第3話「五人の王子と二人の王女」

 秋風が涼しい昼。ミカは肩身が狭い思いを味わっていた。今、ユルザック王国の名城カルドナ中庭において、頼りになるヤーとオウガもいない状況。

 四人の男性が整えられた芝生の上に置かれた丸い机を囲む中に、ミカも加わっていた。机の上にはお茶菓子や紅茶が用意されているが、おいそれと手を伸ばせそうにない。

 特に真正面から睨んでくる男が一番敵意を含んでいるのだが、左斜めで腕を組む男も怖い上に、右横では咳が治まらずに吐血しそうな勢いの男。


「あの……俺、この場には不釣り合いかと」

「知っている。私も最初は反対した。余計な口を挟むな」


 ミカの言葉をねじ伏せる圧力を持つ男は第二王子ジョシュア・トロイヤ・ユルザック。御年三十一歳であり、西の大国と開戦したい勢力である。

 整えられた茶髪に強い意思が宿る黒い瞳。鷹のような印象が強い男であり、周囲の評判は上々。現在最も王位に近いと言われている。

 服も品のある茶色でまとめており、豊かな落ち着きと風格を感じさせる。ミカの目には若干灰色ながらも強く輝く魂が視える。形は丸というには少し角がある。


「そうだよ、黙れよ。正直視界に入れるのも気持ち悪い。なにその髪?目も。全部気持ち悪い」


 悪意満載ながら個人的な理由と因縁をぶつけてくるのが、第三王子ケルナ・ジュワ・ユルザックである。歳は二十七なのだが、大人げない。

 乱れた赤毛に、ぎらつきだけが酷い黄緑の目。親指の爪を噛んでいるせいか、指全体が深爪になっている。女中に八つ当たりすることが多く、周囲の評判は悪い。

 今回の貴族裁判にて断罪されるジリック家は、この王子を支持していた。緑色の服には婚約者の実家であるナギア家から贈られた宝石が輝いている。


「……」


 昔からミカに対して罵倒を遠慮なく吐き出してくるケルナに対し、ミカは反論を諦めている。相手すること自体が無駄なこともあると、目に視えている。

 魂が濁って黒く染まりつつあり、人を傷つけるために整えられた形、そして泥の奥底からでも輝く不気味な光。他人であれば絶対に関わりたくない類であった。

 今もミカの反論を利用しようと魂の色が淀んだ泥のように蠢いている。しかし嘘をついてないことも同時にわかるため、ミカとしてはなにも言うまいと聞こえない振りをするしかない。


