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 ということで、栗羊羹で腹を満たしたちひろと櫻田は、竹林に見送られ、さっそく早峰カズキの自宅があるという東京都町田市へと向かうことにした。

 神奈川県と隣接する町田市は、イタリアと似てブーツの形をしている。ブーツのつま先部分とヒールの部分が神奈川県北部中央付近にぐっさり刺さるように突き出していて、多摩市や八王子市が近い。もっぱらアパートと職場の往復しかしていないちひろは、町田市に来るのは初めてだ。多摩市といえば多摩川、八王子といえばバレーボール強豪校の八王子実践というイメージしかないが、櫻田は執筆依頼のため、何度も足を運んでいるのだろう。駅を出ると、まるでホームグラウンドのようにてくてく道を歩いていく。

「あ。ここ、何度か早峰カズキと打ち合わせしたファミレスだ」

 ぽつりとこぼした櫻田の視線を追って、ちひろもそこに目を向ける。ちょうど放課後の時間帯のようで、制服姿の高校生や大学生で店内はそれなりに混み合っているようだ。

「何度連絡しても、なかなか会ってくんなくてさ、これが。宝永社に義理立てしてたんだろうけど、六回目でようやく『会うだけなら』って返事もらって。十代だし男だってんで手土産もけっこう悩んだし、新作を書いてもらうまでも大変だったんだよねぇ」

「……そ、そうなんですね」

「おう。でも、早峰カズキって早朝四時とかにしか会ってくんないの。普段は大学に通ってるから、まあ仕方ないのかなとも思ったんだけど。それにしても早すぎじゃね? 深夜一時とか二時のほうが、まだこっちも都合が付きやすいよ。終電の関係もあるから一晩中ここのファミレスで過ごしたし。こんな作家、早峰カズキが初めてだよ」

「……へ、編集さんも大変なんですね」

「まあなあ。でも、それが仕事だし。書いてもらうためには、向こうの都合に合わせらんないとはじまんないもん。なかなかハードな仕事だよ」

 そう言って苦笑する櫻田に、ちひろも曖昧に笑っておく。

 それなのに、書かせるだけ書かせて編集の手を入れないなんて。櫻田は懐かしそうに言っているが、ちひろが抱いた〝怠慢で調子のいい男〟の印象は強くなる一方だった。

 とはいえ少しは同情する。よっぽどの繁忙期や重大な写植ミスでもない限り、校閲部は基本、定時で帰れる部署だが、編集部はそういうわけにはいかないらしい。深夜のファミレスで一晩過ごした経験も早朝四時に仕事をした経験も、もちろんちひろにはないが、ざっと想像してみただけで精神的にも身体的にもどうにかなりそうだ。

「つーか、校閲。あんた、校閲に関することだけはやたらよく喋るのに、こういう世間話になるとなんでそんなにつっかえつっかえなんだよ。よく言われない? 気持ちよく喋れないって。そういうの、吃音っていうんだろ。早めに直したほうがいいよ」

 すると櫻田がお節介にも忠告をしてきた。勝手に喋っているのはそっちだというのに、なんて迷惑な忠告だろう。こちらは仕方なく相づちを打ってやっているというのに、それを吃音だと決めつけるなんて、人間としていろいろなものが欠けていると思う。

「……わ、私は別に、活字さえあれば生きていけるので」

 また少しつっかえてしまいながらも、内心では、そのズケズケ言う性格をどうにかするのが先なんじゃないですかね、と忠告し返しておく。櫻田のほうこそ、よく言われたりしないのだろうか。デリカシーがないとか、人の気持ちを考えていないとか。

「おま……。そういうのも、よくないんだって。仕事柄そうなるのは、俺もわからんわけじゃないけど、人とコミュニケーションが取れなきゃ、やってけないって。それでも社会人だろ? 交友関係を広げるとか、会社の飲み会に出るとか、そういうのも仕事だぞ」

「校閲部はありません」

「ないなら作ればいいだろ。だから校閲部は暗いだの地味だのって言われるんだって。矛盾を指摘してくれたり、作家や編集も気づかない誤字脱字を見つけてくれたりすんのは有難いけど、本の世界にばっか閉じこもってっと、婚期逃すって。マジで」

