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力を感じてから、三秒ほど、我を忘れて固まっていた遥は、はっとして稲穂に駆け寄った。
「稲穂、稲穂、だ、だ、大丈夫? 怪我はない?」
稲穂は、遥に優しく微笑んだ。
「はい。なんともありません」
「あたし、ほんとに、どうしようかと思った。稲穂が、もし、轢かれたら、どうしよう…どうしようって」
遥は、胸を抑えた。
「あたし、もう、すっごい、心臓止まるかと思ったよ」
「ふふ。本人の私が平気でいるのに、遥さんのほうが慌てています」
「そりゃあ、慌てるわよ。なんだって稲穂あんた、死ぬかどうかの瀬戸際だったってのにそんな平然としてられるわけ?」
「車が止まることがわかってましたから」
「わかってた?」
遥は首をかしげた。
「あ、あの、…えっと、あれです」
稲穂は、電柱の傍らに立っている標識を指差した。
「止まれって」
「あちゃー」
遥は額に手をあてて天を仰いだ。
「稲穂、あんたやっぱりもう少し社会の常識ってものを学んだほうがいいわよ。…一時停止なんて誰も守ってないんだからね!」
「そうですか。それは残念です」
稲穂は、その話題はどうでもよかったように気のない返事をした。
プファーーーンと、ダンプのクラクションが鳴った。
運転席の窓から、いかにもトラックの運ちゃんらしい顔をした男が顔を出した。日に焼けた顔は汗に輝き、上着はまったくつけていない。
「オラ、いつまで突っ立ってんだ! 早くどけよ!」
運ちゃんが怒鳴った。
「なによっ! あんたが悪いんじゃない! ひとこと謝るぐらい出来ないの!」
カチンと来た遥は怒鳴り返した。
「うるせえんだよっ! こっちは生活かかってんだからよ、ガキに構ってるヒマなんかねえんだっ! どかねえとマジでひくぞコラ!」
「なによその言い方! だいたいあんた、ここは大型車進入禁止でしょ! なんなら、警察呼びましょっか?」
後ずさりした遥と入れ替わるように、稲穂が進み出た。
「稲穂…駄目だよ」
遥はささやくと、稲穂の手を取った。
稲穂は遥の手を払いのけた。
遥は、まさか稲穂がそんな反応をするとは思っておらず、あっけにとられた。
稲穂の表情は、普段の控えめな稲穂からはとうてい想像も出来ないほど、冷たく、怒りに満ちている。
「謝りなさい。そうすれば、見逃してあげます」
「ああん?」
男は身を崩して笑い転げた。
「見逃してあげる、だってよ。ぷあっははははは。…ふらふら歩いてるほうが悪いんだろ?」
稲穂は、変わらぬ調子で淡々と言った。
「一時停止の標識があります。大型車進入禁止の標識もあります。非は貴方にあります。謝りなさい。私の気が変わらないうちに」
「ストップ! 駄目よ稲穂! 稲穂はもっとおしとやかじゃないと! もういいよ、ね、怪我もなかったんだから、ほら、いこ?」
遥は、なんとか稲穂を押して、その場を離れた。
「おとといきやがれ!」
男の罵声が背中にかかった。
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