「ま、ごふっ、あま、ごげほっふっ、あ。せ、せっかくの、ぜーはー、兄弟顔合わせ、ひゅっどふっ、げぼぁっ、なんだから……」


 咽り続けるのは第一王子トキワ・ガロリア・ユルザックだ。三十三歳という若い年代ながら、顔には既に死相が見えるほど青白い。

 黒の髪を肩まで伸ばし、黒い目は兄弟全体の顔を見回しているが、体力の限界で長椅子の上に体を横たえる。秋風の中に晒すには頼りない姿だ。

 ミカは心配しつつも、トキワの魂を視て目を細める。その間も咳が止まらず、どこかから現れた女中が横になった彼に白湯と薬を渡して去っていく。


「そうですよ、兄王子の皆さん。僕がミカの病状快復したとお見せするために呼んだだけなのですから。ミカは悪くないのです」

「ふーん、気に入らないね。ああ、気に入らない。だってそいつの半分はこの国でも、もう半分は違う国だ。この場には相応しくない」

「私はお前の言動が気に食わん。血など問題ではない。生まれも育ちも資質に比べれば意味はない。だが……それを重視する風潮が、こいつを特別にしていることが問題なのだ」

「ふー、はー、まあまあ。血は重要、がはっ、あ、うん、今零れたけど……血がないと生きていく上に不便だし、本人を証明する手段がはっ!!」


 睨み合い、牽制し、吐血し、怒りをぶつけ、喧嘩を売る。これがユルザック王国の次世代を担う王子達の近況である。

 いまだユルザック国王は健在。それでも何時、不慮な事故、突然の病、不自然な暗殺、などが起こるかわからない。それまでに誰が王位に相応しいか。

 有力候補である第二王子は人望が欲しい。第三王子は他の王子全てが邪魔、第一王子は病の問題、第四王子は水面下で進行している。


 この戦いに本来ミカは組み込まれない。王位継承権がない王子として、適当な貴族の娘と婚礼を進めるのが普通である。

 しかし残念なことに西の大国、そこで活躍する貴族レオナス家の血がそれを許さない。多くの貴族は西の大国に不信感を持っており、ミカを嫌っている者も多い。

 五年前から謎の人形王子状態となってからは奇病持ち扱いされ、そのせいで不当な噂も流れている。そのためミカに婚約者はおらず、今のところできる予定もない。


 とりあえずどうしてこんなことになったのか。ミカは必死に一時間前のことを思い出す。





 ユルザック王国の首都ヘルガント、名城カルドナの東端。小さなミカの部屋にて。十六貴族の一つ、東のベルリッツ家の娘クリスバード・ベルリッツ。彼女を輪に加えて、オウガに十六貴族について説明している時だ。

 勢いよく開かれた扉の向こう側。明るい笑みを浮かべる女性。ミカが懐かしい顔に声をかけようとする前に、駆け出す桜色のドレスが鮮やかな花弁のように舞う。

 ミカの眼前全てを隠す豊かで大きな胸。いきなりの闖入者に声が出ないオウガ、相手の胸の大きさに驚くヤー、そして入ってきた相手の素性を知るクリスが素っ頓狂な声を上げた。


「つ、ツェリ殿!?第四王子の婚約者である貴方が何故!?」

「愛しの弟に会いに来ただけよ。あ、もちろん義理の方ね。じゃないと可愛くないもの」


 ミカを胸元で抱きしめたまま嬉しそうな笑顔を見せる美しい女性、南の貴族ブロッサム家の娘ツェリ・ブロッサムは当たり前と言わんばかりにミカの頭を撫でる。

 既視感を覚えたヤーは思い出す必要もない、血の繋がっていない兄を頭に浮かべる。オウガは相手が戦闘もできない肉体と見抜き、落ち着いた様子で流れを見守る。

 ミカの侍女であるミミィやリリィも慣れた手付きでツェリのお茶菓子を用意し始める。ただ一人、クリスだけが混乱した様子で問いを続けた。


「し、しかし第五王子のお部屋に許可なく侵入するのは不敬かと……」

「大丈夫!私は昔からミカちゃんを可愛がっていたもの!どっかのブラコンのせいで自重させられた五年は苦痛だったわ!!あの腹黒ヤンデレ策謀王子め!!」

「王子をちゃん付けな上に暴言まで!?あ、相変わらずブロッサム家は自由な家風ですね……」

「海風、潮風、浜風、果てには荒れる嵐の暴風すら従わせる貴族!それこそ我がブロッサム家の誇り、ということで……ミカちゃん久しぶりねー!」


 台風のような熱烈さでミカを抱きしめて撫でまくるツェリの勢いに押され、クリスはどう返答していいか迷う中、ミカは抵抗すら見せない。

 ツェリは黒く長い髪をドレスと同じ色の桜色のリボンで一つにまとめ、黒く大きな目は愛嬌で輝いている。どこからどう見ても美女だが、内面と行動が少女のように気侭である。

 今もミカを抱きしめたまま踊るように部屋中を歩き回っている。ダンスというよりは、人形を抱きしめたまま回る少女に近い行動だが。


「ああ、もっとお話がしたいのに……あの優男風味王子が、他の王子を集めてミカちゃんの健康快復を祝う報告会をするとかなんとかで。しかも婚約者一同も集めてお茶会とか、いやぁあああああ!!考えるだけで気が重い!!」

