7
雲一つない、という言葉がぴったりな、嫌味なほど良い天気だった。風も全く吹いておらず、ただただ五月の太陽が屋上を熱していた。
「今日は暑いねぇ」松崎は脱いだ上着から煙草を取り出し、火を点ける。「この前までは寒かったのにな」
優斗は煙草を吸わないので、この気温の中、火を点けてまで煙を吸いたい気持ちがわからなかった。だが、遠くを見ながら美味しそうに吸っている松崎を見ていると、きっと悪いばかりではないのだろうと思う。ただ、副流煙を吸い込むのは嫌なので、全員アイコスを義務付ければ良いとも思っている。風が無いため、煙は真っ直ぐ上に昇っていた。
松崎はなかなか話そうとしなかった。ビルとすら呼べないような低い社屋の屋上からでも、なんとか町を見下ろすことはできる。
早くしないと昼休みが終わってしまう。少し焦る気持ちもあったが、優斗は辛抱強くまった。自分の馬鹿みたいな質問に対して、真剣に考えてくれているのがわかる。それが何よりもありがたかった。
煙草はぐんぐんと短くなっていく。吸い終わったら、答えてくれるだろうか。それとも、続けてもう一本吸うだろうか。だが、吸い終わる前に松崎は振り返った。
「うーん、俺の場合はね。まずドラフトで引っかからなかったところでかなり挫けたよね。それでも諦められなかったから、大学に入ってからも野球を続けたよ。その後は予想つくと思うけど、全国から俺と同じような人が集まってたわけだ。甲子園準決勝どころか、甲子園で優勝した経験がある奴もいた。そんな中で、自分のレベルを思い知ったってやつだね」
松崎は照れ臭そうに携帯灰皿を取り出し、煙草を消した。
「でも、やっぱりそれでも野球はやめなかった。って言ってももうプロを目指せないのはわかってたから、ダラダラ続けてただけだけどね。それでも、やっぱりその頃の夢はプロになることだって思ってたと思う」
ワイヤーだ。その頃の松崎には、優斗と同じように首に見えないワイヤーがかかっていたのだ。少し苦しそうに、でも楽しそうにボールを投げる、若い松崎の姿が目に浮かんだ。圧倒的な親近感に、体が熱くなった。
「どうやって、諦めたんですか。松崎さんは」優斗も上着を脱ぐ。
「うん……。これまた恥ずかしい話なんだけどね。その頃付き合っていた彼女がいたんだけど、っていうか、今のカミさんなんだけど、結婚することになったんだよ。いや、デキ婚じゃないよ。なんていうか、お互いそういうタイプだったんだね」
松崎がハハハと笑う。優斗には何が面白いのかわからなかった。どういうタイプだったのかもさっぱりわからない。
「それでさ、結婚してこの人を養わなきゃいけないのに、いつまでもプロになりたいとか言ってられない、って思ったんだな。まあ、よくある話だ」
確かによく耳にする理由のような気がするが、実際に「その理由で夢を諦めました」と言う人に会ったのは初めてだ。聞き覚えがあるのは、きっと、小説や漫画、ドラマなどでよくある設定なのだろう。身体の熱が急速に冷めていくのがわかる。上着を脱いだせいではない。
「まあそういうわけ。なんか悩んでるなら、いつでも相談に乗るからね」松崎は腕時計に目をやると「もうこんな時間。さあ、戻ろう」とわざとらしく言った。
もうこんな時間なのはわかっていただろうし、それでも昼休みはまだ十分近くある。つまり、優斗の話を聞くつもりはないのだ。少なくとも、今は。
ドアを開けて戻っていく松崎の背中を見送って、優斗はため息をついた。
確かにありきたりだが、まったくピンとこない話であった。
家族がいるから夢を諦める、というロジックがわからない。家族のために頑張れば良いのではないのか。それで成功すれば、こんな小さな企業の給料よりもずっと稼げるだろうし、家族にも良い暮らしをさせてやれる。むしろ喜ばれるはずだ。少なくとも、好きでもない仕事をして、ストレスに塗れて帰宅するよりも、本人にとっても家族にとっても良いことなのではないか。
家族が理由なんて、ただの責任転嫁だ。
優斗は煙草の煙を吐きだすかのように、深くため息をついた。
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