■2.ダークオフィスに起死回生のどんでん返しを 1
「聞いてよ
その日の三佳は、不満が膨らむあまり大学時代の友人である
仕事終わりに銀行のATMに五月分の給料の記帳と、少し手持ちが欲しかったので下ろしに行った――まではよかったものの、機械から出てきた通帳を見て三佳は目を剥いた。
なぜならそこには、【オバカスギマスネ】という謎のカタカナとともに、【−10,000】と給料がしっかりマイナス表記で記帳になっていたからだ。
給料は、月末締め翌月十五日払いだ。経理担当がいないので、三佳が自分の給料を自分で計算するのだが、確認したときはちゃんと丸っと五月分の給料があった。
それなのに、一体どうしたことだろうか。
これは何事かと急いで事務所へ戻り早坂を問い詰めると、彼は詮無い様子で言った。
「あなた、鷹爪夫妻への請求書にちょっと小細工をしましたでしょう?」
うげっ――と思わず顔をしかめる三佳に、早坂は続けた。
「僕に請求書に不備がないか確認を取ったあと、野々原さん、こっそり請求額から五万円引きましたよね。さしずめ、僕がうっかり爪で引っかいてしまった御守りのせめてものお詫びなんしょうけど、野々原さんに請求金額を口頭で伝えた時点で、かなりサービスしていたんですよ。そこにまた五万円引いたら、どうです? いただくはずのものが不足してしまったんですから、その補填は張本人のお給料からするしかありませんよね?」
なんてこった! と三佳は一瞬で肝が冷えた。
鷹爪夫妻にご請求するハウスクリーニング代の詳細な金額は、確かにあのあと、早坂から口頭で伝えられ、三佳はすぐにそれをパソコンに入力、保存した。でもそれ以来、早坂は夫妻の話をひとつもしなかった。当然、まだまだペーペーの三佳に「御守りのお詫びに少し金額をおまけしては?」と言える度胸はない。それでも、自分も御守りに傷をつけてしまった原因の一端を担っていることもあり、どうしても何かしたかったのだ。
そこで三佳は考えた。
――そうだ、私が引いてしまおう。
新人にいきなり会社のお金の管理を任せるのもどうかと思うが、入社して間もなくして早坂に「金勘定にはどうも疎いんですよね」と会社の通帳を預けられてしまったのだから仕方がない。それ以来、三佳なりに銀行の担当者と相談して管理を徹底してきた。
そもそも、今までどういう経営をしてきたのか、口座はぐちゃぐちゃ。早い話が、どんぶり勘定ときていた。なんじゃこりゃ、疎いにも程があるでしょう……ということで、結論、早坂は経営面ではかなりのルーズ体質だ、だったら私が黙ってさえいれば請求金額を安くしたことも気づかないだろう、という考えに至ったわけである。
もちろん、ずいぶん大それたことをしている自覚は多分にあった。こっそり五万円引いた請求書を封筒に入れ、郵便局に持って行ったときは、終始、誰かに見られているような薄ら寒さが三佳の背後につきまとっていた。だが、自分の非を正当化しようとするあの不誠実な態度に共感しかねたのもまた事実だった。だってあの夫妻は今も〝キヨさんの思いを守ってくれた証〟として、御守りの傷に思いを寄せているはずなのだから。
それがこんなにも早くバレてしまうなんて想定外の事態だ。どんぶり勘定なんじゃなかったのかよ! というツッコミはさておき、あの背後の薄ら寒さを感じた時点で思いとどまっておけばよかったと今さら悔いても、もうあとの祭りである。
きっとあれは早坂の仕業に違いないと三佳は思う。だって尋常じゃない薄ら寒さだったんだもの。子分も舎弟もいらないなどと言っておきながら、その実は社員が不正をしないかや、行きすぎた行動を取らないかを見張る存在をしっかり確保していたに違いない。
無論、三佳にはなぜか仕事のとき以外は霊の声も姿もわからないが、経営にかなり疎い早坂が早々と三佳の給料を操作するとは、なかなか考えにくい。
もとがオオカミのもののけなので、イヌ科らしく不穏な動きの匂いを感じ取っていたのならば、それはそれで納得できる材料にはなる。けれど、いくらもののけといえども、そこまで察知できるものなのだろうかという疑問も拭い去れない。となれば、やはり内緒で舎弟ないし子分がいる説が一番有力なのではないだろうかと思う。
三佳は、混乱する頭でそんな現実離れした状況分析をしながら、
「じゃあ、もっと早く言ってくださいよ。そしたら私だって、こんなことっ……!」
半ば噛みつく勢いで嘆願した。一万円は大金だ。これで何日分の食費になることか。
「これも勉強だと思いまして。どうです? いい勉強になったでしょう?」
「うぐっ……」
しかし早坂は、ひとつも聞く耳を持たなかった。もののけになれば四つに増えるのに。
言い返せないのがめちゃくちゃ悔しい!!
