強欲編

純粋なハートに強欲を忍び込ませて孤独にマザーグース・クライ

1話「デンジャラスな彼の事情」

 隣に引っ越してきた住人には毎日のようにご飯を作ってくれと頼まれ、同じマンションに住む同級生も食事に参加しているせいで、俺こと雑賀さいがサイタは子持ち主婦の気分だった。

 これから部活の野球練習で死ぬほど疲れた後に三人分の買い出しのことを考えると憂鬱な気分だ。


 暑さが日を増すごとに強くなる初夏、夕焼けが沈むまでの時間も延びていて、比例するように部活時間も伸びている上に水分の枯渇によって脱水症状の危険性も増大している。


 だからって俺が倒れたら隣室の住人、くるるクルリは腹を空かせた挙句に、近くのコンビニできっと不摂生な食事を再開するだろう。

 あの引きこもり猫耳野郎、今頃クーラーが効いた部屋でゲームでもしてるんだろう。

 俺が高校二年生で、枢クルリは俺より一歳年上。中学中退らしいが、ブログとか株で金を稼いでいるらしく、一日中部屋から出ないのが普通な奴だ。


 俺が汗水たらしている中、怠惰なアイツは汗一つかかないまま悠々自適にゲームしていると思うと、嫌がらせとしてメールで長文を打ち込んで送信する。内容は要約すると今夜の晩御飯どうする、だ。


 すると一分もかからずにメール返信。俺のメール内容は一切読んでいないようで、一文だけの要望。カレーがいい、というだけの素っ気なさ。

 どうせ読むのメンドーとかで、とりあえず今日のご飯だけでも要望通りになればいいとか考えて送りやがったな。大辛カレーにしてやる。しかもブロッコリーとか付け合わせで食わせてやろう。


 で、そんなことを六時間目の数学の時、教科書に隠れながらやっていた俺は呆気なく教師に咎められ、授業終了後に職員室まで提出用のノートを持っていく羽目になるわけだ。


 同じクラスの瀬田せたユウは新たな合コン予定を立てているらしく、合コントラウマな俺は鮮やかに無視。山瀬やませキオは手伝おうかどうか迷った挙句に掃除当番を押し付けられていた。

 原西はらにしユカリは颯爽と二クラス離れた彼女の元へと走り出したので視界から消失、西山にしやまトウゴは田原たはらリキヤの味音痴を忘れていたのか新作味の菓子を食べて悶絶している。

 ちなみに菓子を持ってきた田原リキヤ自体も教室の床を転げまわり、女子達から最低という視線を浴びせられている。


 そんな愉快な友人達と無関係を装って、一人寂しく重くてよろけそうになる量のノートを抱えて階段を下りていく。


 百六十五はある俺の頭を隠す高さのノートで前が上手く見えず、首を少し横にずらして慎重に歩みを進める。それでも不慮の事故は起こるもので、足を滑らせた俺は体勢を崩す。

 ノートが散らばる中、俺は肩を抑えられて壁に押し付けられた体勢で目の前のイケメン顔に絶句する訳だ。

 イケメン顔と言っても女子なんだけどな。例え俺に今流行りの壁どんとやらをしているが、ちゃんとスカートも履いている生物学上と照らし合わせなくてもきちんと女性。


「大丈夫?」

「ありがとよ。ノートが大惨事だ」

「拾うの手伝うから気にしないで」


 クールな態度を崩さず、いつもと変わらない感情の乏しい顔で多々良たたらララはノートを丁寧に拾っていく。スカートから覗いた太腿には黒いスパッツ。

 意外とそういうのを気にするタイプなのかと思いつつ、俺もノートを拾い上げていく。別に思春期だからってスカートの中を覗くドッキリ欲しかったとか、そんなのとは無関係だ。

