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やがて時計の針が一周、二周し、俗に言う丑三つ時の真っ只中になった頃。
最初はどうなることかと思った掃除も、なんとか目処がつき、少し休憩しようと気を緩めたとたん、三佳の胸の中にふっと凍えるような風が吹き込んだ。ゾクリとするその寒さは、風邪を引いたときに感じるそれとは、どこか種類が違う。
六月も下旬になったとはいえ、夜は若干冷える。三佳は嫌な予感がしつつも強引に〝風邪の引きはじめかも!〟とポジティブに考え、熱いお茶を入れてきたマイボトルを手に取り、唇や舌が火傷するのも構わずごくごくと喉に流し込んだ。
体の中から温めれば、いずれこのゾワゾワする変な寒気も落ち着くだろう。目処が立ったとはいえ、オフィスの掃除も折り返し地点を少し過ぎたばかりだ。入社してまだ二ヵ月足らずではあるが、何があっても仕事を完遂しなければというプロ意識も芽生えた。
「ううう……さ、寒い。さすがに寒すぎるんだけど……」
しかし、いくら熱いお茶を飲んでも体が温まる兆しは一向に訪れず、三佳はとうとうガチガチと歯を鳴らしながら腕や足をさするしかなくなってしまった。
もしやこれは、かの有名な〝霊障〟とかいうものではないだろうか。
三佳の頭の中にそんな言葉がよぎる。
三佳は今まで、ホラーは怖いから、という理由で避けて通ってきた。憑かれやすいくせに何をバカなという話だが、映画やドラマ、テレビ番組、漫画や小説など、できるだけ見ないに越したことはないとして、映画館では違う映画を楽しみ、テレビで心霊番組をやっていればチャンネル替え、雑誌や本は手に取らないようにしていたのだ。
だがそれでも、少しくらいは耳に入ってくる。霊障、というのは、そんな三佳が知っている数少ない現象だ。ポルターガイストやラップ音と並んで有名な言葉だと思う。
三佳の知識としては、とにかく寒い――この一言に尽きるのだけれど。あとは、電気やレンジといった家電製品が突然止まったり、といったところだろうか。
とはいえ、夜の掃除というからには、そろそろ早坂が出張ってくる頃だろう。問題があるから、まず先に三佳がエサとなって物件に赴き、相手に〝憑かれる〟ことでその正体を探る。そこからは、三佳はやはりあまり気乗りしないが、早坂が一気に滅するのだ。
いつものダークなあの格好で。銀色の毛並みが美しいオオカミのもののけと化して。
「所長、早く……」
けれど、寒すぎて凍死してしまうほうが先なんじゃないかと思えるほど、三佳は体感的に一刻の猶予も許さない状況に追い込まれていた。歯の鳴る音も震えも止まらず、体内からも体外からも寒さが容赦なく押し寄せる。もはや意識を保っていることすら億劫だ。冬山での遭難者の気分というのは、こういうものなのだろうか。
このまま死んじゃったら、さすがに浮かばれないな……。
そうは思うものの体に力が入らず、意識は遠のいていくばかりだった。
それから間もなくして、限界に達した三佳は、抗いきれずふっと意識を手放した。次に目が覚めたときには、自分の身体の一歩後ろに意識があるような、なんとも言えない居心地の悪さが三佳の胸中を襲う。したことはないが、幽体離脱の感覚に近いのではないかと思う。一説によると、幽体離脱とは寝ている自分の身体を見下ろすことだというけれど、半歩後ろにいるのも同じようなものだ。しっくりこず、とにかく変な感覚だ。
『さあ、こっちだよ。ひと思いに逝っちゃって』
すると、どこか聞き覚えのある声が、やや離れたところから聞こえた。誰の声だっただろうとそちらに意識を向けると、夜の闇に透けてハンカチの彼が三佳を誘っていた。
まだ外は真っ暗だということは、気を失ってからそんなに時間は経っていないと思われる。しかし、これはまたどういうことだろうか。状況整理が追いつかず、三佳は自分の後ろ姿をわけがわからない思いで見つめながら途方に暮れるばかりだ。
――ん? ていうか、逝くってどこに!?