というわけで、そこまでが事の顛末である。
そうして、すごすごと逃げ帰ってきたわけであるが――。
『即クビにならなかっただけ、命拾いしたと思いなよ』
「なんでさ!?」
一部始終を聞き終えた光葉のツレない返事に、三佳はまた声を荒げた。往来を行き交う仕事帰りのOLやサラリーマンたちが怪訝そうにチラと三佳を見て、また何事もなかったようにスタスタとそれぞれの帰る場所へと向かって歩いていく。
今さらながら恥ずかしくなり、三佳は街路樹の端へ避けて声のボリュームを落とす。
「労働環境に見合わず安月給なんですけど、ウチ……」
特に夜のほう、とは、いくら友人の光葉といえども言えない。いわゆる〝いわくつき〟の物件のハウスクリーニングのため、そういうものが出やすい時間帯に合わせて派遣先に〝掃除〟に行くだなんて。端的に言えば、憑かれやすい体質の三佳がエサになっているだなんて――そんなオカルト話、一体誰が信じてくれるというのだろうか。
『三佳の会社がどういう経営方針かはわからないけど、いくらどんぶり勘定でもお金の管理を任されている以上、三佳はやっちゃいけないことをやったんだよ。たとえ相手のことを思ってしたことだったとしても、自分の判断で勝手に動いちゃいけなかったの』
それを知らない光葉は、なおも耳の痛いことをつらつらと並べる。
『さっきも言ったけど、即クビにならなかっただけ命拾いをしたし、勉強にもなったって思いなよ。三佳だけ就職が決まらなくて、私、あんたが自殺でもしたらどうしようって、ずっと気が気じゃなかったの。それが、卒業ギリギリになって〝雇ってくれるところが見つかった〟って泣きながら言うじゃない? そのときの私の気持ち、わかる?』
「光葉……」
しかし、そう言われてしまえば、三佳には返す言葉がなかった。
確かに光葉には、就職活動をはじめてから心配ばかりかけていた覚えがある。
面接まで進めればいいほうで、ほとんどが書類選考で落とされてばかり。いくら勝手に憑いてくる霊の仕業だったとはいえ、当時の三佳はそれを知らなかったし、光葉だって知る由もないことだった。だから余計に三佳は自分のすべてを否定されたような気がしてならなかったのだ。そんな三佳を光葉はひどく心配し、よく憂さ晴らしにバッティングセンターに付き合ってくれたものだ。おかげで三佳も光葉も腕前はかなり上達した。
それはそうと、三佳自身は死のうなんてひとつも思わなかったが、光葉にとっては、そんな三佳の姿はさぞかし痛々しいものとして目に焼き付いていることだろう。
それが見事、九回裏、起死回生の逆転満塁ホームランとなったわけだから、その喜びは計り知れなかったに違いない。バッティングセンター通いの賜物だろうか。
そういえば、光葉の泣き顔を見たのは、卒業間近となって『早坂ハウスクリーニング』に拾ってもらったと泣きながら報告したときの、あれが初めてだ。
胸にこみ上げるものがあり、スン、とひとつ洟をすすると、
『まあ、どうにもならなくなったら、ご飯くらい食べさせてあげるから。まずは明日の朝一で所長に謝って、今まで以上に所長と会社に尽くすことね。……ところで、後悔は?』
「してない! それはしてないよ、満足してる!」
『だったら、もういいじゃない。社長だって、そんな三佳の気持ちを汲んだから、五ヵ月間給料一万円カットで手を打ってくれたんだと思うよ? あんたが後悔してないんだったら、それでいいんだよ。とりあえず明日からまた頑張ろうよ、お互いに』
電話越しの光葉の声が、そう優しく三佳の背中を押してくれた。
「うん、うん」と何度も頷きながら、とうとう溢れ出てしまった両目の涙を拭う。しまった、ハンカチは通勤鞄の中だ。取り出している間に涙が地面にポタポタ落ちてしまう。
すると、ス、とハンカチが差し出された。驚いて顔を上げると、温和そうなスーツ姿の男性が、どうぞ、と微笑みながら声に出さずに口元を動かした。
見たところ、三佳や光葉よりやや年上に見受けられる。
清潔にカットされた髪や、襟元までパリッと糊のきいたワイシャツに、しわのないスーツ。営業職なのだろうか、一目で好印象を抱く佇まいは、突然のことにふっと湧いた三佳の警戒心をすぐに解くには十分すぎるほど好青年然としていて、素直に嬉しい。
会釈をして受け取りながら、この人も自分の新人時代を思い出したのかもしれない、と三佳は思った。何年か前の自分と同じように新入社員然としていた三佳が往来の隅で泣いているのを見つけ、お互いに頑張ろう! とエールを送る意味も込めてハンカチを差し出してくれた――どこのどなたかは存じ上げませんが、ありがとうございます! 嬉しいです!
