#53 First Love

「楽しそうに、何話してたの?」


 休憩地点である公園の駐車場に停まったバス。昇降口を降りる私の背後から、千紗が声を掛ける。

 振り返ると、彼女はニマニマと気持ちの悪い笑みを浮かべている。


「何のこと?」

「惚けちゃってぇ~、清川さんのことだヨ」

「清川と、私が? 楽しそうに話してた?」


 この旅行の全容を解明するために、熱く議論し合ったのは間違いないけど。周囲からはそういう風に見えていたのかな。


「あんなに生き生きと喋る文乃を見るの初めてだよ」

「冗談やめてよ。あんなヤンキーみたいな男と話が合う訳ないでしょ」

「そうカナ? 好きな映画の話をするときみたいな顔してたケド」

「そんなわけないでしょ。千紗だって、私の好みの映画とか、私の好みの男性がどういうタイプか知ってるでしょ? ああいうのは性に合わないの」

「え? 文乃の好きな映画はいくらでも言えるケド、好きな男性のタイプなんて知らないし。そもそも文乃って男子苦手だから避けてなかったっけ?」


 純粋な疑問をぶつけられた私は戸惑う。

 彼女の中で私はまだ『鉄の女』で、交際を申し込む男子たちを無感情に切り捨てきた女なのだ。清川と対等に話し合えたことに舞い上がっていい気になっていた。千紗と向き合って改めて気持ちの変わりように戸惑いを覚える。


「苦手とは言ったけど、人って変わるもんだよ、千紗。私だっていつまでも独身って訳じゃないし」

「そんな……、文乃に結婚願望があったなんて……」

「そんなに驚くこと? 私ぐらいの年頃の子なら、みんなそう言うでしょ?」

「でもサ、でもサ。文乃、男と結婚するくらいなら自分のやりたいことするって、昔、私に言ってくれたよね?」


 千紗の救いを求めるような顔。テレビ業界の女性スタッフは婚姻率が低いという情報を聞きつけた千紗がいつか私に相談してきたことがある。千紗は、その道を選ぶことによって結婚できない可能性を恐れていた。当時の私の中に結婚という選択肢はなかったので、私の腹は最初から決まっていた。「自分の好きなようにやればいい」と今にしてみれば、無責任に思えるような言葉を彼女に掛けたのだ。

 今、同じことを聞かれたらどう答えるだろう。きっとあの頃より多くの時間を掛けて悩み、あるいはそれを自分自身に置き換えて考えに考え抜くだろう。そうして出した結論は、たぶん、とても曖昧な答えになっていると思う。だってそう簡単に割り切れるものじゃないから。


「好きなことをやるのは大事って今でも思ってるよ。こういう時代だし、女性も活躍できる場がどんどん増えてるから。家庭を持ったり子育てをすることが女の使命じゃないから。やりたいようにやればいいと思う。でもだからって結婚のみちを閉ざしちゃうのは違くない?」


 これがいま答えられる精一杯の回答だ。

 千紗は呆れたように笑ってみせた。


「なんか文乃、変わっちゃったね。本当に清川さんにほだされちゃったんじゃないノ?」

「絆されるって……、私があの人に惚れてるってこと?」

「そう。だって文乃、さっきからずっと顔が笑ってるモン」


 慌てて頬を手で覆う。表情筋が締まっている。

 私、ずっと笑ってたの? 清川の話をしながら?


「席に座ってる時もそうだよ。だからホントに楽しそうダナーと思って」

「千紗にそこまで言われたら……」

「え?」

「千紗にそこまで言われたら、もう

「ウソ? 文乃、本気?」

「うん」

「ちょっとちょっと! 文乃こっち来て!」


 文乃が私の手を取り、公園の木陰に誘う。


「私もああは言ったケド、半分冗談でからかってただけだヨ。まさか本気だなんて思わなくて……、でもこれは大ニュースだよ! 早く安江ママに報告しなきゃ!」

「なんでお母さんの名前が出てくるのよ! あの人には一番知られたくない!」

「だってあの文乃が……、安江ママ、ビックリするよ!」

「何て言うつもり?」

「文乃が男を好きになりました、って」


 顔がどんどん熱くなる。恥ずかしい、という気持ちを千紗との会話で抱いたのは初めてだ。

 思えば友人とこういう話をしたことがない。友人どころか、家族にも話したことがない。きっと私は恋愛という側面において、ありのままの姿を人に晒したことがないのだ。


「しかも、相手はヤンキーみたいな人ですって」

「いや、言えない言えない。お母さんが、日頃どういう男と付き合うべきか説いてくるの想像がつくでしょ」

「想像つくネ。でも、これって、もしかしてサ……」

「なに?」

「初恋ってやつ?」


 恋、という響きに体がさらに熱を帯びる。


「えぇ……? 初恋って言うのかな?」


 自然と顔が綻ぶ。

 かつて青春を共にした同級生たちのことを思い出す。体育祭、文化祭、修学旅行、何か大きなイベントがあるごとに友人たちは色めきだった。毎月やってくる席替えの時間ですら、お見合いのような雰囲気があった。そして毎日のように、あの子とあの子が最近イイ雰囲気だとか、隣のクラスの誰それ君がアンタのこと好きって言ってたとか、又聞きで聞いたような小さな恋の噂に心躍らせていた。