「……その言い方だと、編集さんは逃したんですか? 婚期」

「はぁ!? 一般論として言ってんの! 俺のことは関係ないだろが!」

「……あ、逃したんですね。ご愁傷様です」

「なっ!」

 ムッとした顔で軽く睨んでくる櫻田から、ふいと視線を逸らして内心でほくそ笑む。

 肌のハリツヤからして、櫻田は二十代後半から三十代前半だと思われる。整った顔立ちに加えて、デリカシーは欠片もないが社交性のある性格だから、今まで彼女の一人もいなかったとは考えられない。妙に説得力のある言い方だったからそうかと思ったけれど、軽く揚げ足を取っただけで綻びが出るなんて、なかなか可哀そうな独身男だ。

 散々忠告してきたその社交性で上手くかわせばいいものを、焦ったりするからバレるのだ。人間としていろいろ欠陥はありそうだが、意外に素直な性格をしているらしい。

「お前、活字の追いすぎで頭おかしいんじゃねーの」

「婚期を逃すよりは、いいと思いますけど」

「だから、そういうのだよ! ほんっとヤだわ、校閲って」

「でも私、編集さんと慣れ合いとか求めてないんで」

「……けっ。そーかよ! マジ、ヤな女」

 そうこうしている間に、駅前を抜けて閑静な住宅街に入る。駅の近くには何十階もある高層マンションが空を覆うように建っていたが、この辺りは昔からこの土地に住んでいる人の住宅が多いのか、空がよく見渡せる。坪数はそんなに多くはなさそうだが、小ぢんまりとした庭を持つ家も多く、見頃を迎えた赤や白のツツジの花がとても綺麗だった。

 それを横目にもう少し住宅街を進むと、クリーム色の壁に覆われた赤い屋根の家が見えてきた。新旧の住宅が入り乱れるそこでも赤い屋根は独特の存在感を放っていて、南向きの庭は木や花はなく、触り心地のよさそうな芝生が一面に敷き詰められていた。

「ここが契約書の住所にある早峰カズキの家だ」

「……へえ」

 門の前で立ち止まり家を見上げた櫻田に続き、ちひろも家を見上げる。順番は逆になってしまったが、表札に目を移すと、ごま塩色の石に【伊澄いずみ】とある。

 どうやらこれが早峰カズキの本名らしい。本名かペンネームか、ぱっと見ただけではわからないような筆名を使う作家も多いが、早峰カズキもその類いのようである。

 門には柵が閉められており、綺麗な装飾が施されたアンティーク風ヨーロピアンスタイルの黒い鉄柵は、赤い屋根と白い壁、それと芝生の緑によく似合う。

 ふぅ、と一つ肩で息をして、櫻田が表札脇の呼び鈴を鳴らす。出版を取りやめたいと連絡をもらってからそのまま来たのだ。いくら緊急事態とはいえデリカシーのない櫻田もさすがに緊張しているのだろう。家の外にも漏れ聞こえてくるピンポーンという音が鳴り止むのを待ちながら、斜め後ろから覗き見た櫻田の横顔はものすごくハラハラしていた。

「……あれ、留守か?」

 しかし、呼び鈴の余韻が消えてたっぷり三十秒ほど経っても、家の中はしーんと静まり返ったまま、人が出てくる気配はまったくなかった。もう一度呼び鈴を押して再び三十秒ほど待ってみても結果は変わらず、櫻田は焦りをあらわにした顔で呼び鈴を押しながら、沈黙を続ける家に向かって「伊澄さーん、幻泉社の櫻田ですー」と声を張り上げた。

「くそ、やっぱダメか……」

「……お留守、のようですね」

「こんなに呼んでも出てこないんじゃ、そうみたいだな。ああ、もう。アポ無しじゃ会えないこともザラなんだけど……でもこっちは出版できるかどうかの瀬戸際なのに」

 それでもやはり家からは誰も出てこず、櫻田は門前にしゃがみ込み頭を抱える。

 通常なら、先ほどの話にあったように深夜だろうと早朝四時だろうと、まず作家の都合に合わせられなければ編集者の仕事は務まらないのだろう。けれど今回の場合は、ちひろの同行も含めてイレギュラーなこと続きだった。悠長にアポを取っている暇などあるわけもなく、だからもともと行っても会えない可能性のほうが大きかったように思う。

