そうして週が明けた翌日。いつも通り変人たちの集まりだがすこぶる平和な職場で校閲の仕事をしていると、櫻田が、たははと笑顔を貼りつけて校閲部に顔を出した。

 なんだか、あまりいい予感がしない。

 入ってきた姿をちらりと一瞥し、とりあえずそのまま無視して仕事を続けていると、後ろ手で手を組み、くねくねしながら櫻田がちひろのデスクの横に立った。

「ちーひろちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど」

「……」

 変な笑顔をしていると思ったらやっぱりか。どうして早峰カズキの原稿を校閲したのが自分で、その担当編集が櫻田なんだろう。そのおかげで彼の家は少しずつ再生されつつあるし、新作の『抹消』もヒットを続けている。長浜さんとも知り合えたし、酔いが醒めた頭でも昨日はやっぱり楽しかったなと思う。でも、このやり場のない怒りとも落胆とも呼べる気持ちは一体どこに向けたらいいのだろうか。……ほんと、ツイていない。

植木うえき賞も取った中堅の女流作家さんが、ぜひちひろちゃんに会いたいって言ってるんだけど、ちょっと俺と一緒に先生のところに行ってくんない?」

 ため息を飲み込んでさらに無視を決め込んでいると、さすがの櫻田も、ちひろのその様子から普段の調子のよさはいったんしまって、低姿勢で懇願してきた。

 植木賞とは、作品全体の構成やストーリー展開、商業性や娯楽性に重きを置かれた作品に贈られる文学賞だ。ノミネート作品の発表も受賞作の発表の同日なので茶川ちゃがわ賞と混同されがちだけれど、そちらは純文学といって芸術性や形式について重きを置かれた作品を書いた新人作家に贈られる賞なので、そもそもの作品の傾向が違う。

 双方の作品を読み比べてみると、なんとなく違いも見えてくるだろう。ただ、どちらも大変名誉な賞には変わりない。ちひろも発表があるたびに毎回チェックしている。そこに幻泉社の作品が、さらに言えば自分が校閲した作品があれば、もちろん言うことはない。

 そんな女流作家が、ただの校閲部の社員であるちひろに一体、何の用があるというのだろうか。櫻田が植木賞を受賞するほど有名な作家先生の担当をしていたことにも驚いたけれど、まさか一緒に来てほしいと言われるなんて思ってもみなかった。

「……ど、どういうことですか? というか、なんで私が?」

 おっかなびっくり、顔を上げる。どういうことかはわからないが、またこの平和な時間が櫻田によって侵される予感だけはビシバシだ。すると。

「いやあ、何か面白い話はないかって聞かれて、校閲部の子が誤字で出版停止の危機を救ったって話をしたら、その先生――あ、美崎糸子みさきいとこ先生っていうんだけど、ぜひ実物に会ってみたいとか言い出しちゃって。こっちとしては〝こんな若輩者が担当させていただいてる〟作家さんだし、美崎先生、一度言い出したら聞かない人なんだよ」

 櫻田が申し訳ない顔をしながらも、どこか悪びれきれていない様子で頭を掻く。

 それは、要は美崎糸子も櫻田が担当している〝わがまま作家〟のうちの一人だということだろうか。ともかく、変なフラグを立てやがって、とちひろは憤りを隠せない。

「だ、だからって、なんで私が編集さんの言うことを聞かなきゃいけないんですか。しかもどうしてその話をチョイスしたんです? 校閲部は出版前の最後の砦ですけど、表立つものじゃないんですよ。いわば御庭番、忍びのようなものなんです。外に出て作家に会う校閲なんて聞いたことありませんよ。忙しいので断ってください」

「だって仕方ないだろ、面白い話って言われてぱっと浮かんだのがこの間のことだったんだから。俺だって校閲部が御庭番だってことはよーくわかってるし、この話を出したらちひろちゃんはいい顔しないだろうなってことくらい、百も承知だっつーの」

「そこまでわかってるんだったら、どうしてっ」

「美崎先生には、もうずっとうちで書いてもらえてないんだ。それに、ほかの出版社でもここ数年は新作は出てない。何度も会って打ち合わせしてるけど、全然筆が乗らないって言って、いつも書きかけのまま終わるんだよ。美崎先生には若い担当だって思われてるだろうけど、俺だって編集者の端くれだ、なんとか一作、書かせてやりたいって思って当たり前じゃんか。提供できるネタがあるなら提供するだろ、それで書けるんだったら!」

