相模県箱根町 湯本温泉
「…ねえねえ、まだ起きないの? あの…疲れていたら、無理に起きなくても良いけど、早く起きてくれないと、頬っぺたスリスリしちゃうよ^^」
ここは…? ああ、思い出した。往路の交通で無意識に疲労が蓄積したらしく、旅館の客室に着くや否や、布団に倒れたまま寝ていたようだ。すぐ隣には、幼馴染みの
「お疲れは取れましたか? 夕食まで時間が御座いますので、お禊ぎに参りたいと思います」
「皆で一緒にお禊ぎする!」
私はもう慣れたが、「国語」あるいは「言霊」とでも言うべき概念に価値を見出す彼女ら…特に聖姉さんは、しばしば回りくどい言葉遣いを決行する。「入浴」を「禊ぎ」に自動変換するのも、その一例である。
「温泉なんて久々ね。着替えの下着はどこに入れたっけ?」
その点で勇姉さんは、良くも悪くも分かり易い言動が平常である。
「ねえねえ、次はこっちに入ろうよ! お湯が湧き出て来て、体に当たるのが気持ち良いんだよ! あ、お外にも行こうね! それから、温室!」
温室? ああ、サウナか。仁さんは(睡魔に憑依されていない時に限り)常に好奇心を働かせており、1回の旅行、一度の温泉だけでも、興味関心の対象を次々と発見しては、眼を輝かせている。気分次第で庖丁や
「あれは
宗教学を探究し続け、自らも若くして十三宮教会の神官を務める聖姉さんに対して、勇姉さんは政治・軍事及び理系に強い傾向がある。
「夏なのに東京は毎日雨だったけど、相模も曇っているね。天空が真っ白だよ」
湯本温泉は、早川の谷地形に立地している。私達の眼前には、緑豊かな斜面が迫っていて、夏らしく虫の鳴き声が聴こえる。その先は箱根山に連なり、上のほうには霧が掛かり、やがて白く曇った一面の空模様へと至る。思えば、あまり積極的に意識した事がなかったかも知れないが…。
「例え観光といえども、自然の中に身を置くと申しますか、そのような経験から、私達が感じ取るべき事は多いですね」
思った事を先に言われた。また、思考を読み取られたようだ。聖姉さんの近くでは、如何なる悪巧みであれ、それを考える行為は避けたほうが良い。
「何か悪戯でも謀っているのですか?」
この通り、すぐ露見する。
「…あれ? 今、お空が急に光らなかった?」
私の隣に居る仁さんが、
「この時刻、天候…流星群は見えないはずよ。あるいは…」
その後、夕食の刻限。
「選ばれし使徒様方、お待ちしておりました。今夜のお食事は、こちらです。お飲み物は一覧にございますが、お買い得なのはやはり、相模湾の海洋深層水かと…」
この女性は、
「なんなのよ、このメニューは? お椀と称する液状の何か、お造りと称する鮮魚の遺体…日本語って複雑怪奇ね。はあ…気に喰わない。自分が食べる物くらい、自分で決める! 私の運命は、私自身で切り開くのよ!」
勇姉さんが中二病から脱却できない間、聖姉さんは献立の料理内容に見入っている。
「そういった比喩表現をも含めて、言の葉なのですよ。言霊には力があるゆえ、婉曲するという技法が意味を持ち得たのかも知れませんね。この料理は…あ、これはお姉ちゃんにも作れそうですね。お二人は、飲み物どれになさいますか?」
ああ、そうだった。飲料を選択しなければ。私は…そうだな、これにしよう。「仁さんは、どれにする?」と言いながら隣を向いたら…。
「…めぐちゃんは…おねんねする…」
相変わらず私の隣に居る仁さんは、まだ若い体をこの世に残したまま、意識だけ夏影の彼方に旅立っていた…仁さんは(睡魔に憑依されている時以外は)礼儀正しい少女である。
「須崎さん、海洋深層水とやらも良いですけど…正直飽きて来たんで、そろそろ何か、新しい商品を開発しませんか?」
「そうですね…いかんせん私は、専門が海洋学なので…あ、勇様は航空工学でしたっけ? それでしたら…シャトルか宇宙エレベーターに積んだ水を回収して『星空焼酎』なんてのも良いかも知れませんね!」
そんな話をしながらも、とりあえず飲食しようと思って、隣の仁さんを起こそうとしたら…。
「これが
私の隣に常駐する仁さんは、いつの間にか起きていたが、食卓に届いた信濃の葡萄ジュースと、会津の清酒を融合し、ワインのような何かを創造していた。案外美味しそうな香りがしない事もないが、
客室からは、早川の流下が聴こえる。河床に複数の段差が設けられているため、元来の河川よりも騒がしいのだが、この場所においてはさほど不快でもない。
「
地獄の果てまで私の隣に居る仁さんが、お茶を飲みながら景観を視聴している。多くの戦災に明け暮れる歳月を過ごして来た私達にとって、こうして心身に余裕を感ずる時間を持つ事は、掛け替えなき機会なのだろう。特に人間は、心の拠り所、あるいは逃げ場と言うか、精神的価値を探し求める存在だと聖姉さんは言っていたが、確かにそうなのかも知れない。
「あら、覚えていてくれたのですね^^」
姉さんの反応に微笑みながら、なおも曇り続ける天空を仁さんと共に見上げると…。
「…あ! また空が光ったよ!
