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 町田市に着くと、さっそく早峰カズキが指定したファミレスに入り、昨日と同じ席で彼を待つことにした。結局、待ち合わせの時間より少し早く着いたので結果オーライといったところだが、時間に余裕を持って行動したい派のちひろにはヒヤヒヤものだった。

 そうして待つこと、十数分。

 約束通り店内に現れてくれた早峰カズキは、しかし今日は両脇に四十代後半~五十代前半と思われる男女とともに、ちひろたちが待つ席の前へとやってきた。

「和希の父の春親はるちかです。こっちは妻の千絵ちえと申します。わざわざ幻泉社の方々がどうされたんですか? 和希の小説に何か不手際でもありましたか?」

 自分の名刺を差し出したり、ちひろの紹介をしたりと、一通りのあいさつを済ませた櫻田に父親が尋ねる。早峰カズキの格好は大学生らしくカジュアルなものだが、両親は見るからに高級そうなスーツをきっちり着こなし、厳格な雰囲気が全身から漂っている。

「いえ。とりあえず何か頼みませんか? 話はそれからにしましょう」

 にこやかに応対した櫻田に両親は少しだけ眉をひそめたが、早峰カズキを真ん中にして向かいの席に腰を下ろす。ちひろたちから見て左の壁際が父親で、右の通路側が母親だ。

 今のところ早峰カズキは昨日と同様、俯いたきり何かを話すような素振りはない。けれど、長浜さんが教えてくれたように彼はどこか怯えたように背を丸めている。

 ホールスタッフが注文を取りに来て、両親と櫻田の前にはホットコーヒー、ちひろと早峰カズキの前には、ちひろが取りに行ったドリンクバーのメロンソーダが並んだ。

 男の子にメロンソーダはさすがにないと思ったが、ちひろが飲みたかったので付き合ってもらうことにする。……無難にウーロン茶がよかっただろうか。今さら遅いけれど。

「――で、今日はどういったご用件で?」

「あ、はい。小社で刊行予定の新作、『抹消(仮)』について、ぜひカズキさんとお話しさせていただきたいことがありまして……。でも、お二人は今日、カズキさんが僕たちと会うことをご存知だったんですね。いやあ、お二人がいらっしゃるなら、もっといいスーツを着てくればよかったです。編集長の相原あいはらも引っ張ってきたりして」

 コーヒーに一口、口をつけた父親にさっそく本題を促された櫻田は、はははと笑って頭の後ろに手を当てる。あれだけ仕事をサボったことがバレたら怒られるだけでは済まないと情けないことを言っておきながら、こういうときにちゃっかり編集長の名前まで出せるなんて、櫻田もさすが腐っても編集畑の住人、なかなかつらの皮が厚い男のようだ。

 けれど、調子のいい男は得てして信用度が低い。父親もやはりその点をつぶさに感じ取ったようで、話が脱線してしまいがちな櫻田に若干強い口調で、

「それで、和希と話したいこととは?」と促す。

「はい。内容はデビュー作を上回る大変素晴らしい出来で、カズキさんの筆力には感服しきりです。きっと部数もデビューして間もない作家としては多くなるかと。――しかし」

「……しかし?」

 眉根を寄せた父親からいったん視線を外した櫻田は、そこでちひろに目配せをした。小さく頷いたちひろがバッグから原稿と『誰?』の単行本を取り出すのを待って、

「単刀直入に申し上げますと、このままでは、出版できない可能性が出てきました」

 ちひろから受け取ったそれを三人のほうへ向けた。

「ちょ、ちょっと待ってください、どういうことですか!?」

 勢いよく頭を下げた櫻田の言葉尻に被せるように声を上げたのは、それまで黙っていた母親だった。テーブルに手を付いた拍子にカチャン、とコーヒーのカップとソーサーがぶつかり合う音がし、中身が少しだけソーサーにこぼれる。櫻田や父親と同じくブラックで飲んでいたコーヒーの液面が前後に大きく波打ち、いきなり落とされた、あわや出版中止かという爆弾を浴びた彼女の動揺や狼狽ぶりがそこに現れていた。