「だからって! いつも勝手すぎます!」

「だからこうしてお願いしてるんじゃん!」

 だんだんと声が大きくなれば、負けじと櫻田も声を大きくする。

 その声で校閲部の同僚たちからジロリと睨まれてしまったちひろと櫻田は、慌てて口を噤み、校閲部の部署内にある資料室の中へと、すごすごと場所を移す。

 こういう場面で何度か仲裁に入ってくれた竹林は、あいにく今、トイレだとか言って席を外している。お茶の飲みすぎなんだと思う。お茶は体にいいとは聞くが、利尿作用もあるんだから、もう少し控えてほしい。そうすれば、こんなに気まずい思いをしなくて済むのに……。そう思うと、またやり場のない思いがふつふつと湧き上がる。

 櫻田は編集部に戻ればそれで済むかもしれないけれど、こっちはここが職場だ。うるさいだのなんだのと言われることはまずないが、同僚たちからの視線がとにかく痛い。そんな視線に耐えながら仕事をしなければならないこっちの気持ちも少しは考えてほしい。

 早峰カズキのことがあって、櫻田も仕事に対する姿勢が変わってきているようではあるけれど、それとこれとは話が別だ。私の平和を返してくれ。私は活字が追いたいんだ。

「……なあ、頼むよ。美崎先生は自分からスランプとは言わないけど、実際問題スランプから長いこと抜け出せてない。短編を書くのだって一苦労の状態なんだ。読めばわかる。このままじゃ筆を折りかねないところまで来てるんだと思う。ちひろちゃんも本が好きなら、作品を書き上げるまでの苦労とか苦しみとか、想像したりするだろ?」

 ぶっすりと頬を膨らませていると、さっきとは一変、乞うような口調で櫻田が言う。

 ちひろも美崎糸子の作品は何冊か持っている。歴史小説や青春小説、ファンタジーなど幅広いジャンルを書く作家だが、彼女は特に男女の恋愛ものを得意としていて、植木賞を受賞した作品『ヒッチハイク・ランデブー』は、正真正銘、彼女の代表作だ。

 不倫とは知らずに付き合っていた男の妻にそれを公にされ、会社にも派遣会社にもいられなくなった二十九歳の無職の女性と、親友だと思っていた同級生が実はゲイで、それを告白された十八歳の男子高校生が、ふとしたことをきっかけにヒッチハイクで共に旅をする、というのが大まかなあらすじだ。日本各地をヒッチハイクで回っているうちに、お互いの抱えているものに少しずつ踏み込み、傷を舐め合うように心に寄り添いはじめた二人は、やがて恋をする。その過程がとても繊細に描かれていて、感情移入は必至。それと同時に、実際にその場で風景を眺めているかのような情景描写の美しさにも心奪われる。

 境遇だけ見てみれば、今の時代、取り立てて珍しい題材でもないように思う。けれど、先の見えないものに対する不安や焦り、苦しみなどは、誰もが持ち合わせるものだ。それがいちいち胸に刺さり、二人のどうしようもない感情が切ないほどに迫ってくる。

 結局二人は、旅の終わりにもう会わないことを約束し合って別れる。そのラストシーンは本当に秀逸としか言いようがなく、読後しばらく、後を引くようにちひろの頭から抜けなかった。あれはまさに美崎糸子にしか書けない恋愛小説だったと思う。

 ざっとを思い返しただけでも、印象的だったシーンや台詞が思い出されて胸が苦しい。

「……そりゃ、校閲の仕事に携わっている以前に、私は根っからの読書人ですけど」

 思いがけず涙腺が緩んでしまい、ちひろはそれを見られないように、ふいと櫻田から顔を背ける。書くほうも一度やってみたから、ずっと心に残り続ける物語を紡ぐことがどんなに大変なことか、ちひろだってまったくわからないわけじゃない。そんな人がスランプに苦しんでいるなら助けになりたいとも思う。それに『ヒッチハイク・ランデブー』を書いた人がどんな人か、正直なところ、美崎糸子の名前が出た時点でかなり興味もある。

「だったら、な? こんなことは滅多にないし、ミーハーだけど、頼めばサインだってもらえるかもしれない。まだだった廻進堂の和菓子も弾むしさ。……っていうか、何ちょっと泣いてんの。まあ、植木賞のあの作品、俺も読んでボロボロ泣いたけど」

「ズッ。……み、見ないでくださいよ。泣いてないですし」

「ぶはは。ちょっと遠方だから、会いに行くのは明日だ。サインしてもらいたい本があるなら、ちゃんと持ってきてね。遠方っていっても余裕で日帰りできるけどさ」

 鼻をすすってしまうと、いつのものかはわからないが、櫻田がスッとハンカチを差し出してきた。なんだか全部を見透かされているようで無性に悔しくて、ちひろはそれを乱暴に奪い取ると、体ごと反転させてとりあえず目尻に溜まった涙を拭いた。

 まったく、ここでも廻進堂を餌にするとは、どういう神経なのだろうか。廻進堂を携えて来てくれれば二つ返事で了承したかもしれないのに、櫻田はそこら辺が実に残念だ。

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