第4話「悪化を辿る進展」
「それにしてもハクタが腹黒に報告漏れなんて珍しいわね」
上品に茶菓子を口の中に入れ、音も立てずに咀嚼。穏やかな香りの紅茶を一口飲み、ツェリはのんびりと告げる。
「言っていた気がするんだが……魔人とか魔物の騒動もあったからな」
向かい側の席で腰を落ち着かせていたハクタは、少し疲れた顔でぼやく。
フィルの執務室では時間の流れが緩やかになったような錯覚に陥りやすい。味のある古書が棚に並び、暖炉の火がぱちぱちと音を鳴らす。
冬の晴れた昼間にはうたた寝したくなるほどだが、羽ペンで書類を書き上げていく部屋の主人は、浮かない顔で目を細めていた。
「まあミカの問題は、目の前に置かれた危機よりは優先度は低いからね」
窓硝子越しに外を見る。深く降り積もる雪はあっという間に足跡を埋め、暗闇の中でも淡く輝いている。
夜空さえも隠す灰色の雲。ツェリが窓に近付いて確かめるが、吐いた息で硝子が曇ってしまう。体を芯から冷やそうとする冷気が刺さる。
「……寒いわね。今年は降るのが遅いと思ってたら、これだもの」
フィルの横に移動するツェリ。一人分の距離は空いていたが、横並びと称するには問題なかった。
音も、日常の風景も、静かに埋めていく。空がいつもより近く見えるはずなのに、沈んでいく感覚。
「問題は山積みさ。まさか魔人が『拳銃』を使っていたなんて、情報規制がいつ緩んでもおかしくない」
机の上に置いていた資料の一つをツェリに手渡す。幽霊船騒動から始まった大騒動の一部始終。そして持ち帰られた実物の武器。
フィルの執務机の引き出しにしまわれている拳銃。ユルザック王国では流通どころが、存在すら隠し通されてきた品物だ。
「でもなんで隠すんだよ? 武器の最新情報は戦争に影響するだろう。俺や騎士団の生死に関わってくる」
「ああ、戦争の根底を覆すほど強力さ。第二王子と第三王子は必死に手に入れようとしているし、第一王子ならば強いのを一つは所持しているだろう」
皮肉な笑みを浮かべる。温和な表情がよく似合う彼にしてはあまりにも歪な、醜い顔だった。
「戦争のために最初に銃口を向ける相手は決まっているだろう?」
指の形で銃身と引き金を形作り、撃鉄を親指で動かす仕草を見せる。
人差し指が反動で跳ね上がるのを真似ただけで、ハクタは喉の奥が乾く気分だった。
戦闘の時、相手の銃身が動くのを見届けた頃――弾丸は腹を突き破る。
「中途半端な情報と製造数で戦争突入のきっかけ作り……最悪の想定さ。そこら辺も第一王子以外は把握していない始末だ」
「戦争に突入させないための規制なのか?」
「まあ精霊信仰も原因の一つだけどね。けど敷いたのは僕じゃない」
椅子の背もたれに寄りかかって、フィルは長い溜め息を吐く。
「現国王が決めたことさ。だから誰も強く出られない」
フィルにとって国王とは父親である。そしてどうにも掴めない男だという印象だ。
戦争に関しては中立派。専守防衛というわけではないが、積極的に戦おうという気概も感じさせない。
むしろ国内の平定を押し進めているのだが、精霊や聖獣に頼る場面が多い。その割に支持率は高く、好戦的な貴族も彼を前にすると戦争の話を避けるくらいだ。
「いたって平凡な男なんだけど、妙に国王がしっくり当てはまる変な人なんだよなぁ」
実の父親に対する言い草としては不適切だが、フィルの父への評価は難しい相手という一言に尽きた。
敵視するほど強いわけでもなく、つけ込みやすいほど優しくはない。しかし偉業を為したという実績は存在せず、固い地盤に近い政務をこなしているのだ。