 あいさつの際も軽く会釈を交わしただけだったので、声を聞いたのはこれが初めてだ。ヒステリー気味な声は耳の奥にキーンと響き、脳までジンジン痺れてくるように甲高い。

「それについては、こちらの斎藤からお話が」

 軽く目をつぶって脳の痺れを収めていると、櫻田が実に穏やかな口調で言った。

 作家やその家族からこんなふうにヒステリックになられることもあるのだろうか。櫻田の声には動揺も焦りもなく、穏やかだが凛とした響きがあった。

「……どういうことですか、斎藤さん」

 さっきの甲高い声からは一変、押し殺したような低い声で母親に尋ねられる。

 ここまでの移動中に櫻田と話し合った結果、感情的になりにくいだろうということで、ちひろが話をすることになった。担当は櫻田なんだから櫻田が言えばいいじゃないかと猛抗議するも、また廻進堂をちらつかされて、こんなことになっている。

 校閲の話になると饒舌になるという点でも、櫻田はちひろが適任だと言って聞かなかった。まったく調子のいい男である。それでもいないよりはマシだけれど。

 これが終われば廻進堂、と自分に言い聞かせ、ふぅ、と一つ息をつき顔を上げる。

「早峰カズキこと伊澄和希さんは、両親のひどい過干渉からくるストーカーまがいの行為を私たち幻泉社の者にずっと訴えかけています。母親の千絵さんからは逐一行動や言動を監視され、父親の春親さんからは書いた作品を盗まれていると思われ――」

「……なっ、なんてことを言うんですか、あなたはっ!」

「まったくの事実無根だ! 言いがかりにも程があるだろう!」

 最後まで言い切らないうちに両親が同時に声を上げる。あまりの大声に店内の声や音が一瞬にして静まり返った。あらぬ疑いをかけられて頭に血が上り、ここがファミレスの中だということも忘れているのだろう。数瞬ののち、はっと我に返った二人はもぞもぞと居住まいを正すが、周囲の目からは逃れられない。バツが悪そうに身を小さくしつつ、けれどちひろに向ける目や表情には、敵対する意思がありありと読み取れた。

 それに怯むもんかとちひろは続ける。廻進堂は目の前だ、頑張ろう。

「証拠ならあります。この原稿を見てください。それと、こちらの別紙も。原稿は今度、小社から刊行予定の『抹消(仮)』の第一稿と第二稿、別紙はそれらから抜き取った誤字脱字や重複した文字を、原稿のページ番号や行数に沿って順番に拾い出したり消したりして繋ぎ合わせたものです。……和希さんは本当に優しい息子さんです。法則に気づきさえすれば、私にも簡単に文章を繋げられるように仕掛けを作ったんですから」

 そう言って、第一稿と第二稿の間に、誤字脱字から洗い出して繋げた文章を書いた紙を置く。早峰カズキはますます背中を丸めて俯いていて、痛々しくて見ていられない。

 それでもちひろは、原稿をパラパラとめくりながら、赤字で囲まれた誤字や、書き加えた脱字、重複部分をひとつひとつ指で指し示しながら言葉を続ける。

「和希さんは本当は、ご両親の過干渉を他人に気づかれるような危険なことはしたくはなかったでしょう。もし仮に気づかれたとしても、単なる作者のタイプミスだと言うつもりだったんだと思います。ですが、家族を守りたい気持ちの一方で、やはり誰かに気づいてほしいという思いも捨てきれなかったのではないでしょうか。それがこの、法則さえわかってしまえば私や櫻田でも繋げられる文章が出来上がる正体です」

 わなわなと唇を震わす両親の前に、ス、と別紙をスライドさせる。

 二稿までで拾い出した文章は、こう繋がる。


 今日も感度良好/五月二日/財布の盗聴器部屋の中/

 書きかけの小説/また盗まれた/新人賞応募文芸社/親父

 おふくろもいつでも俺を見(視)てる/息ができない/助けて苦しい/

 でも愛してる


 カタカナ表記やローマ字表記だった部分はこちらで直した。そうして拾い出した文章から彼が日常的に監視されていたことが読み取れたので、宝永社の長浜さんが指摘した通り【とうちょう】は【盗聴】とするのが妥当とするしかなかった。

 父親に作品を無断で新人賞に応募されていたことも、この文章からわかった。なんというタイトルでどんな筆名で応募したのかまでは、これには書かれていなかったので追えなかったけれど。当事者である早峰カズキと父親なら、わかっているはずだ。

 一つ息をつき、ちひろは続ける。

「ご両親による過干渉がいつからなのかは私にはわかりませんし、この紙にあるように盗聴や監視をされているんだとしても、それらの器具を見つけることはできません。書いた小説を盗まれているという証拠も、その通りです。作品名も筆名もここでは明かされていませんので、私たちにはこれ以上追いようがありませんでした。ただ私は、仕事柄、和希さんが作品の中に散りばめた、あまりにも優しすぎる謎に気づいてしまっただけです。だから、もしこれが本当のことなのだとしても、私にはどうしようもありません」