 むしろ色事とは無関心でいたいもんだ。厄介なことには首を突っ込みたくない。突っ込みたくない、はずなんだがなぁ。


 最近の自分の行動を思い返して、充分厄介事に首を突っ込むどころが穴に落ちているよなと自覚する。

 七つの選択をした固有魔法所有者、それを狙う二つの組織、よくわからないことばかりで頭が痛い。

 そして選択をした俺は、同じく別の選択を選び取った二人と関わってしまった。選択には罪と童話が重なる。


 傲慢な人魚姫が俺、嫉妬のシンデレラが多々良ララ、怠惰なラプンツェルの枢クルリ。

 残っているのは強欲な白雪姫、憤怒の親指姫、暴食な眠りの森の美女、色欲の美女と野獣。

 うわー、なんか並べると恥ずかしい二つ名みたいだ。絶対に口に出さないようしようと俺は心に誓う。


 選択をした固有魔法所有者は鍵となる可能性を持つらしい。

 それを消したいのがカーディナルという組織、もう一つが鍵を手に入れたい錬金術師機関。

 最初に俺を襲ってきた針山アイという女はカーディナルという組織らしい。ただでさえわからないことだらけなのに、組織というのが二つも絡むとか悪夢だ。


 俺は溜息をつきつつノートを拾い集め、周囲に取りこぼしがないかを確認した後立ち上がる。

 見れば多々良ララの方が拾った量が多い。そして一緒に持っていくと助け舟を出された。

 しかしいくらイケメン顔とはいえ女の方に多く持たせるのは男として情けないし、量を多く持たせるのも気がひけた。


「俺が全部持ってく。だから上に乗せてくれ」

「できるの?」

「やってやる」

「……傲慢だねぇ」


 少し呆れたような声の後に圧し掛かる重量。ちゃんと全部持たせてくれたみたいだ。またよろけ始めるが、次はもっと慎重に歩いていく。

 そう思っていたら多々良ララを呼ぶ静かな声音。声の高さから女子だと思うが、落ち着いたと思うには高すぎる声だ。


 首を横に動かしてノートの山向こう側に、女子らしいと言えば女子らしい子がいた。

 七分丈の白シャツ、袖口にはフリルつきだ。スカートの下にも薄手のレースフリルスカートを着ているようで、お人形のような服装だ。制服なはずなのに。

 黒のハイニーソで絶対領域と言われるスカートと靴下の境目に存在する肌の上に、靴下がずれないためのガーターベルト。白い肌を際立たせる黒が大人っぽく見せる。


 頭の少し横上から肩より下の長さを持つドリルのようなツインテール、多分ウイッグと言われるかつらの一種をつけている。髪に合わせた黒色だ。

 白い肌の上には軽い化粧をしているようで、唇はほんのり赤い。睫毛も長く、目元に影を落とすほどだ。

 到底多々良ララと友達関係と繋げられなさそうな女子だが、それでも二人の間の空気は和やかだ。


「多々良さん、そちらがお噂の?」

「そ、傲慢野郎の雑賀サイタ」

「おい」


 とんでもない紹介の仕方に俺はツッコミをいれるのだが、鈴を鳴らすような愛らしい笑い声にスルーされることになる。

 俺と視線が合えば綺麗な微笑みを向けてくる。ただし人形のように整いすぎて俺の好みではないんだけどな。

 それに少し外見が派手で、どうも苦手だ。やはり女子は黒髪ロングストレート、そう針山アイのような感じの清楚系女子が……、と思考をそこで中断させる。


 うっかり思い出した好みの女子は俺に凶悪な攻撃を仕掛けてきた張本人である。いわゆる苦い思い出だ。

 傍に近寄られた時の良い匂いも思い出して自己嫌悪する。思い出したくないのに、忘れさせてくれない女とは厄介だ。

 できればそういうどこかのラブソングで流れそうな女とは無関係でいたかったぜ。


「初めまして雑賀さん。私は多々良さんの友人としてご一緒させていただいている深山みやまカノンと申します」

「これは御丁寧にどうも、あ」


 深々とお辞儀されたので思わず反射的にお辞儀をしてしまい、山のように積み重なっていたノートが再度崩れる。

 多々良ララはクールな顔で、深山カノンは少し苦笑した顔で崩れたノートを見下ろしていた。

