第10章 存在ノ理由-18

「はぁはぁはぁ……」

 森の深部に向かって、元はひたすら駆け抜けた。川を越え、大岩を跳び、時には草むらにゴロリと転がる。そんな動作をただただ繰り返していた。

 夜になれば取り留めない想いが湧き出てきて眠れなくなる。フェルディナンドが堕ちる瞬間が、手に触れた感触が、声が、言葉が幾度も脳裏に蘇った。そうすると、次には倒した数多の獣達が『未だ生きたかった』と訴えかけてくるのだ。

 元は呪縛から逃れるように宿を飛び出し、日中は体を酷使し続け、夜は死ぬように眠った。そうして何とか人格を保っていられた。


 元はせり立つ大岩の上に立ち、眼下に広がる深い森に視線を向ける。世界を灰色に染める雨は、不安定な大気によって嵐の様だ。

『宿を発つのは明日、か』

 否応がなしに打ち付けてくる雨を拭うことも出来ず、原始的な姿を保つ森の姿に目が離せない。そこには何百年以上も変わらない、世界の姿が存在している。

「全部捨てて来たっていうのに……俺ら、なにやってんの? 何でエンダ同士で殺しあってんだ」

 気を抜くとそんな想いばかりが過ぎってしまう。獣に堕ちているとは言え、もとは同じ世界で生きていた人間だ。獣の命を絶ってきた所業に罪悪感が激しく襲う。

「どうして俺だったんだ? ……なんで、何で俺を選んだ!?」

 元は足下の岩肌に、渾身の力で拳を振り落とした。


 ドゴン!!!


 鈍い音が森に響き、一斉に色彩鮮やかな鳥が飛び立つ。その後、一瞬の静けさが広がる中、岩肌に汗とも涙とも言えない滴が落ちた。


 ピシッ


 大岩に亀裂が一気に入り、岩は足下から大きく二つに割れた。足場が崩れ落ち身体は、深い崖底に向かって儚い木の葉のように吸い込まれていく。降下感を肌に感じながら、どこまでも深い森の緑を瞳に焼き付けていた。

『このまま……』


元!!!


 虚ろな瞳の奥に、懸命に手を伸ばすハルの姿が過ぎった。その声はやけにリアルで、朦朧としかけた意識が鮮明になる。

『俺の妄想も相当レベル高けぇ。ハルがあんな必死な表情、するわけねぇのに』

 そう小さく笑うと、次に来る衝撃に備え身を丸めた。


「いててて」

 元はムクリと体を起こし、首を何度か鳴らす。落下した場所が沼地だったことが幸いして、軽い打撲で済んだようだ。一度大きな息を吐くと、枯れた老木の根っこに体を預け、沼地にゴロリと大の字になる。雨の滴が止めどなく降り注ぐ様を、何時までも見ていた。

「何やってんだ、馬鹿か俺は。……獣は倒さなきゃなんねぇのに」

 獣はこの世界の民を快楽の為に襲う。その殺戮は留まることを知らず、一片の生命さえも残さない。それこそ乳飲み子でさえもだ。その獣と同等の力を有し、獣から民を守る役目を担っているのがエンダだった。

「今まで築き上げたもん全部投げ捨てて、扉を開けたんだろう? 獣を狩れなくなったら俺、もう何処にも居場所がないじゃん」

 この世界の民は守りたい。しかし獣を前にして、果たしてその役目を果たせるのか……今は自信が無かった。


 雨粒を肌に感じたその時だ。体に鈍い振動が触れた。不規則に届く振動は、ゆっくりと、しかし確実に沼地に向かって近づいてくる。地面に伝う揺れの大きさから、相当な体格を有する生き物であることは、予想が出来た。