「ということは、フィル王子にミカが呼ばれてるってことかよ?」

「あらやだイケメンが一人。そして美少女が二人。ミカちゃんたら、やるわね!その通りよ、真っ黒イケメンくん!」

「……ミカ、この人はいつもこうなのかよ?」


 呆れたように呟いたオウガの言葉に、ミカはツェリの豊かな胸元に顔を埋めたまま辛うじて頷いた。ツェリはミカの部屋で高水準に保たれた顔面偏差値に気分を高揚させている。

 ミカはなんとか苦心してツェリの胸元から離れ、服によって塞がれていた呼吸を取り戻すように何度も深呼吸する。額から汗まで流しており、数分は呼吸が苦しかったのがわかる動作だ。


「相変わらずツェリ姉上は明るいね。それにしても……俺が他の兄王子の前に出ても、嫌悪しか招かないと思うけど」

「私もそう言ってやったのよ!けどあの無駄に前向き王子は、大丈夫なんとかなるよお茶おかわり、とか言うもんだからカップ一杯分の茶葉を盛ってやったわ!!」

「フィル兄上……ええと、それで?」

「そうね、仕方ないけどあの男の言う通りにミカちゃんを動かすしかないのだけど……私には秘策があるのよ!!」


 誰よりも強い勢いでヤーとクリスの肩を抱くツェリ。いきなり対象にされた二人は、何事かと目を丸くする。

 花が綻ぶ微笑みに寒気を感じる。どこか矛盾しているような状況の中で、ミカを含めた多くの者が嫌な予感に身を震わせた。




 そして冒頭に戻る。ミカは居心地の悪い空間の中、魂が光り輝きすぎて真意が見えないフィルの言葉を延々と待ち続ける。

 できれば今すぐにでも部屋に戻り、待機しているオウガに歴史について教えたいのだが、王子達が一堂に会している状況では難しい。

 さらにフィルのせいで会話の中心がミカなのだ。いわば主役。その立場を軽々と投げ出しては、後々フィルの評価に影響を与えるのは間違いない。


「最近は魔人や魔素の確認、地方貴族の暗躍、果てには今年も異常が起きると噂されるほど、人民の心が不安に陥っているのは御存じでしょう」

「噂など流しておけばいい。人の口に戸は立てられぬ。それに……人は真実よりも噂を信じる。噂は都合がいいからな」

「ええ、嘆かわしいことです。残酷よりも享楽を信じたい、それは人間の本質です。ですが……それ以上に人は都合のいい英雄譚に憧れるものです」

「……なにが言いたい?」


 ジョシュアの射抜くように強い瞳に顔を映されても、柔和な笑みを崩さないフィル。二人の目に見えない火花を囃し立てるため、軽い口笛を吹くケルナ。

 普段から表立って争うのは第二王子のジョシュアと第三王子のケルナであるが、そこにフィルが介入することも少なくはない。多くの貴族が、この三人に注目している。

 というのも、今ミカの横で椅子に身を任せている第一王子のトキワは書類仕事もできないほど体が弱い。誰もが口を揃えて、十年前の流行病「国殺し」で死ななかったのは奇跡である、と嫌味を告げるほどだ。