だからこそ王子の誰もが率先して国王を暗殺しようとは考えていない。むしろ他の王子が倒れるまで、国内を安定させる道具とまで捉えている者もいるくらいだ。
「まあ今回の件を報告したら、拳銃に関しては僕に一任するってさ。試されてるのか、本気で任されてるのか……わからない」
「腹黒の最大の敵って天然だものね」
「ああ、計算が通じないわけか」
若干口元が引きつりそうになったが、忍耐力を動員して我慢する。
「養父から大量の魚土産のおかげで、備蓄に少し余裕が持てたのは良かったけど……今回の幽霊船に関しては頭が痛いことばかりだよ」
「ああ、そうそう。お土産で思い出したわ」
机にだらしなく肘をつくフィルの頭。そこに資料を置いたツェリが世間話を振る。
「犬は好き?」
城内の図書室から借りた本を抱え、ハリエットはとぼとぼと廊下を歩いていた。
美しすぎる女研究者と持て囃されたこともあるが、彼女は基本的に小心者で見栄を張っていないと潰れそうなだけだ。
整えた深緑の髪も、細い縁眼鏡も、女性を意識した服装さえも。彼女にとって武装の一つであり、虚栄だった。
「ハリエットくん、君には期待してるよ」
図書室で偶然出会った同じ研究グループの教授からの言葉。
穏やかな老紳士である彼に憧れて所属した。期待には応えたいし、成果も出したい。
けれど才能がないことを彼女が一番自覚していた。協力を仰ごうにも、誰もが敵に思える。
「あ、ハリエットさんだ。どう、調子は?」
図書室を出た直後に遭遇した同期の精霊術師。軽薄な男は、報告会が迫っていても変わらない様子だった。
何故、この男は懐いてくるのだろうか。事あるごとに食事に誘われては、断り続ける毎日。彼女にとって教授が理想の男性像だ。
軽薄な男――ラルクは彼女の理想とは正反対な男だった。嫌いではないが、どうにも苦手意識が強い。彼を無視してそそくさと逃げ出す。
足取りが重い。研究は進まないのに、時間だけが過ぎ去っていく。
生活に根付く精霊術など、偉大な発見に比べれば小さい物にも見えた。なにせ世間の注目は魔人や魔素なのだ。
認められたい。けれど方法がわからない。地道な努力など、結果の前ではなんと無力なのだろうか。
「……」
不意に足を止める。楽になりたい。その思考に囚われた時だった。
「っ、ぎゃあああああああああ!!!!」
近くの研究室から叫び声が轟いた。驚いて顔を上げれば、勢いよく開けられた扉。一目散に駆け出す金髪の少年。
その姿に見覚えがあったハリエットは回れ右を選ぼうとしたが、それよりも先に涙目の少年が駆け寄ってくる。
「すまない! 助けてくれ!」
「ええっ!?」
背中に隠れてしまった少年が怯える相手。到底対処しきれる相手ではないと思うが、足が震えて動けない。
仕方なく近付く相手を真正面から見据える。だが扉から出てきたのは予想外の存在だった。
「……犬?」
長毛種らしく、毛がふさふさと柔らかく揺れている。全体的にずんぐりむっくとしており、丸々と愛らしい。白と黒の毛並みは一級だ。
足が太く、これから大きくなるだろうと思わせた。しかしまだ小型サイズで、ぬいぐるみが動いているようなものだ。
北国でソリを引く犬種なのだろうが、ハリエットが知っているのはハスキーだけだ。目の前の子犬は少し違う気はする。
「……可愛い」
「我は犬が苦手なんだ! 奴らの遊んで攻撃は疲れる!」
もっふんもっふんと動く子犬を前に怯える第五王子。それを見ていると、ハリエットはなんだか微笑ましい気持ちになってきた。
王族と言っても十五歳の少年。苦手な物に対してこんなにも狼狽するのだから、中身はきっと普通なのだろうと安心する。
大きな勘違いを続けるハリエットの微笑みも忘れ、レオは近付いてくる犬に最大の警戒心を向ける。
