12

 *


「……あー、疲れた。こうなることは予想してたけど、それ以上だ……」

「で、ですね……。私もさすがに明日の仕事に響きそうです」

「だなー……。二人とも、丸一日以上、起きてるんだし。長すぎる一日だったよ」

 ちひろと櫻田が事情聴取から解放されたのは、とうに日付が変わった頃だった。初夏の深夜の風を浴びてぐーっと伸びをした櫻田の横で、ちひろは重い頭を振る。

 駆けつけた警察官によって取り押さえられた両親は、名目上は櫻田を殴ったという傷害の容疑で交番に連れて行かれ、その被害者である櫻田と、一部始終を見ていたちひろ、それと渦中の早峰カズキがそれについて詳しい事情を聞かれることになった。

 早峰カズキや両親がどう事情を説明したのかまではわからないが、ちひろと櫻田は事を荒立てるつもりはないということだけを繰り返し主張し、通報からかれこれ四時間後の深夜一時過ぎ、「今日のところは」ということで、ようやく帰してもらえたのだった。

 櫻田が言ったように、本当に長すぎる一日だった。口の端が切れたり生々しい引っかき傷ができた櫻田の顔にも疲れの色は濃く、口調はいつも通り軽いが、それだけ重い。

「……あの家族はこれからどうなるんでしょうか」

「さあなあ。三人とも、カウンセリングが必要だとは思うけど、早峰カズキが言ってたように、ああいうのは一生治らないものかもしんない。……俺にもわかんないさ」

「でも、早峰カズキは、きっとまだ諦めてませんよね?」

「〝家族の再生〟?」

「はい。そうであってほしいと思います」

 伊澄家の三人は、今夜は別々に警察署の中に泊まるそうだ。さらに詳しいことは夜が明けてから、カウンセリングが必要かどうかも含めて署の人たちが対応してくれるらしい。

 櫻田が冒頭に「このままでは出版できない可能性がある」と言ったのは、こういうことになる可能性を考えての発言だった。ズカズカと土足で家庭の中に踏み込んでいけば崩壊の一歩手前で踏み留まっていた伊澄家の崩壊を手伝ってしまうことになるかもしれない。そこまで考えての、出版停止をも覚悟しての、櫻田なりの誠意の言葉だった。

「そうだなぁ。でもまあ、今回の『抹消(仮)』も、最終的には主人公は救われてる部分もあるし、案外大丈夫だったりするかもよ? よくわからんけど」

「……櫻田さん、軽すぎます」

「ははは。こうでも言っとかなきゃ、あんなことのあとで、やってらんないって」

「そりゃあまあ、そうなんですけど……」

 相変わらず調子のいい男だなと思いながら、とりあえず始発を待つために駅へと足を向ける。あのファミレスは、さっきの今じゃさすがに使えない。ほかに適当な店もないし、なにより土地勘がない。今夜も布団で寝ることは叶いそうにないけれど、伊澄家のことを思えば到底眠れる気分にはなれないので、どこで体を休めようと同じことだ。

 でも、櫻田の軽口に少なからず救われる部分があるのは確かだ。二人して沈んでいれば、それだけ悪いほうへ考えてしまいがちだ。それに話していれば幾分気も紛れる。

 と。

「――あ。つーか、校閲、今……」

「え?」

 立ち止まり、櫻田が痛々しい口元を手で覆う。

「いや、なんでもない」

 しかしすぐに目を逸らされてしまい、ちひろは寝不足も手伝って訳がわからない。しかも、よく見るとなぜか櫻田はニヤニヤしている。必死に口元を隠しているようだけれど、暗がりの中でもだらしなく緩んだ口元は全然隠しきれていなかった。

「……?」

 とりあえずそのままにしておこうと思うけれど、気持ち悪いから早くやめてほしい。寝不足すぎて頭がおかしくなったのだろうか。まあ、それも無理はないけれど。


 ちひろがその気持ち悪いニヤケ顔の正体を知ったのは、それからしばらく経った頃のことだった。その頃には、当たり前だが風邪で休んでいた同僚たちもバリバリ静かに仕事をこなし、櫻田の出入りもなくなって平穏無事に活字三昧の毎日に戻っていた。

