畦道にエロ本を見つけるということ

雷藤和太郎

土からエロ本が生まれる

 子どものころ、エロ本は土から生まれるものだと思っていた。

 今を生きる子どもたちには理解できないことかもしれないが、エロ本はその辺にポイッと落ちているものだったのだ。

 特に田舎。

 森へと続く畦道や、竹林と墓地に隠れた砂利道の脇、あるいは単純に休耕田、河川敷、高架橋の下。本道からわずかに外れて人目に付かないところには、必ずエロ本が落ちていた。

 僕が子どものころは、インターネットがそれほど発達していなかったから、友人と外に遊びに行くときなどは、挙ってエロ本のある場所へ探しに行ったものだ。これは決して性に奔放などという話とは全く異なる。むしろ、男の魂が僕たちを探求へと導いていたのだと言って良い。

 僕たちは全くもって山賊であった。

 畦道や林道を駆け巡っては、自然の有するエロ本を盗む簒奪者であった。なぜそんなところにエロ本があるのか全く分からなかったのだけれど、確かにそこにあったのだからそれをとやかく言っても仕方ない。

 ある時、僕に天啓が降りた。

 この人工物そのものであるエロ本は、土から生まれいづるのだと。その荒唐無稽なヒラメキは、しかしその時の僕にとって説得力の塊だった。

 僕たち子どもがいくら拾ってもしばらくするとエロ本は再びそこにある。自然に生ずる以上、そこには何らかの力が働いているのだ。ちょうどその時、植物の生長について学校で習っていた。種は地中で芽吹きを待ち、己の生きやすい季節になるとたちまちのうちに発芽し、あっという間に成長する。

 その成長する様子を僕たちは根気よく観察することができない。アサガオの観察でさえ日に一回の観察さえも厭い、双葉の現れたと思った次の瞬間には天に向かって蔓が伸びていき、つぼみはあくる朝には咲いているのである。

 思えば植物の花が咲く過程など、つぶさに観察できる子どもがどれだけいるのだろうか。固く結ばれたつぼみの、先端がやわらかく綻んで渦が溶けるように花開く姿を、録画以外で目にした人がどれだけいるのだろうか。

 エロ本も同様なのである。

 いつの間にかその場に以上、エロ本はその場に生じるのだ。しかし僕たち子どもは、その生じる瞬間を見ることができない。固く結ばれたつぼみの、花が咲くその瞬間を見ることができない。気がついたら花が咲いているのである。

 この共通性をもって、僕は、エロ本が植物と同様に土から生じるものだという天啓に説明をつけることにした。

 しかしそこで大きな問題が生じる。

 植物が花を咲かせるには、植物の素となる種がいる。しかし、エロ本の種とはなんなのだろうか。

 これにはさすがに僕も頭を悩ませた。

 植物は花を咲かせた後に種が生まれる。その種は鳥に食べられたり、風に乗ったり、あるいは再びその場所に落ちて、次の芽吹きを待つ。

 しかしエロ本にそのような循環はない。

 なぜなら僕たちはそのエロ本を拾い集めては自分の宝物としてそれぞれの宝物庫に大切にしまっているのである。もちろん僕もその一人で、自室にある押し入れの片隅に、両親に見つからないようにそっと缶ケースに入れて隠し持っていた。

 であるから、循環はそこで終わってしまうのだ。植物は、花を摘んでしまえば実は生らず、よって種も生じない。エロ本は花である。花を摘んでしまっているのだから、種が出来ないのは当然の所作である。

 しかし、エロ本はそこにある。それならば、循環はそこにあるはずだ。僕はひたすらに考え続けた。そして考え続けた結果、またしても僕の中に天啓が降りる。

 エロ本は、その地に染み込んだ人間の欲望を種としているのではないか。

 つまり、僕たちがエロ本を求めるその意思こそがエロ本を生じさせる種であり、エロ本を求める行動力こそが、その地を耕す。そうしてあの人工的な人間の性欲を刺激する物が生まれるのではないか。

 この天啓は僕のエロ本自然湧出論に一つの結論を齎した。その結論は全く的外れな穴だらけの論理的思考に依拠していたわけだが、しかしながらエロ本拾いという、欲望を満たすだけの行動を正当化させるためには非常に重宝した。

 今となっては、それがバカバカしい話だということが分かる。エロ本が土から生じる訳がなく、人目につかないところに捨てられるのはエロ本が既にになったからであって、そこに自然の営みなど一つもない。あらゆる点において人間の行動が生み出したエゴの塊である。

 しかしそれが僕らの想像力を刺激し、あるいは下半身を刺激していたのは言うまでもない。今を生きる子どもたちには理解できないことだろうが、僕らは土くれから生じたエロ本を親にも見せられぬ秘宝とし、秘宝をもちいて精通したのだ。それは僕らにとってもっとも身近な冒険であり、秘密を共有する友人の間でのみ楽しむ後ろ暗い遊戯であった。

 人は秘密を共有することによって結束を強くする。

 ふと、今の子どもたちはこのような後ろ暗い冒険というものに接する機会があるのだろうか、と疑問に思う。祭りの境内、その裏手に憧れの女の子が近所のお兄さんと逢引きしているのを見つけるような、やがて自分も境内の裏手に仲間入りして、年少の視線を感じつつ享楽に耽るような、そんな後ろ暗さを経験する機会があるのだろうか。

 いや、それこそ杞憂というものだろう。

 僕たちが畦道に、高架下に、エロ本を探して冒険をしていたように、今の子どもたちもまた、後ろ暗い結束をもって見つけにくい何かを探しているに違いない。

 残念ながら、僕はエロ本を捨てるおじさんにはなれなかった。用済みになったエロ本を道端に捨てるおじさんは、今どこにいるのだろうか。実家に帰省し、かつての通学路を我が子と散歩しながら思う。

「近道して帰るか」

「うん」

 枯葉の覆う林道がかつて自分が通った小学校への近道だった。

 今はすっかり開拓され、住宅地になってしまっている。それでも防風林はいくらか残っており、そこにはもしかしたらという淡い期待を持ちつつ、我が子の手を引いて進んでいく。

 ふと、その防風林の奥の方に、人工的な染色の何かを見つけた。

 そこで僕は努めてそちらを見ないようにして、無表情に我が子の手を引いて実家へと帰っていく。

 僕は思わず口の端が緩んだ。

 それがエロ本かどうかは、確かめてみないと分からない。しかし確かめなくていいのだ。僕にとっては、それが確かにエロ本であるかなど瑣事にすぎない。後ろ暗い宝物は、もはやそれが本物でなくとも構わないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る