「現在、西の大国で英雄と言えば歴史ある騎士団。レオナス家がその象徴……であるならば、その栄光を我が国で利用しませんか?」


 笑顔で告げられた言葉。ミカの頭は一瞬なにも考えられなくなるほど真っ白になる。遅れて、フィルの言葉を理解しようと脳が動き出す。

 しかし誰よりも速く理解したジョシュアが椅子を倒しながら立ち上がる。その次にケルナも机を両手で叩きながら立ち上がり、その衝撃でティーカップが倒れた。

 トキワもゆっくりと椅子から身を起こし、口元を袖で隠しながら咳き込む。ミカはただケルナのカップから零れてテーブルクロスを汚していく紅茶を眺めていた。


「正気か?」

「ええ。その上、本気です」

「頭おかしくなったんじゃないの?良い医者紹介してやろうか、愚弟」

「おや?ケルナ王子から弟扱いされるとは……初めてのことです。しかしながら知能指数に問題はありません」


 指先で頭を叩きながら嫌味を吐いたケルナに対し、フィルは笑顔で嫌味を返す。ミカは目の前で行われていることから目を背けたくなる。

 フィルの魂は常に形や色が見えないほど輝いている。それが今、目を潰しそうなほど光り輝いている。他の王子の魂が見えなくなるほどの輝きは、視ている側に痛みをもたらす。

 絶やされぬ笑みのまま、フィルは机の上に何枚かの書類を静かに置く。軽い音を立てたそれに、トキワが咳き込むことすら止めるほどだ。


「これは十六貴族の中でも当主だけが扱える蝋印。その数、九つ。半分以上集めるのに苦労しましたが……ヘタ村の件で、思わぬ功労を得ましたので成立しました」

「タナトス、ブロッサム、ジャイマン、アガルタ、ベルリッツ、ゲルテナ、エカイヴ……カルディナにトロイヤ!?馬鹿な!?」

「へぇ……ごほっ、これは凄い。よくぞここまで……げほっふふっがはっ、こほっ。まさか第二王子の実家からも印を得るなんて、これは驚いたよ」

「別に第五王子に王位継承権を与えろと言う訳ではありませんから。昔ながらの体勢を崩すよりも、別の役職で安定させる方が容易い物です」


 赤い蝋を溶かし、その上に押された各貴族の紋章。その数を揃えることで、フィルは企みを押し通そうとしている。

 金字の箔も押された羊皮紙。その内容にミカの方が倒れてしまいそうになる。しかしフィルがミカにとって悪い方に動くとは思えない。

 ジョシュアは唇を一文字に引き結び、ケルナは今にも癇癪を起しそうなほど顔を真っ赤にしながら胸の上を右手で押さえる。


「第五王子に、特務大使の任を与える……ね。つまり国で流れている噂が本当として、なにか問題が起きて第五王子のせいにされても、本人が解決できる仕組みの成立……ってところかな?」

「トキワ王子が咽ずに言葉を出した、だと!?」

「そこじゃない!!ぼ、僕は認めないぞ!!こ、っ、こんな……っぅ……うう……」


 胸元を強く握りしめながらケルナは蹲る。持病の癪が興奮したことで強い痛みを訴えていると理解した女中が、落ち着けるように薬と白湯を持ってくる。

 しかしケルナは差し出された白湯を片手で払い除け、整えられた芝生の上に撒き散らす。ケルナは下がっていろと八つ当たりのように叫び、涙目になった女中は逃げるように去っていく。