 私はそれを静観していた。私には関係のない話だと思って、輪に入らなかった。自分がその場で上手く話せる自信もなかったし、友人たちも敢えて私に話を振らなかった。身を引いた私が先か、話しかけなかった友人たちが先か。それは卵と鶏の関係とも言えるけれど、一つだけ言えるのは、誰もその鶏のことを気に掛けなかったということだ。青春の数多ある一幕の中に、『恋』と題した演目がなかっただけだ。

 当時の彼女たちが抱いていた想いはこういう想いだったんだ。自分の知らない自分が今にも殻を破って出てきそうになる。このまま千紗に、彼に対する思いの丈を、ぶつけてみたい。ああは言っても彼の知られざる魅力を伝えれば、千紗もきっと共感してくれるだろう。なんだか、こういうの、悪くないかも。


「文乃の初恋かあ……、嬉しいような、少し寂しいような気持ちだネ」

「そう? 私も最初はイヤだなって思ったけど、まあ、意外とイイなって思える一面もあってさ―――――」

「じゃあ、その話は夜にでもたっぷりと聞こうカナ」

「よ、夜?」

「うん。私も色々と話聞きたくてウズウズしてるけどサ、休憩時間そんなにないから、後で聞くヨ」

「あ、うん、そうだね……」

「さっきみたいに長い列が出来る前に行っとこ?」


 文乃はふいっと顔を反らす。

 溢れ出した感情が行き場をなくし、火照る体が徐々に体温を失っていく。文乃にとっては、どうでもいいことだったのかな? 私ばかりが熱くなって、彼女と温度差があったのかもしれない。考えれば、千紗にとって私の初恋は数ある友人の恋愛模様の一つって感じだろうし。色んな側面があって常にそれらと向き合っていく。恋愛って難しいんだ。






「そう言えば、伊谷さんの調子どう?」


 公園の公衆トイレに向かう千紗の背中に問い掛ける。


「伊谷さん? だいぶ良くなったヨ。今もトイレ行くって一人で出て行ったし」

「そっか、良かった。きっと千紗のおかげだね」

「えへん」


 千紗は胸を張って誇らしげな顔をする。


「あとは椿さんに貰った薬も効いたのかな」

「あ、あれ、ポケット入れたままだ」

「どういうこと?」

 

 千紗が澄ました顔で、履いているジーンズのポケットから、椿さんに渡された個包装の錠剤を取り出した。


「千紗……? なんで、それ持ってるの? さっき伊谷さんに飲ませたはずじゃ……」


 確かに、彼女が天を仰がせた伊谷さんに薬を流し込むところを見ていた。あの時飲ませた錠剤は彼女に貰ったものではなかったのだろうか。


「伊谷さんには、元々私が持ってた酔い止め薬を飲ませたんだヨ」

「なんでそんなことしたの? せっかく貰ったんだからそれ飲ませてあげればよかったじゃない」

「だってこの薬、怪しいジャン」

「怪しい?」

「この錠剤、飴ちゃんの袋に入ってるでしょ?」


 千紗の言う『飴ちゃんの袋』とは透明のセロハン紙で作られたような、両端がギザギザになっている、小さな個包装のことである。


「これ、少しフシギだと思わない? 普通、こういう錠剤タイプの薬ってなるべく外気に触れないように、一つずつ密閉したパック使ってるでしょ? でもこの飴ちゃんの袋だと入れた後も空気に触れる量が多くてすぐに痛んじゃいそう。それって、痛んだ薬を渡しても構わないって思ってるか、もしくはそもそも酔い止め薬じゃないとか。毒の可能性もある」

「毒?!」

「うん。知らない人から薬貰うことなんてないんだから、そこまで警戒すべきだヨ」

「警戒……って、椿さんが伊谷さんをどうこうしようなんて普通思わないでしょ」


 千紗は目を細める。


「文乃はあの椿って人のこと気に入ってるかもしれないケド、私はそうでもない。むしろ怪しさの方が勝ってる」

「なんで? そんな人に見える? どう見たっていい人に見えるよ。さっきの親子の時だって見てたでしょ? 真っ先に手挙げてさ、すぐ降ろしましょうって。あんなこと出来る人が伊谷さんに毒を盛ったりするはずない」

「逆に、行動力の表れとも言えるヨ?」

「行動力があるとして、伊谷さんに毒を盛ろうと考えた理由は何? 今日、初めてあった人に毒を盛る理由はないでしょ」

「動機は分からないヨ。私は単に急に渡された薬が変だなって思っただけ」

「じゃあ、椿さんを悪く言わないでよ。その薬だって本当にただの酔い止め薬かもしれないし」

「でも、可笑しいジャン。ただの親切にしては出来すぎてる」

「親切って言うなら、千紗だってそうだよ。伊谷さんの介抱をしてる時の千紗、手際が良過ぎた。まるで初めからこうなることが分かってたみたいだった」

「私は違う。文乃だって知ってるでしょ。昔から弟とか妹の世話をしてたし、高校に入ってからは、おばあちゃんの介護でよく学校帰りに寄ってたから、ああいう具合の悪くなった人の扱いに慣れてる。今回もその時の経験が活きただけ。初めから経過が分かってるのは、むしろあの椿って人じゃない?」


 全てに否定的な言葉で言い返す千紗に、段々と腹が立ってくる。


「椿さんは関係ないでしょ!」


 この場を諫めるつもりでつい大きな声が出る。

 しかし、千紗は一歩も引かなかった。


「文乃、やっぱり可笑しいヨ―――――」


 表情に陰りを落として、彼女はまた私に背を向けて去る。

 

 渦巻く様々な感情に呑まれた私は、しばらくその場に立ち尽くした。

 

 


 


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