 俺は慌ててノートを拾い上げる。深山カノンが手伝おうとしてくれたのか、屈んできたので手を上げてお構いなくと伝えようとした。


 上げた手にフリルレースの心地良い感触。絹のような手触りのスカートの下には大胆な黒の下着。


 そりゃもう冷や汗が止まらない。だからってこんなハプニングに慣れていない俺は硬直して動けなくなる。

 深山カノンも慣れていないらしく、声も出ないまま白い肌を紅潮させて俺を見下ろしている。

 ただ一人多々良ララが俺の手を冷静に地面に置かせ、深山カノンの位置を後ろに少しずらす。


 散らばったノートの上で土下座することはなかったが、俺は何回も深山カノンに謝ることになった、思い出したくない青春がまた一つ築かれた。




 思い出しそうになる黒のレースパンツを忘れようと部活の練習にのめり込みすぎた。

 夕焼けで赤く染まる電車に揺られながら俺は寝ていた。危うく降車駅を通り過ぎそうになるほどの爆睡だ。

 慌てて電車から降りて近くのスーパーに買い出し。大辛用のカレールーを買うことは忘れない。あとブロッコリー。


 そして買い物袋片手に帰る途中、覚えのある綺麗な黒髪が俺の視界の端に映る。

 しかし顔を見ればその人物は全く知らない女性で、どんだけ俺はあの女のことを引きずっているのかと嫌になる。

 瀬田ユウじゃないけど、俺も彼女作るために奮闘しようか考えて、今この生活で彼女まで作ったら身が持たないと判断する。


 溜息をついて改めて前を振り向いて歩こうとした瞬間、超絶好みの容姿で超絶性格が合わない奴が目の前に立っていた。


「久しぶりね。できれば君の顔なんて二度と見たくなかったわ」

「俺もだよ、針山アイ」


 都会の人混みの中で運命の再会、なんてロマンチックなもんじゃない。

 俺も針山アイも睨み合い、お互いに警戒と敵意を向けている。むしろここで会ったが百年目だ。

 大罪の器で鍵になるかもしれない俺、それを消したい組織カーディナルのメンバー針山アイ。


 買い物袋を持っていても俺の魔法は問題ない。針山アイの固有魔法によるダイヤモンドの硬度を持つ爪くらい、何十枚でも叩き割ってやる。

 そう意気込んでいた俺とは反対に針山アイは長い黒髪の毛先を指先で遊ぶ。その爪は血で赤く染まっていない。

 言い辛そうにしつつも針山アイは白い肌の頬を少し赤らめて、綺麗な形の唇を尖らせて呟く。


「君に相談したいことがあるの。少し付き合ってくれないかしら?」


 お嬢様学校の制服はオシャレに出来ているらしく、水色チェックのスカートが風に揺れる。

 ハイニーソの黒靴下に白シャツの上には水色のベスト。胸元には校章のバッジがつけられていて、高校生らしい姿だ。

 でも針山アイの容姿によって、それは魅力的な服装になる。まるで雑誌のモデルが目の前に立っているようだ。


 しかも顔を赤らめて付き合ってとか言われた、青春と思春期を同時に過ごしている男子高校生の俺はどうしたらいいのだろうか。


 決まっている、これ以上は厄介に首突っ込んで日常と無関係なことに巻き込まれないようにする。

 俺は回れ右して走り出そうとしたが、針山アイが少し焦ったように怒声を浴びせてくる。


「ちょ、ちょっと!?待ちなさい!待たないと私の鼻骨折ったこと今すぐ大声で言いふらすわよ!」


 そう言われては俺も立ち止まるしかなかった。厄介や面倒、日常からかけ離れたこととは無関係でいたいからだ。

 針山アイは顔を真っ赤にしてこちらを不服そうに眺めている。そういう表情すると俺と同い年の女子高生がそこに立っているだけのように見える。

 俺こいつに殺されかけたことすら忘れそうなほどの、普通の表情が少し新鮮で、いつもそういう顔していれば可愛いのに、と思わず考えてしまった。


 待てよ。そういえば確かに俺は針山アイを昏倒させるために全力で顔面殴ったよな。

 鼻骨が折れているとか言っていたから間違いないはず。なのになんで針山アイはあの時と変わらない美しい容姿のままなんだ。