「ほら、こっちにこいよ」
扉から追いかけてきたオウガは、子犬を軽々と抱えてしまう。遊び足りないのか、舌を出している子犬は目を輝かせている。
「じゃあ、その子をよろしくねー!」
さらに扉から姿を見せたのは第四王子の婚約者であり、ハリエットは慌てて頭を下げた。
華やかなドレスが視界の端でふわりと広がる。軽やかな足音と風を連れて、ツェリはあっという間に姿を消してしまった。
「ツェリ殿によればマラミュートという犬種らしいです」
「ちょ、ちょっとアタシに撫でさせて……」
首輪などの世話道具一式を抱えたクリスに、玩具片手に子犬へと迫るヤー。しかし子犬の視線はレオへと定まっている。
まるで大型犬を警戒する猫みたいな様子の少年に、ハリエットは少しだけ悩みが吹き飛んでしまった。
「王子、名前は如何なさいますか?」
「我に聞くか!? そういうのはミカに……」
「王子がミカではないのですか?」
ハリエットの一言に、場の空気が一瞬凍った。
「ミミィが好きだもんな、犬」
「そ、そうだった気がする! うん!」
オウガのフォローに勢いで乗っかるレオだが、ハリエットを誤魔化すには充分だった。
近場に似た名前があって良かったと安堵する中、ヤーだけが子犬のふかふか毛並みに癒やされていた。
「どうせなら皆で名付け大会をやったらどうだい?」
涎塗れの眼鏡を拭くカロンが声をかけてきた。クリスとヤーはすぐに賛成の手を上げる中、レオだけはハリエットの背中から離れようとしない。
「ハリエットさんもご一緒にどうぞ」
「え」
報告会が寸前に迫っているはずなのに、全く焦っていないカロンが気軽に声をかけてきた。
憧れの教授に少し似ている彼に対し、ハリエットは用心しつつも小さく頷いた。
なによりレオが離れてくれないのだ。王子を無下にするわけにはいかず、戸惑いながらヤーの研究室へと入っていく。
「じゃあ僕が司会するから、まずはクリスちゃんから」
「はい! 武蔵号など如何ですか!?」
思いの外渋かった。床の上で円上に座っている面々は、クリスが立ち上がりながら告げた名前にコメントしづらかった。
特に彼女の愛馬がシェーネフラウという華やかな名前な分、それを知っている者達は愛馬に名前を付けたのは別人かという疑いが始まっていた。
「……理由は?」
「強そうだからです! 是非、健康で堅強に……王子を守れるようにと!」
オウガから手渡された子犬を抱え、太陽に掲げるように持ち上げる。残念ながら室内なので、部屋の明かりに向けてとなっているが。
子犬は室内灯の眩しさに目を細め、困ったように「くぅーん」と鳴いている。
「次、オウガくん」
「まあ雄みたいだし、無難にジャックとかどうよ」
そつがない。しかし普通。最終的に困った時の決定案としては申し分ないが、インパクトが足りない。
改めて座ったクリスは、子犬を腕に抱いている。今にも動き出しそうな子犬は、まだ短い足をばたばたと動かしていた。
「理由もなさそうだし、次に行っても大丈夫?」
「ああ、聞かれても困る」
「それではヤーちゃん、どうぞ」
「二世よ」
これしかないといった強さで言い放ったヤーだが、意味不明さに関しては抜群だった。
「理由は?」
「だってミカに似てるじゃない。この気が抜けた顔。だからミカ二世よ」
一応主人であるはずなのだが、一切気遣わない。彼女らしいといえばそうだが、ハリエットとしては肝が冷える光景だった。
おそるおそるミカへと振り返る。隣に座っている少年が怒っていたらと案じたが、確かめないという選択肢を選ぶ勇気がなかった。
しかし少年は納得したように頷いており「そう思えば怖くないかも……」など言い出す始末であった。ハリエットの緊張が一気に抜ける。