 口元を隠しながら肩を震わせて咳を止めるトキワに、予想外の展開に呆然としながらも表情を崩さないジョシュア、そして笑顔のままフィルも音もなく立ち上がった。


「もしも今年、国を揺るがすほどの事件が起きても第五王子が治めればいい。失敗したとしても……僕の評判に傷がつくだけ。貴方達には好都合でしょう?」


 王位継承権が与えられるのは第四王子まで。それは王子同士で切磋琢磨させ、大臣や貴族の評価を自分で得る術を身に着けさせるため。

 だからこそ十六貴族半数以上の印を集められた。自分が応援する王子のライバルが、自滅の道を辿ろうとしている。自分には関係ないことだと傍観したが故に。

 人形王子と呼ばれたミカにできることなどありはしない。だからこそジョシュアの実家でもあるトロイヤ家も印を押した。フィルが失策したとほくそ笑みながら。


 しかしジョシュアとケルナには都合が悪い。現在ユルザック王国内と西の大国で流れている噂、ミカにとって不利な流言は彼らは画策した物だ。

 お互いの国が敵視し、戦争に発展するように。目障りな第五王子が消えるように。五年間隔で起きる国を揺るがした二つの事件すら利用して広めた。

 確かにミカが特務大使に任命され、期待に応えられないようならばフィルの国王就任という芽が潰せる。だが万が一の確率でミカが成功を治めたならば。


 西の大国で英雄視されるレオナス家の血を継ぎ、国王の息子である第五王子が国を窮地から救ったならば。二つの大国を巻き込んでの英雄が生まれる。


 悪意ある噂は派手な英雄譚で塗り潰され、友好の証という形としてミカが重宝される。その時、誰が彼を引き立て、英雄の道を歩ませたか。

 ハイリスクハイリターン。国王になるかどうかの二択。それを第五王子を味方にしているフィルだけが取れる策。上手くいけば、西の大国の支持すら得ることができる。

 ジョシュアとケルナには信じられない行動だった。ミカなど利用するにしても、些細な使い道しかないだろうと考えていた。フィルのように大胆な乗り出しはできない。


「けふっ、こほっ、僕はいいと思うよ。責任は二人の王子が被る……一蓮托生になっただけなのだから……こっほふふ」

「う、ううっ……ふ、ふん!どうせ失敗に終わる!!うぐっ、ぜぇ、は、恥をかくだけだ!!」

「なるほど……貴族裁判すらも余興か。御苦労なことだ」


 王子の評価は王妃が嫁いだ順、実家の家柄、何番目に生まれたかなど、様々な要因が絡む。その中でフィルはあまり重要度は高くない。

 確かに国王の政務を助けることで地道な積み上げはしている。それでも最も王位継承に近いのは第二王子であるジョシュアという現実は変わっていない。

 一発逆転の鍵として、王位継承権がない上に他国の貴族に関連があるミカを選んだ。それは逆から見れば、フィルにとって他に事態を好転させる道がないと言っているようなものだ。