 しっかりと鼻筋は通っていて、ガーゼすらない。よく見れば手首のリストカットのような傷跡もない。まだ一ヶ月も経っていないのに。


 完治するには早すぎる。まるでなかったことにされた気分だ。俺は狐に化かされたのかと疑ってしまうほどだ。

 しかしそんな俺の心情は針山アイには関係ないらしく、ついて来なさいと言わんばかりに歩き出す。

 俺としてはそこで逃げ出しても良かったけど、背を向けた瞬間に爪を背中に刺されたらと思うとついて行くしかなかった。


 針山アイは駅前のストリートライブが開かれている場所まで歩いてきた。

 そして何故か俺に千円札を差し出す。そして一人の青年を指差して、夕焼け以上に真っ赤な顔で偉そうに命令してくる。


「あそこにいる白雪っていうミュージシャンのCD買ってきなさい!」

「……自分で行けよ」


 思わず真顔で返してしまう。針山アイは俺よりも背が低い百六十くらいの身長で、いつも見下ろされる俺が珍しく少し視線を下げている。

 俺の真っ当な意見にどう言い返すか、悔しそうに顔を歪ませる針山アイだが、意外とその表情が可愛い。これが美少女効果か。

 最終的には頬を膨らませて上目遣いで睨んでいる。どうしても欲しいけどこれ以上俺に頼むのはプライドが傷つく、といった様子だ。


 なんとなく虐め心をくすぐられた俺は、襲われたことへの意趣返しに意地悪なことを言う。

 実は前に西山トウゴに熱弁された恋愛シュミレーションゲームでのシチュエーションで、それはちょっといいなというのがあった

 ささやかな内容だし、これくらいの意地悪くらい平気だろう。たまには俺も優位に立ちたいしな。


「じゃあ俺のシャツの裾引っ張って、買って、と頼んでくれたらいいぜ」

「なっ、そ、そんなか、カカ、カッ……プル、み、みみたいなこと……」

「合コンに来ていた奴が今更……あー、でもお嬢様学校の針山アイさんには無理な話でしたねー」


 俺は挑発するようにそう言いながら千円札を針山アイに返そうとした。そろそろ帰らないと夕飯の支度が間に合わないしな。

 どうせ俺なんかの頼み事なんて聞けないだろうと高を括っていた。針山アイは無駄にプライド高そうだしな。

 だけど俺の予想とは違い、針山アイは指先で俺の漢字シャツを軽く引っ張って、耳だけでなく首まで真っ赤にして俯きながら言った。


「買って……きなさい」

「お、おう」


 予想以上に素直なところと、素直になり切れない強情な反応に。頼んだ俺の方が照れてしまう。

 しかしよく見たら引っ張られたシャツの部分穴空いてるじゃねぇか。あいつ無意識に固有魔法【猫の爪研ぎネイルキャット】使ったな。これお気に入りなのに。

 これ以上は危険だ。わかったよ、俺の負けでいいよ。真っ赤になった顔を針山アイに見られないように、ストリートライブしている白雪という青年に近づく。


 ストリートライブっていうのは道路でパフォーマンス、主に音楽活動する人や漫才する人の興行みたいなものだ。

 元は海外特有のものだったが、ある時代から日本でも盛んになり、芸能界を目指す人間のなかにはストリートライブから大人気歌手になった奴もいる。

 メジャーデビューしたい人はその場で自作のCDを売っていたり、ファン作りに勤しんだりするから賑やかなものだ。


 俺が部屋を借りているマンションに一番近い駅前では、どうやらこの白雪っていう青年が一番人気らしい。

 前も見かけた男で、中性的な歌声に両手の人差し指だけの一本指演奏という壊滅的なギャップのストリートライブをしている。

 しかも歌うのが懐かしの童謡ばかりなんだが。たまに知らない英語、もしくは外国語の歌もある。メロディー的にはそれも童謡みたいだけど。


 黒炭のような黒い髪、雪のように白い肌、首筋には固有魔法所有者特有の痣がある。形は林檎で、色は鮮やかすぎて毒々しいほどの赤。

 髪の一部を赤く染めて三つ編みにしている。男としては少し長い短髪、女のショートカットみたいな髪型で、三つ編みは頭の旋毛から左側に下がっている。

