#57 Blood
耳をつんざく悲鳴に、私は腰を抜かす。魔女の生々しい腕が血だまりを叩いて、
むせかえる鉄の匂いに、眩暈がする。これは、現実じゃない。夢だ。慌ただしく彼女に駆け寄る大人たちも、頭を抱えてへたれ込む若い女性たちも、阿鼻叫喚の地獄絵図は、一秒後に夢から覚めて、現実は元通りになる。これは……夢だ。
「おい! 救急車を呼べ!」
清川が叫ぶ。魔女の側に駆け寄る男たちが次々に答える。
「もうずっと掛けてる! 電波が届かない!」
「先に救急措置を行うのが先だ!」
「そ、そうだ! とりあえず病院に連れていくまで―――――!」
「待ってください! こんな山奥まで救急車が来るのに何時間掛かるか分からないんですよ! それまで彼女の命を繋ぎ止められますか?」
男たちは互いに顔を見合わせる。
「医療関係者はいるか?」
清川が振り返って、参加者に呼びかける。
しかし、みなゆっくりと首を横に振るだけだった。
「あ、あの……」
小さく手を上げたのは、伊谷さんだった。
「こういう山奥のホテルには、たいてい衛星電話が備え付けられているはずです。まずは、事務室や……、フロントのような所を、探しましょう。いずれにしても……、人を呼ぶ必要があります」
伊谷さんは震える唇で一つずつ言葉を紡いでいく。ひどく怖がっているが、一言一句を確実に私たちに伝えたい、という意思が感じ取られた。
「分かった。そこの女と、そこの女、それからそこの男! お前らは二階を探してこい! そっちのお前から、ドアの前に立ってるお前までは、一階を隈なく調べてこい!」
清川は躊躇いなく指を差して、テキパキと指示を出していく。
「あと、お前―――――」
目と目が合う。彼の指が私を差して、それからすぐ隣にいた別の男性を指差した。
「―――――とそっちに突っ立ってる男、お前らはAEDを探してこい」
私たちはまだここがどういう施設なのか分かっていない。これだけの人間を収容できるのだから、一般の宿泊施設と見るのが普通だろう。だが、らしからぬ特殊な部屋の配置は一見すると富豪の別邸のようにも思える。もし、そうならどうする。この古風な邸宅にAEDが設置されているとは思えない。実際、ここに来るまで私たちはその類の装置を見ていない。消火器だって、非常口の誘導灯だって見ていない。ホテルや旅館にあって然るべきものがここにはない。きっと、衛星電話だって……。
「早く行け!」
思案する私を、清川が大きな声で急き立てる。
私は声が出ないまま短く頷き、大広間を飛び出た。
いったい何が起こったんだ。私たちはさっきまでバスに揺られ、楽しい旅行に思いを馳せて、ようやくたどり着いた雰囲気の良い旅館に胸を躍らせていた。それが、魔女に集められ、不思議な呪文を聞くうちにこんなことになってしまって、もう何が何だか分からない。今になって、机の上に置いてあった金メッキの蝋燭台を思い出す。火の点いていない蝋燭が刺さっていた。なぜ火が灯っていなかったんだろう。そういえば、私たちの杖に灯っていた光はいつの間にか消えてしまっていた。宙を飛び回る、若い女の声。チェリーケの化身。人を殺せば、自由に魔法が使える……、様々な色や光が頭の中で混ざり合う。
でも、私の心を満たしていくのは、紅い血だった。ちゃぷちゃぷと激しい波を立てながら、かさが増していく。慌てて喉元までせり上がってきたそれを呑みこんだ。
大量の血を吐き出した人間はいずれどうなっていくのか、巡る血の経過を考えるより先に結果だけが頭の中で大きく膨む。
彼女は、もう死んでいるんじゃないか?
あの場で咄嗟に清川が呼び掛けをしたから、私たちは彼女を生かすための手段をあれこれ模索している。だけど、それはすでに無意味な行動に変わっているんじゃないだろうか。あんな状態の彼女を見て、息がある、と判断するのは簡単な事じゃない。いっそ死んでしまったと諦める方が自然ではないだろうか。清川は目の前の人命を救うために、反射的に体が動いたのかもしれない。でも、あの時、皆の頭の中にある考えがよぎったはずだ。
彼女は死んでいる、なぜなら、彼女は何者かに殺されてしまったから。
チェリーケの化身、とかいうあの若い女が言ったからだ。人を殺せば、魔力の生成方法を理解し、自由に魔法が使えると。何の根拠もないその話を信じる者がどれだけいたか分からない。しかし、あの場にいた全員の頭の中に、曖昧な言葉が曖昧ながら形を成した、その感覚だけはあったはずだ。
魔女の不可解な「死」が、殺人と結びついてしまったのだ。
「待ってください」
不意に男の声が肩を掴む。
反射的に身を躱して、驚いた顔で声の主を見つめた。
「驚かせてしまいましたかね……、すいません」
その男は、ひょろっとした痩せ型の体型で、面長の顔に、黒縁眼鏡をかけていた。正直に言って、参加者の中にいたことが怪しく思えるほど印象の薄い男だった。上手く例えられないが、強いて言うなら、歴史の教科書に出てきた戦前の日本兵のようだ。年の頃は、三十代手前くらいか。たぶん年齢の重ねによるものだろう、乾燥による肌荒れが起き始めていた。
「貴方は、先ほどの……」
そうだ、この男は私と同じように清川にAEDを持ってくるよう命令された、もう一人の方の男だ。恐らく、考えもなしに飛び出した私を追いかけてきてくれたのだろう。
「私、白居と申します」
「白居?」
馴染みのある名前を聞いて、声が上ずる。
「はい、白居正臣と言います。今回の旅行を企画した白居美佳の実の弟です」
正臣さんの眉が「ヘ」の字に曲がる。
「まさか姉の思いつきで企画された旅行がこんなことになるとは……、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「そんな、白居さん……じゃなくて、正臣さんのせいではありませんし、当然、美佳さんのせいでもありません」
「いや、私には分かります。貴方はきっとこの旅行に来たことを後悔していたんじゃありませんか?」
胃の根をグッと掴まれる。
「後悔、はしてないですけど」
「先ほど大広間で魔女に話していた内容から、そのような含意を汲み取りました。参加者はみな最初からこの旅行を怪しんでいた。でも、彼女に魔法を見せられるうちに信じ切ってしまった。でも、貴方は信じなかった。だから、ああいう言葉が出たんですよね」
「……そう、ですね。おっしゃる通りです」
もう隠す必要はないだろう。魔女に向かってあそこまで啖呵を切ってしまったのだから。
「私は初めから反対していたんです。こんなお遊びを企画にしちゃいけないって、この旅行に招待された時、そう言ったんです。でも姉は聞く耳を持たなかった。夢のためだ、と言い張ったんです」
白居、姉……、そうか、気が動転して気が付かなかった。
「白居さんは……? いまどこにいらっしゃるんですか? 彼女を先に呼びましょう! そうすれば、私たちが乗ってきたバスを呼び戻すこともできます!」
「それが……、私にも姉がどこにいるか分からないんです。電話を掛けようとも思いましたが、電波も届かないですし……」
白居さんは、この旅行中、集合場所である駅前での挨拶と各休憩ポイントでお手洗いの呼び掛けをしただけだ。それ以外で、彼女が姿を現すことはなかった。世界観を壊さないための彼女なりの配慮だろうが、しかし、いまはそのせいで足取りが全く掴めない。
「彼女がこの館にいるかどうかも分かりませんか?」
「すいません、私も貴方と同じこの旅行の参加者です。何も知らされていません」
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