「ではミカくんは?」
「……あ、我か」
「最近、レオ呼びに慣れてきちゃったもんね」
笑って誤魔化しを仕込むカロンの話術に、オウガ辺りは抜け目がないと感心する。
これでハリエットに対してレオ呼びが使えるようになった。ミカとレオは同じ体の別意識であるが故に、オウガ達は混同できない。
クリスなどは王子と呼ぶことで曖昧にしていたが、オウガやヤーは癖になっていた。
「……」
じっと子犬の顔を見つめ、
「ヴォルフ」
懐かしい名前を呼ぶ。だが子犬は聞き慣れない名前に反応しなかった。
哀愁を含めた笑みを浮かべ、レオは少しだけ安堵する。狼の顔立ちに似ているが、やはり別の生き物だという認識。
「かつて栄華を誇った月の聖獣の名前だなんて……ロマンチックですね」
「え? あ、いや……あいつにそんな単語は似合わないんだが」
言葉の後半は小声の独り言。どんなに記憶を漁っても、浪漫という雰囲気からかけ離れた存在だったはず。
しかしハリエットが優しく微笑んでいるので、レオとしてもそれ以上の発言は思いつかなかった。
「じゃあハリエットさんは?」
「えっと……もふりん」
美女からとんでもない可愛い名前が出てきた。仕事ができる才女といった容姿ながら、ネーミングセンスは幼女に近い。
ちなみに子犬はクリスの腕で寝てしまい、ぷうぷうと寝息を漏らしていた。舌をしまい忘れており、大変幸せそうな姿である。
「甲乙付けがたいなー。保留にしておこうか」
「そうね。レオ」
「ああ、ようやく本題に入れるな」
子犬が気持ちよさそうに眠ったのを機に、ゆらりとレオが立ちあがる。その気迫は犬に怯えていたとは思えない。
明らかにカロンの体が震え始める。動揺した彼の姿を認識し、ハリエットは緊張で身を強張らせた。
ヤーが床に紙を広げる。敷物ほどに大きいそれに描かれているのは精霊術陣。精度が高い精霊術陣を前に、ハリエットは手に汗握る。
「今度はこの術式が間違っている! やり直せ!」
「うわーん! 男の罵倒なんてやだー!」
「甘ったれてんじゃないわよ、この馬鹿! しかも前回の注意点が悪化してるわよ! まずは構築してからマイナスしろってんのよ!」
「ヤーちゃんに叱られるなら本望、あいたっ!!」
頭を叩かれた反動で眼鏡が落ちる。第五王子と天才精霊術師の妹に怒られているカロンを目前に、ハリエットはただ呆けるだけだった。
「いいか、エネルギー世界とはいえ天の二大や自然の四大とあるように、精霊には属性とも言える性質が備わっている。だからこそ天地だけでなく海も存在している。故に
「流通路確保だけでなく四大による中和均衡が大事なのに、どうして火に偏るのよ。いい? 確かに火は目に見えやすいけど、静電気でさえ火とも言えるの。水や地よりも少ないわけじゃないんだから加減を考えるの」
「大体、妖精界は異界ということを忘れていないか? 時空や物理の法則を超えるにはそれなりの危険性が伴うんだぞ」
「こんな未完成品を試験運用していたなんて信じられない……軽蔑するわ」
容赦のない理論と罵倒の数々。
カロンが眼鏡の位置を何度も直しているが、動転した気持ちを落ち着かせるには不十分だった。
話題について行けないオウガは黙しており、クリスは子犬を抱いたまま船を漕いでいる。
「……」
ただハリエットだけが会話内容を中途半端に理解していた。
最新研究の転送精霊術陣。実用段階に移行しているとは聞いていたが、それさえも不完全だと言われている事実。
目の前に広げられた精霊術陣の完成度は高い。だがそれでも事故が起きる。高度な妖精界への知識がないと太刀打ちできない内容だ。
