「この前の話の続きじゃ。考え直してくれんかの。武力で幕府を倒そうとしたかち、三年前のどんど焼けみたいなことになるだけじゃ。いんや、それよりもすごいことになると思う」
「坂本さん、今やそんな悠長なことを言っている場合ではない。幕府という今の体制を変えなければ、日本の未来はないのだ」
「そのために日本人同士が殺しあわなきゃならんいうんか?」
歴史上の人物が、日本の行く末について話し合っている。
この記念すべき状況を、琉菜は泣き腫らした目で聞くともなく聞いていた。
鈴の話がなければ、「すごいすごい!」と興奮していたところだったろう。
「坂本さん、その前に、やはりこの女子は帰すべきじゃないか?いくらなんでも、新選組の人間に聞かせる話じゃない」
「そやにゃあ。そうじゃ、琉菜ちゃんはどう思う?」
突然、坂本に話をふられて、琉菜は面食らった。
「えっ?」
坂本は興味津々、といった目で琉菜を見ていた。もちろん、顔には「未来人の意見が聞きたい」と書いてあった。
だが、桂はそこまでは知らないはずだ。未来人だとばれないように、いかにもこの時代の人間のように、政治を語るのは難しいが、琉菜はぽつぽつと話し始めた。
「あたしは、正直、幕府はあんまり好きじゃありません。なんていうか、腰がぬけてるっていうか……でも、新選組は大好きだから。できれば、大好きな新選組のためにも、幕府は続いて欲しいな……とか」
琉菜は求めるように桂と坂本を見た。
「そうじゃのう。新選組にはちょっと気の毒じゃがのう」
「新選組には多くの仲間が斬られた恨みがある。気の毒になど思わん」桂が断固として言った。
「わしはな、異国のいいところは取り入れて、そんで日本人が団結しちゅうてメリケンやエゲレスと戦いたいんじゃ。それが攘夷じゃ」坂本が話を少し変えた。
「いいところ、というと」
「例えば、メリケンでは、将軍みたいな政治の実権握るやつを、民に選ばせるんじゃ」
「民に?」
「そうじゃ。選ばれちまえば、わしも桂さんも、琉菜ちゃんだって将軍になれるんじゃ!」
琉菜は複雑な気持ちになった。
坂本の理想の未来は確かにやってくる。
だが、それだけでは、何も問題のない国づくりができるわけではないことも、琉菜は知っていた。
その時、外が騒がしくなった。
次いで、バタバタという足音。
襖がガラッと空き、女中が現れた。
「逃げてください。新選組の御用改めどす」
その場にピンと張り詰めた空気が流れた。
「やはり、おとりだったんだな?」桂が琉菜をにらんだ。
「そんなんじゃありません!まさか新選組が今日ここに来るなんて知らなくて……!」
「坂本さんを泳がせて信頼を得て、油断させたのだろう!」
「違います!っていうか、ぐずぐずしてたら来ちゃいますよ!早く逃げなきゃ!」
坂本と桂は顔を見合わせた。
二人は窓を開け、枠に足をかけた。
「おっと」
下を見下ろした坂本は、近江屋を包囲している新選組に驚いた。
やばい、こんなにいたら逃げられない。
ってか、なんでこんな時に限って来るの~??
確かに、山崎さんがここを見張ってて、それでこう新選組が目をつけてたのかもしれないけどさ。
だからって、何も今日でなくても……
「構わん。坂本さん、威嚇は、できるんだろう?」桂が含みをもたせた笑いをした。
「もちろんじゃき」坂本はにやりと笑った。
「琉菜ちゃんはどうするきに?」
琉菜は迷っていた。
下に下りれば新選組と鉢合わせる。
坂本龍馬と桂小五郎と一緒にいたことがバレたら、ただではおかれないことはわかっていた。
しかし、押入れに隠れるのも、近江屋の中を逃げ惑うのも、結局は時間の問題で見つかるような気がした。
「一緒に逃げます。あたしの正体はくれぐれも言わないで下さい」
坂本はにっと笑うと窓から飛び降りた。
桂と、着物の袖で顔を隠した琉菜も、後に続いた。
どうか、うまく逃げられますように。
琉菜が飛び降りた瞬間、部屋の襖が再び開いた。
襖を開けた沖田は目を見張った。
「今の……琉菜さん?」
沖田は不思議そうな顔をしながらも、廊下に出て吹き抜けのところから下にいる土方に声をかけた。
「庭に逃げました!私も行きますから、土方さんもそっちへ!」
琉菜はストッと下に着地し、ちらりと囲んでいる新選組を見た。
いるのは、一番隊と二番隊の隊士。
そして、表の方から土方、沖田、永倉と数名の隊士が駆けつけてきた。
「やっと見つけたぜ、坂本龍馬、桂小五郎!」土方がうれしそうに声をあげた。
「大人しく縄に―――」
土方は言いかけて、顔を隠している女を凝視した。
「琉菜―――?」
「この女か?変な名前で呼ばんでくれや。わしらの仲間じゃ!……名前はウメじゃ」
坂本はとっさに適当な名前をでっちあげ、琉菜の前に立ちはだかった。
坂本さん、ナイス!
「だがその
「違うゆうとるじゃろう」
「じゃあなぜ顔を隠してるんだ」
「見られたくないんじゃ……不細工じゃから。……やけどの跡がひどくってのう」
坂本はもっともらしいうそをつき、土方は眉をひそめた。
「ごちゃごちゃ言うてると、わしら逃げるぜよ?」坂本がにやりと笑い、懐からピストルを出した。
そんなものを見たことはない新選組隊士たちは驚き、さらに坂本がピストルを高くかかげ、一発発射すると、腰のぬけた隊士のおかげで包囲網が崩れた。
「行くぜよ、桂さん、ウメちゃん、ついてこいや!」
三人は腰のぬけた隊士と隊士の間を通って裏口に急いだ。
琉菜は相変わらず顔を袖で隠していた。
「ひゃっ!」
琉菜は突然背後から襟を捕まれ、動きを止めた。
「ウメちゃん!」坂本と桂が振り返った。
「わ、私のことなら気にするな!先に行け!」琉菜は低い声でそう言い、咄嗟に別人を演じた。
坂本は頷き、桂と共に走り去っていった。
何人かの隊士があとを追った。
琉菜も襟をつかむ手をなんとかふりほどこうとした。
しかし、無駄な抵抗だった。
琉菜の手をつかんでいる人物は、もう片方の手で琉菜の腕を顔から引き剥がし、無理矢理体の向きを変えさせた。
「やっぱり琉菜じゃねえか」
琉菜は泣き出しそうな顔で土方を見つめた。
「話は屯所でゆっくり聞かせてもらおうか」
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