 それを見抜いたジョシュアはフィルに哀れみの視線を向ける。他者を頼ることでしか王位を継げない、そう表わしているようにしか見えないからだ。

 ケルナはいまだ納得していない様子で息を荒げている。最初の動揺を切り抜けたことにより、少しだけ落ち着きを取り戻せたが胸の痛みは消えない。

 トキワは再度椅子に体を預け、隣にいるミカの顔を眺める。誰よりも驚き、状況を理解しきれていない十五歳の少年にしか見えない、第五王子の顔を。


「それ、本人への説明義務果たしてから実行に移した方が良かったんじゃないの?ねぇ……げぼっごぼっがふっどばぁっ!!」

「トキワ兄王子!?さっきまで咽なかった反動が今来たせいで、俺に血が!!」


 頬にかかった生温かい血に、ミカは大慌てでトキワの背中を擦る。本人だけでなく見ている側にも心臓が悪い人物だ。


「大丈夫。ミカにも悪い話じゃないからね……特務大使に任じられた際、ミカには好きな人間を三人までお供にできるようにしてあげるから」

「……へ?」

「一般人、精霊術師、貴族……本当に誰でもいい。ミカが心の底から信じられる、傍にいたい相手を選ばせてあげる。ね」


 先程までの笑みとは違う、ミカにだけ向ける優しい笑みを浮かべるフィル。今度はミカにも伝わる内容であった。

 今はまだオウガやヤーは役職が曖昧なままミカの傍にいてくれる。しかし永遠にその状態は保てない。特にヤーは国の命令次第では離れることも多くなる。

 しかしミカが特務大使として任命され、その部下としてヤーやオウガを仕えさせることができたならば。公式に彼らをミカの傍に置くことが認められる。


「確かに国王になりたいけど、それ以上に僕はミカの素敵な兄でいたいからね」


 晴れやかな笑みを浮かべるフィルに対し、ミカ以外の三人の王子は胡散臭さを感じて言葉を失くした。




 また違う場所、城の中でも来客を想定した大広間にて、小さな机を囲む四人の女性に挟まれてクリスとヤーが辛い気持ちを味わっていた。


「というわけでぇ、婚約者同士でのぉ、お茶会始めたいのにぃ、だれぇ?そこのちっこいの達ぃ」


 語尾に含みを持たせてねっとりとした印象を与える赤髪の美女、第三王子の婚約者セラ・ナギアが大きな溜息をつく。

 青い目は常に潤っているように濡れており、黄緑色の肌蹴たドレスを着用している。今も暑いらしく、胸元を開けた形式の物を選んでいる。

 妖しい魅力を持つ美しさと、体中を彩るように輝く宝石と装飾が、彼女の実家であるナギア家の特徴を強く表していた。


「私が呼んだの。だってこの四人じゃ恋話じゃなくて愚痴話しかないもの」

「承認、理解、許可。不服、ない」


 ツェリの言葉に片言で対応するのは第二王子の婚約者ビスコッチ・ヘイゼル。溶けそうな美しさのセラとは逆に、凍りつきそうなほどの美人である。

 氷柱のようにまっすぐな銀髪に青い目。秋風でも用心に越したことはないと、厚手の栗色のドレスを着ている。首元も隠し、指先もわずかにしか見えない。

 表情も氷のように固まっており、長い睫毛だけが淡雪のように輝いている。極寒の土地では見失ってしまいそうな儚さなど微塵も感じられない、底力を秘めている雰囲気だ。


「では盛り上がらない女子茶会をさっさと始めて終わらせましょう」


 言葉の節々に若干の毒が感じられるが、悪意がないこともわかる言葉を放つのは第一王子の婚約者アリーア・ゲルテナだ。

 黒髪黒目の穏やかな容姿に、控えめながらも上品を忘れない灰色のドレス。髪も丁寧に結い上げられ、細やかな気品を感じさせる。

 お茶を静かに淹れる様子すら心静かな物で、格別な美人というわけではないが、他の三人に引けを取らない輝きをまとっている。


「あー!!わらわもはいる!!ほら、ねえさま!!」

「はいはーい。ツェリちゃーん、アタシ達も!!」


 そこに十歳にも満たない少女と、快活そうな外見の女性も乱入してくる。クリスとヤーはその二人を見てさらに仰天する。


 幼い少女は第二王女リャナンシー・タナトス・ユルザック。ミカの腹違いの妹で、クリスがお菓子を渡したこともある少女だ。

 黒の癖毛を苦心してまとめあげた髪型に、茶色のどんぐり眼は好奇心に満ちている。真っ赤なドレスを着ても可愛いと思える容姿だ。

 足音を立てながら走ろうとして侍女に怒られて頬を膨らませる姿など年相応で、これは可愛がるしかないだろうと思わせる魅力があった。


 快活そうな女性はかつての第一王女、今はエカイヴ家に輿入れしたペルシア・エカイヴ。かつての名前はペルシア・ブロッサム・ユルザックである。

 黒髪を動きやすく結い上げており、服装も動きやすさを重視した装飾の少ないドレスだ。青い目は母性に溢れ、今も頭の中では館に残してきた二人の我が子を思い描いている。

 現在は王族ではないため、気軽に城を訪ねることはできないが、旦那であるネーポムク・エカイヴが来城する際についてくるのだ。


「あ、お菓子くれた人じゃ!えっと……あの時はたすかったぞ。かんしゃする!!ほうびを取らせようぞ!!」

「いえ、そんな恐れ多い!!王女の空腹……いえ心を満たせたならばそれだけで……」