 その間両親は、周りの目もあってじっとちひろの話に耳を傾け、目の前の紙に目を凝らしているようだった。ここからもそんなに遠くないし自宅のほうが落ち着いて話ができるのではと思ったりもしていたが、場所をファミレスに指定してもらって正解だった。今日も店内はほぼ満席に席が埋まっているので、下手に動けば目立つだろう。

「……あなたたち、名誉棄損で訴えたら確実に負けるわ。物的証拠もないのに憶測だけでものを言って、私たちをこんなにも不快な思いにさせて……。一歩賞を取ったとたんにハイエナのように執筆オファーをしてくるような会社だから、社員教育はどうなっているのかしらと思っていたけど、幻泉社がこんな会社だったなんて思ってもみなかったわ」

「この原稿だってお前たちが改ざんしたんじゃないのか。確かに千絵は和希に手をかけすぎるようなところもあるが、それは一般的な範囲だと私は認識している。しかも息子の作品を盗んでいるなんて、なぜ父親の私がそんなことをしなければならない? 私たちの息子に作家の才能があったことを妬んでいると勘違いしているんじゃないのか」

 言い終わるや否や、両親が低く唸る。声は抑えているが、そのぶん彼らの胸の中で激しく渦巻いている怒りや嫌悪、憎悪の感情が足元から這い上がってくるようだった。

 母親が言ったように、物的証拠が何もない中で著しく名誉を傷つけることを言ったのだから、ちひろや櫻田といった個人だけではなく、会社ごと訴えられても不思議はない。原稿の改ざんを疑われるのも当たり前だ。父親の主張のように、どうして彼が息子の作品を盗む必要があるというのだろうか。息子の才能を誇りに思いこそすれ、それを妬んでいるなんて、読み解いたちひろとて今でもなかなか信じられないくらいなのに。

 ――でも。

「デビュー作の『誰?』に、こんな一節があります」

 ちひろは、俯き続ける早峰カズキにちらと視線を向けて、単行本を開いた。

「大学生になり、私に彼氏ができてから、父は目に見えて寂しそうだった。だから、私に内緒で彼のことをよく話していた母に彼がどんな人なのかを尋ねているのも、気づいていたけど知らないふりをした。彼と一緒にいるときにふと視線を感じるような気がすることが増えていったのも、父と微妙に話が噛み合わないことも、気のせいだと思い込もうとした。でも、私が彼にあげた物に小さな小さな機械が入っていたときには、さすがに背筋が凍る思いだった。だってそれは、彼に渡してくれと父から預かったものだったから。こんなことになるんだったら、どうしておかしいと思った時点で何もしなかったのだろう。私も彼も父を狂わせたかったわけじゃないのに。――これは、逮捕され、服役中の主人公の父親に宛てた彼女のモノローグです。作品全体を通して父親の狂気性に目が行きがちですが、彼女は犯罪者になってしまった父をずっと思い、自分のせいでそうなってしまった後悔を吐露しているんです。抱えきれないほどの悲しみや絶望は、でも最終的には、どんなになっても〝家族〟だから、という繋がりには抗いようがないことを表現しています」

「……それがどうしたっていうんだ。証拠もないのに私たちに出頭しろと言いたいのか」

 父親に激しく睨まれ、そのあまりの凄みにちひろの身も縮む。早峰カズキを挟んで隣で不快な顔をあらわにしている母親も、何が言いたいんだとばかりにため息をつく。

 でもちひろは臆せず「いいえ」とはっきり首を振った。

 そんなんじゃない。

「最終ページでは、作品の中の彼女は、父親の出所を待って恋人と結婚するんです。家族の縁も切らず、事件後もその恋人と愛を深め合い、そうして長い時間をかけて父親を赦すんです。和希さんも、そうしたいんじゃないでしょうか。家族の繋がりを自ら断ち切ってしまう前に、和希さんもなんとかしたかったんです。……春親さん、千絵さん、和希さんはただ、お二人を愛しているんです。だって〝家族〟だから。その和希さんからの愛を、お二人が和希さんへ向ける愛を、これ以上歪めないであげてはもらえないでしょうか」

 早峰カズキは、この『誰?』に家族の再生の願いを込めているのだと思う。ミステリー小説というジャンルを使って現代社会に一石を投じるでもなく、読者に考えさせる機会を与えるでもなく、純粋にそれだけを願って『誰?』を書き上げたのではないだろうか。

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