今度は私の眼にも、明白に見えた。だが、落雷にしては随分と静謐だ。答えは勇姉さんが導いた。
「あれは伊豆の反射炉よ。いや、今はもう『反射砲』とでも呼ぶべきかもね。伊豆には昔から、鉄鉱石を放射熱で大砲に溶錬する遺跡があるけど、世の中には変な事を思い付く人が居てね、その技術を一体化させたのよ」
「反射炉」と「大砲」を、一体化? それって、まさか…。
「そうよ。反射炉の熱で大砲を造るんじゃなくて、熱自体を大砲にするの。増幅させたエネルギーを、電磁波光線として放出する…まあ、レーザー兵器みたいな物ね。主導しているのは多分、
「…怒りませんよ?」
それは良かった。だが、堀越駿河が「反射砲」などと言う新兵器に手を出した理由は?
「軌道上にはまだ、あの小惑星の破片が残っているわ。それが稀に、隕石として地球に落下する事があるの。それの迎撃よ。見た感じ、さっきのも多分そうね。『対小惑星隕石砲』が国連に禁止されたから、その代替よ」
「
「…まあそんな感じで、次世代兵器はレーザーみたいな傾向なのよ。それに堀越さんは、ゼロ戦を発明するような親戚の親戚らしいから、反射砲で隕石を撃墜する
平和主義者(広義)である聖姉さんは、戦争とか軍事の話に不快感を示す事が多い。当然ながら、そういう方向に話題を誘導したがる勇姉さんに対しては、尚更である。
「勇…私が碧様に『あれ』の裁可を授けたのは、あれが平和利用だと私に約したからです。剣を抜くとは、一言も伺っておりません! 碧様は、私の前で己を偽る事など御座いませんし、魔の邪気も感じませんよ?」
「それは飽くまで、現段階の話。でも、将来的には? 伊豆は聖と須崎さんの、静岡は堀越さんの、事実上の領土でしょ? 沼津は微妙だけど、どうせ仁に分家でもさせるんじゃない? 尾張の
聖姉さんの側近である
「駿河旅団は、アメリカの州兵みたいな『地方公務員』で、堀越さんの指揮で動かせる。その堀越さんは、聖の傀儡よ。そして、伊豆反射砲とか言う新兵器を掌握した今、ここ箱根は無論、小田原もすぐに陥落させられる。ついでに、大森や浦和にも飛び地があるしね。聖、私達はもう既に、東海道の地政学を左右できる勢力なのよ。あとは東京に入城して…」
「それってつまり、姉様が天下を…」
「いえいえ、お姉ちゃんに権力者なんて向いていませんよ…万一それが可能だとしても、私達が覇道に走るべき理由は? 法王様を戴く東京国府は、
「だから、将来の話だって言ってるじゃない。今は良いの。でもいつか、動くべき時が来るかも知れない。例えば…東京がクーデターで『誰か』に乗っ取られたりとか? それにね、聖。十三宮の実力に勘付いているのは、何も私だけじゃないのよ。確か
「はあ…なぜ修道会が武装しているのですか? ヨハネ騎士団ならば分かりますが…」
「肥前って事は、隠れキリシタンかな? じゃあ、姉様と同じような受難を耐え忍んで来たのかも?」
「そうね。須崎さんなら知っているんじゃない? ま、一寸先は闇だし、色々と想定しておくべきよ。平和を望むならば、戦争に備えるのが歴史の教訓。それに、仁が生まれて母さんが死んだ時、そしてこの子と出逢った時、誓ったでしょう? 私達は百年後、千年後の未来を見据えて、必要ならば残酷な運命にも立ち向かうって。聖…あなたの眼に、百年後の日本は、世界は見えているの?」
「あの日の祈りを忘れた事などありません。信じた未来は、必ず守り抜きます。ですが一握の不安もあります。果たして私達は、本当に平和を築く事ができるのか? そして、私達が生きたこの時代を、後世の方々はどう評価なさるのか? その全てを見通す事は…」
せっかくの旅行が、あの反射砲とやらと、更に勇姉さんの邪推で、やや深刻な雰囲気になってしまった…と思った時、最後の審判まで私の隣に居る仁さんが、パンドラの箱に希望を見出したような顔で立ち上がった。そして再び、私を見詰めて微笑んだ。
「大丈夫だよ! だって私達は、ずっと一緒だもん! 聖姉様と勇姉様、あなたと私…皆が清き明き心を胸に抱く限り、神様も私達と共に居て下さる! もし間違ったり、壊れてしまった時は、何度でも建て直せば良い…私はそう信じるよ! ね?」
あの年の夏を思い出すたびに、私は推し量る。彼女達の眼には、百年後の世界が映っていたのではないか…と。
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