「行こうか、燕ちゃん」

「うん」

燕ちゃんはにこにこ笑って、自転車を押して歩き始めた。

僕は連れ立って歩く。


いざこうして歩き始めると、なにも聞くことがなかった。

聞く必要もない。


僕は、自転車を押してちょこちょこと歩く燕ちゃんの横顔をちらちらと見て、そのたびに目を細めてくすくすと笑い、それで満足だった。


「ねえ?」

公園を少し出て、木陰にやってきたところで、燕ちゃんが自転車を止めた。


「な、なに?」

「なんにもお話しないの?」


「え?」

「それじゃつまんないよ」

燕ちゃんは唇をタコにした。


僕は笑った。

自分が怪人であることを、完全に忘れた笑いだった。

とてもいい気分だ。


「うん。ごめん。じゃあ、なにか話をしよう。そうだね…」

僕は少し考え、そして、燕ちゃんの自転車を指差した。

「自転車、好きなの?」


「うん。好きだよ。気持ちいいもの」

「気持ちいい?」

「うん」


燕ちゃんは、右手はハンドルに添えたまま、左手で空中にわっかを描いた。

「気持ちいいよ、じてんしゃで走ると。空気のにおいがわかるの。いろんな音がするの。それにね、きせつが変わるのがよくわかるの」


「ふうん」

僕は、楽しそうに喋る燕ちゃんを見ながら、歩いた。


「そうだね。知識では、わからないものってあるさ。自分の目とか耳とか、体全体で感じないと、わからないことって、あるんだよね。僕も、もっと、そういうものを、知りたかった」


「これから知ればいいんじゃ~ないの?」


僕はぽかんと口を開けて燕ちゃんを見た。

そして、また笑った。

「出来ることなら、そうしたいけどね。もう、遅い」


「?」

燕ちゃんは、チンプンカンプンという言葉を視覚化した表情で僕を見ながら、ゆっくりと自転車を押している。


ちらりと時計を見ると、燕ちゃんの登校時間としては、そろそろギリギリの時間になりつつある。


「もう急がないと、燕ちゃん、遅刻しちゃうよ?」

「あう? あ、ほんとだ。ちょっとかっとばさないとね」

燕ちゃんは腕をまくるふりをしてみせた。

「じゃ、またあしたね」


「え?」

僕はついそう言ってしまった。


「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。うん、また、明日ね」


僕はそう答えた。明日には、僕はもうこの世にいないだろう。


「燕ちゃん?」

「なあに?」

「もしよければ、約束、しないかな?」

「どんなやくそく?」


「僕は、燕ちゃんの笑顔が好きだ。それが、僕のすべてだ。だから、どんなことがあっても、どんなにつらいことがあっても、決して泣いたりしないこと。笑顔を忘れないこと。いつでも笑っていること」


「うん。それならバッチリだよ」

証明するように、燕ちゃんは目をヘの字にして、とろけそうな笑顔になった。


「約束だよ」

僕は念を押した。

「うんうん、やくそくやくそく」

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