 そんなときに再び櫻田が校閲部に現れ、

「おい校閲、早峰カズキの新作、とうとう刷り上がったぞ!」

 ノックも無しにドアを開け放つなり、ちひろのデスクに大股開きで歩いてきた。

「ほ、本当ですかっ」

「見ろよこれ! 装丁から何から完っっ璧な仕上がりだろ! ……あいつ、あんなことがあった中で本当によくやったよ。両親ともまだ完全に折り合いが付いてないのに、幻泉社が頑張ってくれたからって、見事に書ききってくれやがった。ほんと、大した十九歳だ」

「……よ、よかった。本当によかったです……」

 このときばかりはさすがのちひろも櫻田の大声に厳しい顔はできず、お前の分だと手渡された分厚い単行本の重みに目頭が熱くなり、と同時にへにゃりと頬が緩む。

 あれからちひろたちのほうでも早峰カズキのほうでも、いろいろなことがあった。

 警察に事情聴取をされたため、さすがに上に報告せねばならず、櫻田は自身の怠慢とともに相談も無しに勝手に動き回ったことを編集長から大目玉を食らったし、ちひろもその後、熱を出して二日ほど寝込んでしまい、仕事にならなかった。そのときの校閲部は殺気立った空間へと豹変したそうで、体調が回復して出社すると部長がいかに恐ろしい空間だったのかをちひろに語り続けたおかげで、また少し仕事が押してしまった。

 伊澄家についても、両親はまだ自分たちの過干渉を本当の意味で認めきれていないようで、継続してカウンセリングが必要だということだった。早峰カズキのほうもまた、幼少期からの心の傷は根深く、こちらも長期的なカウンセリングを必要とするらしい。

 でも少しずつ、ほんの少しずつではあるが、両親は息子の声に耳を貸すようになってきているそうだ。その過程を櫻田は担当編集としてだけではなく見守っていて、何かあればそのたびに早峰カズキのもとへ駆けつけ、親身になって話を聞いていた。

 そうしてやっと出来上がったのが、この新作だ。

「校閲にも感謝してるって言ってたぞ。幻泉社からのオファーを受けてよかったって」

「……いえ。私はただ、自分の仕事をしただけなので。感謝するなら、この本を無事に日本中の読者へ届けられるように最後まで頑張った早峰カズキにです」

「またまたぁ~。謙遜すんなって」

「いえ、ほんとに。メッセージに気づかなきゃよかったって、何度思ったことか……」

 櫻田は謙遜だと言うが、本当にそんなんじゃない。

 あとから知ったのだけれど、あの日、早峰カズキが電話一本で出版を取りやめたいと言ってきたのは、知られたくなかった相手に見つかってしまったからではなく、それでもやっぱり〝家族〟だからとギリギリで気持ちが変わったから、だったのだそうだ。

 第三稿でもさらにまた誤字や脱字を使ってこちらにメッセージを送るつもりだったそうだけれど、あの〝でも愛してる〟にあったように、どんなに息苦しく窮屈な思いをしていても、両親を愛している気持ちにも嘘はつけなかったから。

 土壇場でメッセージごと〝抹消〟しようとしたという。

 家の前で待つ櫻田に気づいてとっさに逃げてしまったのは、そのメッセージに気づいて何か言われるんじゃないかと思ったから、なんだそうだ。熱々のコーヒーをぶん投げられたり、犯人でもないのに後ろ手で取り押さえられたりしたことには、さすがに驚いたけれど、でも今はそれでよかったと思うと、早峰カズキはこぼしていたらしい。

 早朝四時にしか会わなかったのも、その頃になると監視の目が厳しい両親もさすがに寝ているし、服や持ち物に仕込まれていた盗聴器を外して外出しても、こちらも寝ているはずの時間だからそう簡単には気づかれないだろう、と踏んでのことだったようだ。今の盗聴器がどこまでの性能かはわからないが、しばらく大丈夫だったということは、もしかしたら、そこまで高性能なものは使われていなかった可能性も考えられる。

 早峰カズキが財布の中や服に付けられていたピンを壊したときには、なんておぞましいものを息子に仕込んでいるんだと思ったが、もし仮に低性能のものを選んで彼に持たせていたのだとしたら、それは両親の〝愛情〟と取ることはできないだろうか。