「ま……さか。このタイミングで??」

 森から生き物の気配が消えて、体を引きずるような異音だけが響く。徐々に近づいてくる気配に、元は立ち去ることも出来ず、ただ音の方向に視線を向けた。


「ギャギュアギャギャガヤァァ」


 木々をなぎ倒し、獣は野太いその足で沼地の泥を飛ばした。十メートル級の大物だが、姿形は異形に分類される類の獣だ。ミミズに似た胴体を有し、体型にそぐわない短い足がお情けの様に二本付いている。腕は退化し、代わりに翼が体のバランスを保っていた。しかしその巨体を飛ばす程には進化を遂げていない。頭部と呼ばれる部位はなく、体の先にビッシリと牙が生えた口がある。

 視界をどこで認知しているのか不明だが、沼地に座り込む元に向かって大きく雄叫びを上げた。耳につく叫びに、元は深い溜息を吐く。

「何で今なの……勘弁してくれよ」

 それでも何とか重たい体を何とか起こし、剣を鞘から抜いた。しかしその剣先は、地面に向かったままで獣を捕らえきれていない。腕が大きく震え、十分に剣を持ち上げられないのだ。いつもは羽の如く難なく振り回せる剣が今では鉛のように重く感じた。獣を見据えたまま、元は焦りに唸り声を上げる。

「やべ……マジで剣が持ち上がんねぇ」

 獣が一歩足を踏み出すと、沼地の泥が大きく跳ねて波打つ。嫌な振動を身体で感じながら、本能的に身を引いた。その行為で獲物と認識したのだろう。獣は今一度、大きく雄叫びを上げると、元に向かって一直線に向かってきた。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと、待てって」

 一気に距離が縮まり、獣は頭部に生えた口を大きく振り落とす。

「あ、上がれぇぇぇぇ!!」

 

 ガギン!!


 衝撃波で泥が大きくうねる。剣で何とか凌いでいるが、ビッシリと生えた牙に今にも押し負けそうだ。止めどなく滴る涎が、地面に滝の如く落ちていく。剣を押し上げる力で体中の筋肉が悲鳴を上げる中、牙の奥に視線が釘付けになった。吸い込まれそうな闇だ。獣に堕ちたエンダの苦痛が蠢いているような気がして、ふっと腕の力が緩む。

 気が削がれた一瞬の隙をついて、鋼鉄のような足がみぞおちに食い込んだ。

「ガッ」

 軋む感触を感じた時には、既に何十メートルも吹き飛ばされていた。元の体は沼地の泥を巻き上げ、森の大木に打ち付けられる。衝撃で大木が縦に裂けると、周りの木々をなぎ倒した。

 崖から打ち付けれた衝撃よりも、何倍も感じる痛みに視界が歪んだ。獣を前にしても、体が戦闘モードに切り変わらないのだ。その証に服がバトルドレスに変貌を遂げない。

『このまま殺られんのも、償いになるかな』

 不意にそんな感情が過ってしまう。元は視線を獣に向けた。

 そこには攻撃の勢いに、バランスを大きく崩す獣の姿があった。そのまま沼地に倒れ込むと、泥が波のように巻き上がる。退化した翼では、巨体化した体を支えきれないのだ。ジタバタと泥の中で暴れ狂う姿を見据え、元の瞳から一筋の涙が落ちた。


「これが……これが民を命懸けで守ってきた、俺らの成れの果てかよ。こんな姿…………酷いだろ、あんまりだ」


 エンダになったこの数年間、思い起こせば色々なことがあった。

 受けた傷の痛みに眠れない夜を何度も越えた。力が全ての世界に身を置いて、不甲斐なさに悔し涙を流した事も、獣を前に足が竦んだ苦い経験も一度や二度ではない。大切な仲間を失った時は虚無感に襲われたものだ。

 しかし獣に負けるような事があれば、幾多もの命を危険に晒す事になる。その重責も民を守る為だと思えば、代え難い喜びと変わった。民の感謝の言葉に、くすぐったくも誇らしい気持ちになった時は、エンダになって良かったと心から思ったものだ。


 未だ泥にまみれる獣を前にして、元はふらりと立ち上がった。雨は全てを洗い流すかのように、激しく打ち付けてくる。服がバトルドレスに変貌を遂げると、元は泥や涙で濡れた顔を袖で拭いた。