「……ここ」
それでも、
「円陣にするならば地図に変えてしまうのはどうですか?」
閃いた発想を告げていた。
「地図?」
最初に疑問を投げたのはレオだった。しかし否定ではなく、新しい機転に好奇心を示す声音。
ハリエットは近くに置かれていた羽根ペンに手を伸ばす。妖精界と今の世界を利用して転送――つまりは運輸方法の確立。
精霊の流れとは道路を敷くということ。生活の中に存在する方法へと置き換えていけば、商人の運搬路を確保するための地図製作を思い浮かべればいい。
「世界は丸いと言われてます。天球儀を基準に、表裏一体である妖精界も形作れます。であれば妖精界の地図を天球儀の裏返しに貼り付ければ……」
「いけるわ……上下も逆にして、そう、紙では限界があるけど天球儀なら精密な『道具』として確立できるわ!」
「二つの星を重ね合わせるのか! 循環している精霊達の属性やこちらの環境を置き換えていけば、模倣地図ができる!」
「二つの星を中心に据えて、四つの輪を作ろう! それぞれの輪に自然の四大の術式を書き込めば、位置によって均衡を変えられる!」
「これならば天の二大で地軸も作れるぞ! 凄いぞ、ハリエット! あっという間に模型の基本構造が完成した!」
無邪気に喜び、褒めてくる。曇り一つない青空で輝くような太陽。そんな笑みを向けられて、ハリエットは胸の奥が熱くなる気がした。
しかしどうして第五王子がそんなに詳しいのか。疑問はあったが、金色の瞳に見つめられてしまうと思考が止まってしまう。
紙を折って天球儀の形を整えていくカロンとヤーを羨望の瞳を向け、ハリエットは勇気を出して問いかけてみる。
「あの! わ、私の研究も……見てくれませんか?」
「ああ! もちろんだ!」
即答。第五王子と呼ばれる少年の噂は耳に届いていた。けれど今だけは彼ほど頼もしいと思える笑顔はなかった。
無自覚にカリスマ性を発揮しているレオ。彼を眺めながらオウガは生欠伸を零す。後々にミカの評価に影響しそうな勢いである。
ハリエットの研究は「持ち運びできる精霊術による灯り」だった。
たとえば鉱山で火による火災を防ぐために。風が強く打ち付ける北でも安定した街頭の
精霊術でしか作れない純粋な光を気軽に利用を、と考えた内容だ。ハリエット自身も地味だと感じているが、どうしても実現したい研究だった。
図書室での灯りを見た日、ずっと抱き続けていた。油さえ満足に買えない家でも光が宿れば、なにかが変わるのではないかと。
月明かりだけで勉強をしなくて済む。安定した光の供給によって夜の生活は激変する。日が沈んでも活動できるのだ。
誰にも相手にされなかった研究のために集めた資料。それを眺める少年の一挙一動に心臓が勝手に反応してしまう。
「……ふむ」
馬鹿にされたらどうしよう。他の研究に変更したらと聞かれたら、答えられるだろうか。
不安で押し潰されそうになる中、
「面白い」
少年は笑顔でハリエットの研究を認めてくれた。
「そうか、精霊術で『道具』を作るわけだ。誰もが普遍的に、安定した光を得られると」
「は、はい……地味ですけど」
「なにを言っているんだ? これは革新的だ。少なくとも精霊術師から出た発想とは思えない」
手放しで褒めてくる少年に対し、照れるよりも先に懐疑的になってしまう。
本当にそれだけの価値があるのだろうか。もしかして面倒になって適当な言葉で囃し立てている可能性も考えられる。
才能がないのを自覚している。いずれ精霊術が使えなくなる不安も抱いている。だからこそ精霊術が身近に置けたらと研究しただけ。
「問題は天の二大を利用する故に、室内での連続性を保てずに消失してしまうのが怖いのだろう?」