 ……いや、甘すぎるか。

「でもな、校閲。あの家族はお前のおかげで、少しずつ家族の形が変わりはじめてる。気づかなきゃよかったなんて、本人たちの前では死んでも言うなよ。言うのは俺の前だけにしろ。俺なら、どんだけ言われても、調子よく〝大丈夫だ〟って言ってやれっから」

「……ふっ。相変わらず調子いいし軽いですよね、櫻田さんって。なんか、一人で悩んでるのがバカらしくなってくるっていうか。ほんと、いい性格してます」

 なんだかよくわからないけれど、思わず笑ってしまう。そういえば廻進堂の和菓子もまだ献上してもらっていないし、宝永社の長浜さんにイーグルスの観戦チケットをプレゼントしたという話も、まだ聞かない。そのへんのところは、どうなっているのだろうか。

「あっ! それだよ、それ!」

 すると櫻田が、失礼にもちひろの目の前に人差し指を突き出して声を上げた。かと思えば、不快に眉根を寄せるちひろを見て、いつかのようにだらしなくニヤニヤ笑う。

「……な、なんです、失礼なっ」

 目の前の指をパシリと払い落とす。さすがにいい気はしないし、気持ち悪い。

「ふふっ。いつもは〝編集さん〟って言うのに、ちょっと弱ってるときとか気の抜けたときは〝櫻田さん〟って言うんだよなー、お前。なんかよくわかんないけど、嬉しいわ」

「んなっ!?」

 けれど櫻田はますます顔をニヤつかせて言う。そうか、あのときのニヤニヤは思いがけず名前で呼んでしまったからだったのか。一拍して気づくが、そのとたん、みるみるうちに顔が勝手に火照りだしていくから、自分ではもうどうすることもできない。

 なんだこの猛烈な恥ずかしさは。こんなの、どこの本にも書いていないんだけど。

「……そ、そんなことより、これの約束、ちゃんと守ってくださいよっ」

 苦し紛れに念書を取り出し、櫻田の顔面に突きつける。

「おうおう、斎藤ちひろに廻進堂の和菓子を献上するって話だろ? わーってるよ、ちゃんと買うって。っつても、今月はイーグルスのチケットも用意しなきゃなんないから、同じ会社のよしみってことで、ちひろちゃんの分は来月にさせてくれ。なっ?」

「ち、ちひろちゃ……。って、来月ってどういうことですかっ」

「俺の給料ナメんな? 安月給なんじゃい」

「それ、関係ないですよね!? ていうか、来月じゃ限定もなか売ってな――」

「来年まで待てばいいじゃん。一年越しの再会はきっと盛り上がるぞ~」

 しかし櫻田は、目の前の念書を暖簾のようにひょいと押し上げ、とんでもないことを言う。買ってもらえると信じて季節限定のもなかを我慢していたというのに、一体これはどういう仕打ちなんだろうか。これだから軽くて調子のいい男は信用ならないんだ。勝手に名前で呼ぶし、ましてや〝ちゃん〟なんて付けて呼ばれるほど親しくなった覚えはない。

「まあまあ、そういうこともあるかと思って、販売終了間近でしたが、なんとか限定もののもなかを手に入れられましたので。無事に刊行できることを祝ってお茶にしましょう」

「わーい! あざーっす!」

「……ぐっ」

 結局、その論争を鎮めてくれたのは、言い合うちひろと櫻田の肩にぽんと手を置いた竹林だった。櫻田はバカみたいに喜び、ちひろは廻進堂の魅力には抗えず、ぐっと唇を噛みしめる。来年まで待たなくてもよくなったのは有難いが、全然腑に落ちない。

「なにこれ、めっちゃウマっ!」

「ふふ。でしょう。斎藤さんはどうですか? 美味しいですか?」

「……超美味しいです」

 まあ、結局は幸せを噛みしめながら食べてしまったのだけれど。

 そんなちひろのデスクの上には、櫻田が持ってきた刷り上がったばかりの早峰カズキの新作が、静かにそのページが開かれるのを待っていた。

 タイトルは〝(仮)〟が取れて、ただの『抹消』に落ち着いた。

 けれどちひろたちは、言葉にこそしないが、ちゃんとわかっている。あのとき家族を抹消したいと言った早峰カズキが、その気持ちをこれからの再生へ向けて〝抹消〟し、両親とともに頑張る思いを込めて付けたタイトルの長編ミステリーだと。

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