 というか、だいたいにして、出版を取りやめたいと言ってきた作家が、そのあと編集者からの電話なりメールなりに律義に応対するはずもないのではないだろうか。

 こういうこともザラにあるとは言っても、まずそういうことを考えてから行動するべきだ。でも、ここまで出向いて留守は、さすがに同情に値するけれど。

「……明日、また出直したらいいんじゃないですか?」

「そんな呑気な話じゃないんだよ。二稿まで進んでんのに、これが編集長に知られたら怒られるどころの話じゃないぞ。なんで誰もいないんだよ、ちくしょー……」

 腰を屈めて言ってみると、櫻田が涙目でキッと睨み上げてきた。それもすべて自分の怠慢だというのに、年甲斐もなく泣くなんて、素直だけれどなんて情けない……。

「じ、じゃあどうするんですか。私、もうすぐ定時なので、か、帰りたいんですけど」

 呆れたため息を飲み込んで尋ねる。

 早峰カズキの第二稿の原稿に目を通しはじめたのが午後、それからひと悶着あって町田市に着いたのが午後四時を過ぎた頃だった。駅からここへ来るまでも徒歩だったのでそれなりに時間はかかったし、門前で出鼻を挫かれ、ふと腕時計を見るともう五時近い。

 定時は五時半なので、あと三十分は付き合えなくもないが、この家の人が――とりわけ早峰カズキがあとどれくらいで帰ってくるか見当も付かないのだから、ただの付き添いで無理やり引っ張り出されたちひろとしては、早く帰してもらいたいに決まっている。

「なんて薄情なんだよ、お前! そこは察して、誰か帰ってくるまで私も付き合います、くらい言えないのかよっ。こんなとこで一人にすんなよ、バカ!」

「……」

 しかし櫻田は情けないにも程があった。しゃがみ込んでいるのと涙目には変わりはないが、口調がとたんに幼くなり、とうてい年上には見えなくなる。

 この期に及んでまで自分の非を棚に上げ、関係のないちひろを巻き込もうとするとは、察せていないのはむしろ櫻田のほうじゃないのか。こちらとて風邪でダウンした同僚たちの仕事が回ってきて忙しい中、廻進堂の羊羹と引き換えに〝一人じゃ嫌だから〟という櫻田に付き合って町田市まで来たというのに。いくらなんでも図々しすぎる。

「頼むよ、一人にしないでくれ!」

「い、いやですよ。勝手にしてください」

「原稿が変だって気づいたの、お前じゃんか」

「編集さんが気づかないのがいけないんじゃないですか。私を巻き込まないでください」

「この薄情者っ」

「はっ……薄情者とはなんですか。元はと言えば全部編集さんがっ!」

 定時に帰りたいちひろと、それを何がなんでも阻止したい櫻田との小競り合いは、オレンジ色の夕日が辺り一帯を包む中で徐々にヒートアップしていく。

 犬の散歩の時間なのだろう、チワワだったりダックスフントだったり、サモエド犬だったりゴールデンレトリーバーだったりの大小さまざま犬種を連れて道を歩く近所の人が無遠慮に怪訝な表情を向けて通り過ぎていくが、ちひろも櫻田も、それどころではない。

「うっせーから痴話喧嘩ならよそでやれ!」

 やっと小競り合いが終わったのは、というか強制終了させられたのは、トイプードルを抱いた強面の中年男性に一喝されてからだ。櫻田と二人、肩をすぼませ謝罪する。

「――あっ、あの、すみませんっ。私、幻泉社の櫻田という者なんですが、あそこの伊澄さんのお宅は何時くらいにお帰りになられるか、ご存知だったりしませんか?」

 けれど、そこはさすが編集者だった。情けないし訳のわからない理屈をこねてくる面倒くさい男だが、ちひろより一足先に我に返った櫻田が、不躾にもそう言いながら男性を追いかけていった。走りながらジャケットの内ポケットを探っているので、名刺を取り出そうとしているらしい。そこではっと我に返ったちひろも、条件反射的に櫻田と、その前を行くトイプードルを抱いた男性を小走りで追いかける。

 振り向いた男性が不機嫌そうに「あ?」とサングラスを夕日に光らせる。その腕の中では、トイプードルが危険人物だとばかりに櫻田に向かってキャンキャン吠えた。

 なんだろう、この奇妙な光景……。

 そうは思うが、ちひろも走り出してしまっているので、そこに加わるほかない。ちひろが追いつくと、男性は再びずり下げたサングラスの奥からあらわになった、意外にも可愛らしい目を細めてちひろにも不機嫌な顔を向け、犬も新たな危険人物に吠えた。

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