「可哀想だなんて、助けてやれねぇ俺が言える台詞じゃねぇよな。……でもこのままにしておけねぇから……俺の自己満足に付き合わせてしまうけど……いつかそっちに行ったら、ちゃんと謝るからさ」

 打ち付ける雨は未だ晴れる気配はない。降り注ぐ雨に、剣が放つ僅かな輝きを受けて、元の瞳が鈍く光った。



 次の日も雨雲は重く立ち込め、どこまでも灰色の世界が広がっている。談話室で旅支度を進めるハルに、フェルディナンドはもう何も言わなかった。

『元殿はお戻りになられませんでしたね。出発日を遅らせるように言っても、聞かれないでしょうし……。無二のお仲間同士だと思っていたのですが、私の思い違いでしたか……』

 小さく溜息を落とすフェルディナンドの前で、ハルは腰に皮袋を携えると、思い出した様に言葉を繋いだ。

「獣に堕ちた瞬間の感覚を教えてくれ」

 周囲に気を張り巡らしているのか、小さく落とされた声に、フェルディナンドはハッと意識を向けた。ソファに腰を掛けると、

「そうですね。言葉にするのは難しいのですが、洗礼で受けた恩恵が強引にはがされ、何かに浸食されていくようでした。殆どの記憶は抜け落ちておりますが、絶望感に襲われ、その意識はやがて憎しみとなって民に向けられたような気が致します」

 思い出すのも苦痛だった。しかしフェルディナンドは一言一言ゆっくりと声を繋ぐ。

「そうか。巻物を読んで獣に堕ちたと聞いたが、どんな内容だったんだ?」

「それが……分からないのです」

「分からない?」

「えぇ、何か呪文の様でした。今まで目にしたことの無いような記号の羅列だったような気がします。それが何だったのか、全く覚えていないのです。お役に立てなくて申し訳ございません」

 向けられた言葉にハルは暫し考え込む。その視線は遙か遠くに向けられていて、フェルディナンドは途端に不安にかられてしまう。

「ハル殿は、どこまでこの世界の事をお知りなのですか? 何をお考えで、どこに向かわれているのでしょうか?」

 思わずそう問いかけていた。この小さな体で、とてつもない世界に挑んでいるように感じたのだ。心配そうに問う声に、ハル自身もソファに腰を下ろす。

「獣とエンダには、何かしらの繋がりがあるとは思っていた。属性がエンダと同じなのが気になっていた。そうは言っても何かを掴んでいる訳ではない。私は、この世界の真理に辿り着きたいと思っているだけだ」

「……」

 しかしただの探求心だけとは思い難い程、瞳の奥に秘めた思いは、未だ何かを抱えているように感じてならない。不安な気持ちが表情に出てしまったのか、ハルは小さく笑う。

「心配するな。そんな探求心にお前達を巻き込むつもりはない。仮にその時が来たら別行動だ」

 そう言葉にしておもむろに腰を上げると、窓の外に視線を向けた。

「とは言え、元にはこんな場所まで付き合わせてしまった。エンダとして生きていた方が幾分も幸せだった筈なのに。人の良さにつけ込んでしまったな」

 その横顔は、相も変わらず感情が読めないままだ。森を見据える姿は、何事にも揺るがない強い意志を感じる。にも関わらず、ハルの意外な一面を垣間見た気がしてならない。フェルディナンドは湛えた髭をさすり瞳を細めた。