そう思うと同時、身体だけが勝手に彼のほうへ動きはじめた。
――ちょ、ちょっと待ってよ……!!
よく見ればここは、彼が身を投げたという屋上だ。ビル群を吹き抜ける深夜の風は冷たく、あらゆる角度から三佳本体の髪をさらっていくが、本体は気にも留めない。
――顔にかかる髪くらい払ってあげて! うざったいから!
そうツッコミを入れられるだけ、まだ若干、冷静さを欠いてはいないのだろうか。
遠く向こうには、のん気に明滅を繰り返す赤い光がちらほら。地上何階建てのビルだったのかは、早坂から今回の話を聞いた際、家じゃなくオフィスに掃除に行くこともあるんだなぁ、などと変に感心していたのでよく覚えていないのだが、彼が死んだという前例がある以上、残念ながら落ちたら確実に死ぬ高さであることは間違いない。
――やばいって、マジで!!
というか、早坂は一体何をしているのだろうか。三佳が尋常ではない寒さにひとり震えている時点で出張ってきてもいいものを、何をもったいぶっているのか。
――早くしないと私が死んじゃうんだってば!!
まるで操り人形のように誘われるままに死へのダイブへ一直線の本体に、もはや焦る気持ちしかない。どういう原理かはわからないが、意識は本体から切り離されているので、当然、意識だけの三佳には何もできない。だからこそ早坂の力が必要だというのに、まだ姿を現さない気なのだろうか。もしも万が一、間に合わなかったら……このまま三佳が浮遊霊となり、そのうち早坂に滅せられてしまうかもしれない。
――お願いだから早く来てよ、所長……!
とうとう祈るしかなくなった三佳は、必死の思いで早坂を呼ぶ。
「お待たせしました、野々原さん」
すると、泉が湧き出るような澄んだ声とともに、三佳本体の前にどこからともなく早坂が姿を現した。シルクハットに着流し、足元は素足に下駄という、いつもと変わらない全身ほぼダークなその格好は、登場が遅れても、やはりバカみたいに格好いい。
シルクハットに生えた三角耳とお尻の尻尾は今日も惚れ惚れするほど美しい銀色だ。都会の人工的な光の中でもこれだけ美しいのだから、もし満月の夜にオオカミの姿を拝めれば、さぞかしレアだろう。だからといって、誰にも言えるわけはないのだけれど。
「よく頑張りましたね、野々原さん。実を言うと、もうちょっと粘ってほしかったんですが、そろそろ限界でしょう。死んでしまったら大変ですもんね。――それにしても、ずいぶんと度が過ぎたことをしましたね、そこのあなた。野々原さんが僕の唯一無二のパートナーであることを知ってのことですか? だったら相当タチが悪いんですけど」
前半部分は、まるでおバカなゾンビのように早坂に肩を抱き止められてもそのまま前へ進もうとする本体……ではなく、その後ろにいる意識だけの三佳に向かって。後半部分は琥珀色と淡いブルーのオッドアイで背後をゆるりと流し見ながら、まるで人が変わったようなハンカチの彼へ向けて。早坂は、ゾッとするほど穏やかな口調でそう尋ねる。
本体には目もくれず、一直線に意識だけの三佳に視線をよこしたということは、おそらく早坂には三佳が見えているのだろう。そこはさすが、もののけといったところだ。
けれど。
――もうちょっと粘ってほしいって、どういうことですか!! 凍え死にそうになるし、ビルから飛び降りさせられそうになるし、もうとっくに待ちくたびれてるんですよ!