『三佳? どうしたの?』
「あ、ごめん。今、ハンカチを貸してもらってて……」
『ハンカチ?』
「うん。あの、ありがとうございま――あれ? 行っちゃった……?」
慌てて男性に礼を言おうとするも、しかしその姿は、もうどこにもなかった。まだ通話中なので気を利かせてくれたとも考えられるが、それにしては、どこを見回しても姿が見えないのが少しばかり引っかかるような気がしないでもない。
まだ近くにいるはずなのに、おかしいな……。
帰宅ラッシュの時間帯ではあるものの、今、三佳が立ち竦んでいる通りはそんなに人通りは激しくない。なのに見つけられないなんてことがあるのだろうか。せめてきちんとお礼が言いたかったのだが、この調子では、それもどうやら難しそうだった。
『ああ~、ビービー泣いてたもんね~、三佳。親切にしてもらってよかったね』
「なっ! そんなふうには泣いてないよ!」
『あはは。まあ冗談はここまでとして。明日、ちゃんと所長に謝るのよ~』
そう言って光葉は電話を切った。
「もう……」
暗くなったスマホの画面を見つめる三佳の口元から、苦笑が漏れる。
やや強引な切り方だったが、電話をかけた際、まだ光葉は会社だった。彼女の声の後ろで電話が鳴る音や男女の忙しそうな話し声が聞こえてきていたので、すぐに三佳は、無計画に電話をかけてしまったことを申し訳なく思い、かけ直そうと思った。
しかし彼女が『まだ私が仕事中なのを知ってて電話してくるなんて、よっぽどのことがあったんじゃない?』と言って、それとなく席を立ってくれたので、その気持ちについつい甘え、今までグダグダと愚痴をこぼしてしまったというわけである。
あとで上司や先輩に叱られないだろうかと今さらながらヒヤヒヤしてきたが、ふと冷静になって考えると、光葉なら上手くやるだろうという気がしてくるから不思議だ。
ちなみに彼女の就職先は、大手不動産会社だ。そこから早々に内定をもらい、ほかにも十何社の内定をもらった光葉は、選り取り見取りの選び放題で、その不動産会社に籍を置くことを決めた。要は、けっこうな世渡り上手なのだ。教育係についてくれている先輩社員とももうすっかり打ち解け、飲みに連れて行ってもらうほど可愛がってもらっている、という話も聞いていたので、彼女のほうは心配するだけ無駄かもしれない。
とにかく。
「明日もここを通るかもしれないし、しばらくの間、待ってみようかな」
男性から受け取ったハンカチを丁寧に鞄の中にしまうと、三佳は一度、後ろ髪を引かれる思いで通りを見渡し、帰宅する人々の波に乗って自身も部屋へ帰ることにした。
光葉も言っていた。即クビにならなかっただけ命拾いをしたし、勉強になったと思え、と。ポジティブに捉えれば、五ヵ月間給料一万円カットは破格の温情だったと言える。
それに、泣いていなければ、先ほどの男性だって三佳に見向きもしなかっただろう。そのおかげで彼に会う理由ができたのだから、全部が全部、悪いことばかりではない。
胸にじんわりとした温かいものを感じながら、帰宅の途につく。
向こう五ヵ月間は少々切り詰めた生活をしなければならないが、そんな憂鬱など吹き飛ぶほど、三佳の心はポカポカとした温かい気持ちで溢れていたのだった。
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