『どちらかと言えば、我が道のみを突き進むイメージでしたが、はて……これは』

「ハル殿……」

 その時、ハルがピクリと意識を外に向けて……小さく目元を緩めた。しかしすぐに表情を戻すと、再度ソファに深く腰を落とす。


 フェルディナンドが問いかけようと口を開いた時だ。激しく宿の入り口が開かれ、談話室を目指し乱暴な足音が近づいてくる。

「帰ったぜ!」

 扉が壊れんばかりに開かれたかと思うと、体中を泥水で汚した元がそこに立っていた。

「元殿!」

「おぅ、爺さん、ただいま!」

 そう白い歯を見せて笑う。身体中に痛々しい傷を残し、無茶な事をしていたであろう事は一目瞭然だ。そんな姿を冷ややかに見据え、

「遅いぞ。今日出発すると伝えていただろう」

 短く鋭いハルの一言が飛んだ。元はプクッと頬を膨らませると、ボリボリと首元を掻く。

「今日は、今日が終わる瞬間まで今日なんですぅ。何だよ、まさか俺を置いて出発しようとしてたんじゃないだろうな? お前一人で何が出来るのかっての」

「一人ではない。ここにいるフェルディナンドが一緒に旅をしてくれるようになった」

 ハルから放たれた言葉に、元は一瞬言葉に詰まった。その沈黙を拒絶だと判断したフェルディナンドが「いえ、元殿がお嫌であれば……」そう言い掛けた時だ。

「マジで!? やり~、やっべー超嬉しい。俺、爺さんと一緒に旅がしたかったんだ。爺さん、サンキューなっ。我がパーティにようこそ!」

 本心から喜んでいるのが分かるような、弾ける笑顔だった。ホッとした表情を浮かべるフェルディナンドを見て、ハルもまた小さく口元を上げた。しかし次の瞬間には、表情を戻すと鋭い視線を元に向ける。

「良いのか? このまま別れてエンダとして生きた方がいいのではないか? 私と旅を続ければ、いつか……後悔する日がくるかもしれないぞ」

 元は姿勢を正すと、ハルを真正面から見据えた。その表情には、宿を飛び出した時には無かった、強い決意が漲っている。あの谷底で狩った獣と出会わなければ、この場所に戻ってこなかったかもしれない、元はスッと息を吸った。

「俺は俺の意志でお前についていく。でもそれは、お前の為じゃなくて自分の為だ。……悔しいけど今の俺じゃ、獣に堕ちた奴らの無念は晴らせねぇ。でもお前とだったら、そこに辿り着けそうな気がする。だから一緒に行ける場所まで、俺を連れてってくれ!」

 あの日と立場が逆になっちまったな……元はふとハルがエンダになった日の事を思い出す。あの時は、旅に同行させろと執拗なまでの懇願に負けた。

 談話室に、雲の切れ間から漏れた陽の光が差し込む。いつの間にか雨雲は去り、空には突き抜けるような青さが広がりつつある。眩しい光の中に立つ元の姿に、ハルは瞳を細めた。

「私に特別な力がある訳ではない。道半ばで倒れる日が来るかもしれない。それでもいいのか?」

「あぁ、一緒に行くって決めたんだ。何も知らず獣に堕ちた同志(やつら)の為に、何が出来るか探してぇ。もし道半ばで死んだとしても、目を背けて生きていく方が何倍も後悔する。今はそう思うんだ」

 真っ直ぐと向けられる言葉と視線に、ハルは小さく頷きを落とす。元の言葉にフェルディナンドもまた深く頷く。最終地点で何が待ち構えているのだろう。それでもこの二人と一緒ならば、どんな苦難も越えられそうに思うのは何故なのか……若い二人の姿に胸が高鳴る。

「分かった。しかしお前、臭いぞ。まずは風呂に入れ、出発はそれからだ」

 そう冷たく言い放つと、ふぃと森に面した窓に体を翻す。

「ちょ、臭いって。もっと別の言い方があんだろう。……たく、爺さん~、ホント覚悟しとけよ。こいつ、めちゃ自分勝手で傍若無人な奴だからさ」

 ハルが開け放った窓から、少し湿気を含んだ気持ちのよい風が部屋の中を通り過ぎていく。そのシルバーがかった栗色の長い髪の毛が柔らかな風で大きく揺れた。

『そうでしょうか……』

 フェルディナンドは、ハルの後ろ姿に視線を合わせると、

『今ハル殿は嬉しそうに微笑んでいられるのではありませんか?』

 垣間見る事が出来た強い絆に微笑みを浮かべたのだった。

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