文句の一つも言ってやらないと、さすがに気が済まない。
だって、ここまで危険な〝掃除〟だなんて聞いた覚えがないのだ。
どういう理由でハンカチの彼が三佳を自殺させようとしたのかはわからないし、じゃあ三佳に話してくれた話はどこまで本当なのか……あるいはすべて嘘だったのかもわからないけれど。もし早坂が事前に危険な掃除になることを伝えていてくれたら、三佳だってそれなりに腹積もりや心積もりや、お札や塩なんかを準備して臨んだはずなのだ。
憑かれやすい体質だとわかった今、自衛策は一つでも多く講じておくに越したことはない。それに、これでも三佳は『早坂ハウスクリーニング』の一員である。
夜の仕事が入るたびに逃げ出したくなるは山の如しだが、徐々にプロ意識も芽生え、泣いて喜んでくれた光葉や実家の家族の嬉しそうな顔を思い出すたびに、頑張らなきゃ! と気持ちが奮い立つ。加えて、早坂の霊とあらば早々に滅しようとする癖をどうにかしたいという気持ちも芽生えはじめていた。あのときの靄は、やはり可哀そうだ。
少し矛盾するが、それは早坂が必ず現れてくれるという前提があってこそ、成り立つ。
それなのに、ギリギリになってしか現れないなんて、どれだけもったいぶっていたのだろうか。必ず来るとは思っていた。でも、命の危険に晒されていた三佳にとっては遅すぎるくらいだ。それを、もうちょっと粘ってほしいだなんて、人使いが荒すぎる。
「おや。おかしいですね。前回、野々原さんが言ったんじゃありませんか。すぐ滅するのではなく、わけを聞いてあげてほしいって。それもそうだなと思い、僕は僕でその機会を窺っていたんですよ? 待ちくたびれただなんて、どの口が言えるんでしょう?」
すると早坂は、オッドアイを細め、愉快そうに笑って三佳を見た。自分でも矛盾しているなと思っていただけに、三佳は咄嗟には反論の言葉が思い浮かばない。
確かにそう言ったのは三佳自身も覚えている。仏壇に押し潰されそうになっても、早坂に早く御守りを手放せと言われても、苦しい言い訳をしたり放さなかったり……。
そのおかげで、早坂も渋々、靄の話を聞く気になってくれた。そのあとは、危害を加えられたこともあって最後の言葉を残す余裕も与えず滅してしまったわけだけれど。
でも結果的に、鷹爪夫妻は夫婦の絆をより深めることとなり、早坂も依頼時から抱いていた疑問に思っていたことが解決するというウィンウィンに終わった。
それでも。
――ケースバイケースってもんがあるんじゃないでしょうかね!?
三佳は声高に叫んだ。
今回の場合に限っては、尋常じゃない寒気が三佳を襲った時点で助けに来てほしかったと言わざるを得ない。そうすれば、三佳は本体と意識を切り離されることもなかったし、本体が勝手に自殺させられようとするのも、余裕を持って阻止できたはずだ。
『あはっ。この子バカだねぇ。そんな子を唯一無二のパートナーって言い切っちゃうあんたも相当バカだけど。もしかして、この子に半妖の子どもでも産ませるつもり? 見たところ犬の妖怪っぽいけど、そういうのは大人しく人の世の片隅で生きてなよ』
そんな中、ハンカチの彼が突如意地悪い笑い声を上げ、耳を疑うような台詞を吐いた。
別人のような辛辣な言葉の数々に、三佳は虚を突かれたように竦み、早坂はシルクハットから生えた銀色の三角耳をピクリと後方へ反らした。
犬じゃなくてオオカミだよぉぉ……!
三佳は声にならない悲鳴を上げる。オオカミは自称、気高き生き物だ。わざと間違えたのか、そうではないのか。とにかく侮辱された早坂が静かなことが逆に恐ろしい。
それに、自分がバカと言われるぶんには覚えがあるので腹は立つが受け止めようと思うものの、ろくに知らないくせに早坂のこともバカ呼ばわりするのは、いただけない。
確かに経営面ではかなりのルーズだし、自分の非をあたかもそうであったかのように涙を誘う話にすり替えるところもある。給料だって向こう五ヵ月、一万円カットだ。
でも、突き詰めれば〝三佳を雇ったことが間違いだった〟というような言い方には、ここまで我慢していた怒りも沸点に達する。本体はいまだ、迂回という言葉を知らず早坂に抱き留められたままモゾモゾと抵抗しているので、実際には何もできはしないけれど。
それでも、この気持ちだけは、本物だ。
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