だが少年の指摘は的確だった。真面目にハリエットの研究に向き合い、言葉を出している。
「火の精霊では火災の発生率が上がる。純粋な光が必要だから、天の二大か。これは根本的な誤解が生じているな」
「……はい?」
「天の二大は光の精霊ではあるが、光そのものではない」
一瞬、言われた意味を掴めなかった。月と太陽は天空にて輝く象徴。
あれだけの威光を地上に降らしているのに、根本的に間違っているとは信じられなかった。
それは天球儀の仮模型を作っていたヤー達も同じだったらしく、作業の手を止めて振り向いた。
「どういうことよ?」
「月も太陽も派生の光なんだ。太陽とは燃える星、巨大な炎の塊なんだ。月はその輝きを反射しており、どちらも純粋ではない」
「では光とはなんですか?」
「波であり、粒子であり、目に見えない存在だ」
レオの解説はハリエットの混乱を深めるだけだった。光があるから視認でき、だからこそ光を目は捉えているはずなのだ。
けれど可視化できない光が存在するとなれば、それは一体どういう理論なのか。頭の奥が痛むほどの難解さだ。
「まあ我も純粋な光に関してはわかりやすく説明できるとは思っていない。つまりは精霊術で光を保持し続ける方法を考えるべきだ」
「は、はあ……」
「ならば天の二大ではなく、やはり火の精霊だ。太陽も結局は炎なのだから、それが燃え移らなければ問題ないわけだ」
「ええ。けれどガスが充満している場所に火を置くだけで爆発です。鉱山ではそれだけで被害が大きくなります」
「ならば断絶させればいい」
真空の檻を作って、炎を隔絶する。
消火でも真空を利用することで、空気に触れさせずに切り替えが可能。
水と地は使わず、風と火だけで光を調節。いかに効率的、かつ単純に設計するか。それこそ精霊術の知識が必要だ。
「……」
ただ、難易度が高すぎる。
基礎を構築するだけで間に合うかどうかの瀬戸際だ。
「なあに心配いらない」
気負いすぎて今にも潰れそうなハリエットに対し、少年は朗らかに微笑む。
「不眠不休で頑張れば前日までに理論構築できるだろう」
元聖獣は人間の基準をわかっていなかった。
ヤーとカロンは顔面蒼白なハリエットに同情し、密やかに合掌でお祈りした。
硝子。虹。光。泡。記憶の欠片は透明なのに鮮やかな色彩を宿している。
それを抱えた五歳の子供は、獅子の姿を確認してすぐに笑顔になった。
(にゃんこー! 大っきなにゃんこー!)
無邪気にはしゃぐミカが駆け寄ってくる。意識内部では獅子の姿であるレオは、これはお馬さんごっこの餌食かと緊張する。
獅子なのに馬役。しかも風の聖獣を思い出してしまい、唸り声をあげそうになるのを我慢していた。
だが子供はぴたりと足を止めてしまう。わずかに沈黙した後、いきなり顔をぐしゃりと歪めた。
(ははうえぇ……)
しゃくり上げ、目に大きな涙を溜めていく。レオが身構えるよりも先に、甲高い泣き声が空間に轟いた。
まるで雷が落ちたように泣き始めた子供を前に、獅子はうろうろと慌てる。全く対処法がわからない。
エカテリーナの姿は見えない。防衛機能として、役目は果たしたのだろう。いきなり子育てをしなくてはいけない父親になった気分だ。
(あー……その、なんだ。なにがあったか話してごらん)
なるべく優しい声で話しかけるが、大声でかき消されてしまう。吠えて対抗してもよかったが、逆効果だと予測はついていた。
子供体力が尽きるまで。耳鳴りで頭痛が起きるほどの泣き声を聞きまくったレオは、少しずつ喋り始めたミカの話に耳を傾ける。
(母上……どこにもいないの)
(死んだのだから当たり前だろう?)