 持っているのはキーボードと、背中に兎リュック。天使の羽根とシルクハットをつけた兎だ。メルヘン、というか子ども趣味か。


 服装はカジュアルなんだが、初夏の暑い日にしては長袖パーカーなのが気になる。しかも汗一つかいてない。

 なんというか細い体をパーカーの大きさで誤魔化している印象で、スラックスは足にフィットするデザインだが、細長い。

 一見日本人に見えるけど、整った顔立ちやほりの深さから外国人な気がする。どこの国かまでは俺にはわからないが。


 青年が歌い終わったらCDを買って針山アイに渡し、さっさと帰ろうと思っている俺は違和感に気付く。

 大体はストリートライブでCD売る奴は手描きの看板とかで一枚何円とか出して、目の見える位置にCDを置いていたりする。

 だけど白雪の周囲にそういったものは見当たらない。むしろなんで白雪の横にリスの着ぐるみがあるのだろうか。


 しかも中に人がいるらしく、小刻みに揺れているし荒い息遣いも聞こえる。こんな暑い日に着ぐるみはきついだろうに。

 看板を持っていることからチラシ配りかお店の宣伝だろう。首元からぶら下げている看板にはホスト店の名前。

 白雪の集客を利用した客寄せかと俺は見ない振りをした。今はCDだ、CD。


 歌い終わって拍手が響く。俺も拍手を送り、今からCD販売かと身構えた。

 しかし白雪は一礼してから、すぐさまキーボードを片付け始める。販売してないのか。

 俺の周囲で曲を聞いていた聴衆が質問の言葉を投げるが、白雪は首を傾げて混乱した顔をしている。


 するとキャリアウーマンのスーツを着た巨乳美人が仁王立ちで現れる。

 白雪を背中で庇うような立ち位置で、美人なのに顔が般若みたいになっていて怖い。

 長い黒髪をバレッタで軽くまとめつつ、ストレートロングな髪型を演出している。


「不肖このこずえが質問を受け付けます!!坊ちゃんには手出しを……」

「だぁあああああ!!梢ちゃぁ~ん、ややこしくなるから出ないでって言ったじゃん!!」


 メリハリのある応援団のような声量で女性、梢さんが喋っている途中で着ぐるみの中から人が。いや、中の人は普通にいるけどな、着ぐるみだから。

 着ぐるみの頭部分を小脇に抱え、腰辺りまで着ぐるみの衣服を脱いだ男は金髪のチャラそうな男だった。胡散臭いグラサンもつけている。

 着ぐるみ着ているのにグラサンって。なんにせよ下半身リス、上汗だくのシャツ、そしてチャラそうな顔、しかも首看板はホスト店の宣伝。


 怪しい男は今にも質問した相手に喰ってかかりそうな梢さんの背中を押して移動させていく。

 しかしそれが気に入らなかったのか男の首をまず四方固めして、それからはプロレス漫画で見た覚えのある技の乱発。

 特に最後の決め技はあの有名なバスターと名のつくあれだ。筋肉的なアレだ。現実で見れるとは思ってなかった。


くぬぎ!!大体なんで坊ちゃんの傍で副業のホスト宣伝しいるのです!?」

「あいだだだだっ!!梢ちゃん、世界狙えるよ!いいね、悪くないよぉお~でも今は」

「ちゃん付けするな!!虫唾が走る!!」

「あいだぁっ!!?」


 見事な技の応酬と痴話喧嘩かもしれないということで、すっかりギャラリー達の関心が白雪からそれてしまった。

 その間に白雪は何事もなかったようにその場から去ろうとしているのを俺は見てしまう。そのまま無視しても良かった。

 しかし背中に感じる殺気、なんとなく血で染まった爪が向けられている気がした俺は仕方なく白雪に声をかけた。


「す、すんません!CD発売はしてないんですか?」

「……CD?」


 透き通るような声とはこういうことを言うのかと再認識する。透明で、純真無垢よりももっと綺麗な、ガラス玉のような声。

 瞳もよく見ればガラス玉のように薄い青と緑のオッドアイだった。確か両目で色が違うとオッドアイってことでいいんだよな。

 そして俺が続きを言おうとする前に鳴り響く、盛大な腹の音。それは綺麗でもなんでもなく意地汚かった。