 リャナンシーに指を差されてお礼を言われたクリスは、恐縮した様子で頭を下げる。これではどちらが助けた側がわかったものではない。

 そして上から目線なお礼に文句を申し立てる者はいない。何故ならば現時点で一番幼い少女こそ、国の位として一番高いからだ。貴族が頭を下げる方が正しいのである。

 本来ならば御尊顔を拝謁するのも恐れ多いが、本人が嬉々として近寄って来ては受け入れるしかない。クリスは戸惑うが、ツェリ達などは慣れた様子だ。


「お?なんだいなんだい、面白い光景じゃないか。アタシも混ぜておくれよ!」


 そして通りかかった扉から顔を覗かせた女性が遠慮なく入ってくる。ジャイマン家当主、クヌート・ジャイマンである。

 服装はドレスではなく男性貴族が着るパンツスタイル。細身の外見に合わせて作られたオーダーメイドのため、すっきりした印象だ。

 赤茶を基調としており、同じ髪色と一緒に燃えるような鮮やかさを感じさせる。片手には酒瓶を持っており、部屋に帰って飲む予定だったのだろうと思わせる。


「えぇ?あなたがぁ?なんだかぁ平均年齢引き上げ中なぁ感じぃ」

「どんな女も老いるもんさ、宝石娘!ま、アンタは将来小皺だらけになる前に自殺しそうだけどね!!」

「あったりまえよぉ!醜くなるなんてぇ、耐えられない!」


 快活に笑うクヌートの言葉に力強く肯定するセラ。聞いているクリスやヤーは一触即発にならないかと、不安でいっぱいだ。


「うむ!それでは女子のおちゃ会なのじゃ!みなのもの、存分にたべてのもうぞ!くるしゅうない!!」

「貴方は誰に似ちゃったのかしらね。そんなばあやの口調を真似しちゃって……ウチだったら拳骨よ!」

「元第一王女の拳骨って貴重な気もするけど……ネーポムクさんもペルシア義姉さんに尻に敷かれてんじゃないの?」

「ツェリちゃん、男なんて尻に敷いてなんぼよ!それで喜ぶんだからいいのよ!第一王女の尻なんて御褒美ものよ!」


 ツェリの言葉に意気揚々と返事するペルシアだが、横で聞いているクリスとヤーは口を挟むことすらできない。

 冗談なのか本気なのかわからない会話、王族と貴族の女性が乱立した状態、お茶会という和やかな雰囲気は光の速さで消滅している。

 女性だけしかいない部屋の中、花が咲くような会話などなく、あるのは常日頃の相手への不満大爆発という爆心地だ。


「いやだからあの男に関しては政治的手腕しか期待してないの!ミカちゃんという一点においてだけ、共同戦線敷いているだけなの!!」

「認識、した。我も、堅物男、嫌い、否定。だが、優しい、ない。美形、無駄」

「アタシもぉ、あいつの持病の癪とか八つ当たりとかうんざりなんだけどぉ、次期国王候補でしょぅ?仕方ないのよねぇ」

「私は別に。例え羽虫より貧弱な病弱だとしても、吐血で毎日布団を汚そうか、愛していることに変わりはありません」


 惚気にも聞こえない一方通行にしかならない会話でも、女子というだけで通じ合えてしまう不思議にヤーは頭を痛めた。

 特に第二王子の婚約者であるビスコッチは片言でわかりにくいが、要するに堅物なのは嫌いじゃないけど優しくないから美形であるのは無駄、と言っているのだ。

 そんな婚約者たちの話を聞いて一人で大笑いしているのがクヌートで、同意するように頷くのはペルシアだ。リャナンシーはまだ幼いため、意味がわからずに頷きながら茶菓子を食べている。


「というか、クヌートさんは?若いツバメとか」

「アタシがぁ?五十のババアが今更色気づいたって気色悪いだけさ。アタシは独身でいいのさ……ま、来る者は拒まんけどね。去っても追わんよ」


 ペルシアの問いに意表を突かれたクヌートだが、いつも通りの飄々とした性格のまま自然体で答える。酒瓶を手の中で転がす姿すら様になる女傑だ。

 その姿にヤーは若干憧れ、クリスもカッコイイと惚れそうになる。ツェリを含めた婚約者陣もさっぱりしたクヌートの答えに思わず拍手を贈る。


「よくわからんが……わらわはミカにいさまと結婚するのじゃ!!これは王命じゃ!!」


 落ち着いたと思って紅茶を口に含んだクリスとヤーだが、突然のリャナンシーの宣言に盛大に吹き出すことになった。

 幼いながらも本気の意思を宿した少女の輝く瞳だが、外見の幼さから本来の意味を知らないのだろうと誰もが微笑ましい気持ちになる。

 ただしリャナンシーは向けられた笑みを馬鹿にされていると解釈し、眉尻を吊り上げながら声を荒げて怒り始めた。


「わらわは本気じゃ!ミカにいさまはかっこいいのじゃ!お菓子くれた者、きさまもわらわの絵で見ているはずじゃ!超かっこいいじゃろう!!」


 クリスは絵と言われて思い出す。そういえば黄色の人間らしき物が描かれた紙を貰ったのを。どうやらリャナンシーからすれば、超かっこいいミカだったらしい。

 隣にいたヤーは咽るように笑いを誤魔化す。子供の落書きで超かっこよく描かれたミカを思い出し、その落差に笑いを止めることができなかったのである。


「駄目ですよ、リャナンシー様。兄妹で結婚は無理です……私だって、できるならば腹黒王子よりミカちゃんが良かった!!ああでもミカちゃんに関しては妻よりも姉として見守りたい!!複雑乙女心!!」