元太陽の聖獣、痛恨のミス。
うー、とまたもや癇癪を起こしそうな顔のミカが、レオを強く睨む。
(会えるもん)
(どうやって?)
(視えるもん)
金色の瞳が輝く。精霊だけでなく、魂まで捉えてしまう才能。
毛並みが逆立つ感覚に、レオは思わず後退りしそうになった。下唇を噛んで泣くのを我慢する子供は、小さな手で獅子の鬣を掴む。
(にゃんこは会えないの?)
(……)
獅子の顔ながら、苦虫を噛み潰した表情になる。
(会えない……資格もないんだ)
(どうして?)
(……っ)
激しい頭痛。頭の中を強く揺らされて、握り潰されてしまいそうな感覚。吐き気と悪寒が全身を覆う。
上手く思い出せない。何度も試みて、その度に自己嫌悪と罪悪感で叩かれている。鮮明なのは絶望と死への恐怖だけ。
うなだれてしまったレオを見つめ、ミカは鬣を小さな指で梳いていく。
(視えて会えるけど……怖いひとがおおいの)
ぺたん、と座り込んだミカが途切れ途切れに話していく。
(信じてくれないの。そこにいるのに。うそつきだって怒られて、むしされちゃうんだ。でも視えないひとは逆なの。ちかよってきて、追いかけてくる)
鬣に触れている手が震えていた。
(母上に怖いっていったら、じゃあいつか連れていってやるって)
(いつか?)
(うん。命が……おわったらって。だから……どこにもいないの)
(そうか)
しばらく沈黙が続いた。何度も目元を擦るミカを眺めながら、レオは微妙な気持ちを味わっていた。
防衛機能としてのエカテリーナ。ミカが拠り所にしているだけあって、豪快という単語が似合う。
そのイメージが正しいのであれば、おそらくエカテリーナは死んだ直後に魂となってすぐに行動したのだろう。
金髪金目の豪快美女幽霊、それが城中の悪霊といった問題系統全部引き連れて行った光景が目に浮かぶ。
そしてミカの前に現れなかった。その気持ちがレオには理解できた。死んだ後も会える。それはきっと天に昇っていくことができない。
いつまでも傍で見守っていたいと願うだろう。レオが意識だけの存在として覚醒し、死に怯えたように。
(母上ぇ……会いたいよぉ)
堪えきれずに大粒の涙を零すミカ。その涙が記憶の欠片に触れては、不思議な音色を奏でていた。
水を入れた硝子を叩くような音が空間に吸い込まれていく。
(なあ、聞いてもいいか?)
(なあに?)
(ここが何処かわかるか?)
ミカの意識の内側。色味のない世界。あまりにも味気なく、無に近い。
どうしても目の前で泣いている子供には似合わない。だからこそ本人ならば理解できるのではないかと、尋ねてみた。
(……箱)
(他には?)
(強いよ! かんたんにはこわれない! それでね、んーと……)
少し逡巡したミカが、発条仕掛けの人形みたいにレオへと振り向いた。
五歳の子供が、急に十歳へと成長した。突然の変化に驚く暇もなく、子供が叫び声を上げた。
(う、わ、あ、ああ、ああああああああああああああ!?)
空間からミカの姿が消えた。レオが見た最後のミカは、恐怖に歪んだ表情を浮かべていた。朧な記憶の中で、同じ顔がある。
太陽の神殿でレオの意識が目覚めた時。死に恐怖し、認められなかった頃。意識の内部でレオがミカを消そうとした際の表情だ。
(――)
忘れていた。いや、思い出そうとすらしなかった。
ミカにとってレオは自分を殺そうと襲ってきた獣。五年間苦しめられた相手。
空間が狭まった。息苦しくなるほど、ミカの意識がレオを拒絶している。その意味を悟る前に、レオは目が覚めた。
忘却はまだ続いている。
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