「おなかすいた……CD……は椚が担当してる。あ、でも今梢と遊んでるし……」

「あれを遊びと言うか……」


 白雪と俺の視線が向かう先ではリスの下半身を掴み、腰辺りに抱え直して男の方を大車輪と言う技で振り回す女。

 男はもう声も出ないようで振り回される慣性のせいで万歳の体勢。女の方は回しながら気合を入れた野太い声を出し続けている。

 眺めていた観衆はさすがに巻き添えを喰らいそうになっているので、少し離れはじめていた。


 白雪は二人が当分戻ってこないのを見て、リスの着ぐるみがさっきまでいた場所に置かれている箱を開ける。

 そこには宣伝用の配布用ティッシュとCDがごちゃ混ぜに入っていた。整理もされてないので酷い有様だ。

 一番上にあるCDケースを手に掴んで、俺に差し出す白雪。これだとプレゼントを貰う図だ。


「あげる」

「いや、金払うって。千円でいいか?」

「……わかんない。椚に聞かなきゃ……」


 そしてまた鳴り響く腹の音。しかもさっきよりも盛大に音がでかい。

 俺にケースを渡してお腹を抱える白雪。それは腹を空かせた犬か子どもの図によく似ている。

 何気なく俯いている姿も犬に似ていた。餌箱を見て、ないの?と今にも言い出しそうな切なそうな表情だ。


 これ以上引き止めると可哀想だし、だからってタダで貰う訳にもいかない。

 俺はとりあえず鞄の中からノートを千切って折り紙の要領で封筒を作り、その中に千円札と連絡先のメモを畳んで入れる。

 表には「CD代置いていきます。足りなかったらここに連絡ください」と付け加えておく。


 なぜか白雪はノートの切れ端を折る俺の指先を興味津々に眺めていた。

 熱心に見られて居心地悪かったが、完成したものを箱の中に入れて改めて封をする。

 都会でこういう商品を放置してもいいのかと思いつつ、男はまだ折檻の最中のようだ。俺にはあの渦中に飛び込むほどの好奇心はない。


 そしてCDを片手に、近くのベンチでジュースを飲み始めていた針山アイの元へ行く。

 針山アイはあの見事なプロレス技の応酬には興味がないらしく、今も指先で髪を梳いている。

 俺が戻ってきたのを見て特に表情は変わらなかったが、CDを手に取った瞬間嬉しそうにその場で飛び跳ねる。


「これこれ!ずぅっと欲しかったのよ!ま、これで鼻骨折ったことは勘弁してあげるわ、感謝なさい!」

「そうかよ……じゃ、俺は帰るけど攻撃すんなよ。鼻折れて泣き顔晒したくないだろう」

「鼻骨折る?」


 後ろから聞こえてきた声に俺は驚いて振り向く。なぜか白雪が俺達についてきて、話しかけてきたのだ。

 針山アイは顔を赤らめるかと思ったら顔を青ざめさせて、金魚みたいに何度も口を開閉している。

 そして俺の背中に隠れたかと思ったら、一瞬だけ耳打ちして逃げるように去っていった。


 俺は耳打ちの内容に驚くと同時に、白雪の方を見て、針山アイが消えた方向を振り向く。

 白雪はそんな俺の様子にも気づかず、ただ本格的に腹が減っているのか買い物袋を眺めている。

 そしてはみ出ている大辛のカレールーに目を輝かせる。嫌な予感がするぞ、おい。


「大辛カレー。食べたことない、食べたい」

「いや、でも、知らない人について行くのはどうかと……」

「大丈夫。梢と椚はいつだって僕の位置知れるから。食べてみたい、あと鼻骨折った話聞いてみたい、家行ってみたい」


 押しせまる勢いで強請ってくる白雪に俺は圧倒される。大きな子供に我儘を言われている気分だ。

 みたい、が、欲しい、に聞こえてくるような錯覚。どうやら俺はまた厄介事に関わってしまうようだ。

 針山アイが耳打ちした内容を思い出して、俺は運命があるとしたらそんな馬鹿げたのとは無関係でいたかったと肩を落とした。





 白雪は強欲の候補だってよ。錬金術師機関だけでなく、政府も危険視する要注意人物だとか。

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