「それってぇ、乙女というよりはショタコンじゃないのぉ?でもぉミカ王子ってぇ、お金的な魅力ないのよねぇ。家柄もあれだしぃ、アタシまじむりぃ」

「肯定。第五王子、婚約、無意味。意義、ない。結婚、自由。けど、覚悟、必須」

「しかし利用し甲斐があるかと。使い道はいくらでも。本当に……変な王子」


 散々な言われ様に何故かヤーとクリスが頬を若干膨らませる。確かに風変わりな王子だが、そんなに悪くないと大声で言ってやりたい気持ちがないでもない。

 しかし誰も間違ったことを言っていない上に、彼女達は他の王子達に最も近い女性である。その発言力は時に国を傾けてしまう危険性を孕んでいる。

 ヤーとクリスは口を閉じながら話の続きを聞いていく。リャナンシーも話が変わっていく内に、お茶菓子を口に入れることへ勤しんでいく。


「そういえば……なんか最近城内の動きが変じゃない?今日も料理長が自主的に退職したとか」

「辞職、自己責任。だが、確実、変化、ある。不可視、流れ、意図的、作る」

「どうでもいいじゃないぃ。どうせ王子達の画策でしょぅ……それよりも宝石産出についてとかぁ」

「いいえ、少々用心した方がよろしいかと。豚のように食べて寝るならば、家畜の方が利用価値があると思われないためにも」


 少しずつ、着実に、変化していく空気を察知して声を潜めていくツェリ達。その会話にクヌートは無言で耳を傾ける。

 王子の婚約者達は、相手が国王になった際の教育を常日頃から受けるために城に滞在している。そのため下々にも目を向けるように教え込まれている。

 だからこそ彼女達が怪しいと判断する時、それは確かに怪しいと言える。国王が国を管理する者ならば、王妃とは城を管理する者である。


 いずれ彼女達は第一王妃になるか、国王になれなかった王子の実家へ嫁ぐかの二択なのである。この前提は王子が生き残れたらとなるが。

 前王位継承の際に現国王以外の王子は皆戦死している。王子を愛していた者は尼として出家し、そうでない者は第二王妃以降となって国王に嫁いだ。

 どちらにせよ国を動かしていく立場であることに変わりはない。クヌートは冷静な様子で王妃候補である彼女達の話を信じる。


「そこらへんヤーちゃんはなにかないの?」

「へ?いや……アタシの方が城のことはわかりません。精霊も視た感じは普通です」

「アタシもだよ。ただ……たまーに水霊が偏って移動しているけど、あれはあそこに妖精でもいるのかい?」


 クヌートの鋭い指摘にヤーは思わず口を噤む。精霊は強い魂に惹かれる傾向がある。その精霊が肉体のない魂に集まると、妖精という形になる。

 現在、城内には氷水晶の神殿から連れてきたアトミスが自由に動き回っている。本人が姿を見せる意思がないならば精霊術師でも視るのは不可能だが、精霊は違う。

 妖精の内部にある強い魂に惹かれて、体の構成と同じ精霊が集まる。すると不自然な塊が浮いているように視えてしまうこともあるのだ。


「よ、妖精さんがいるのですか!?……こほん、失礼。妖精の類がいるのですか?」

「どうだろうね。ただミカ王子が引き寄せるからねぇ……ありゃあ一体どんな魂の持ち主なのか、興味は尽きないけどさ」


 思わず取り乱したクリスだったが、言い直すことで深く追及されることはなかった。そしてクヌートも微妙な顔をする。

 ミカの前世は太陽の聖獣、簡単に言えば妖精の格上である。その魂は常人よりも多く精霊を引き寄せ、時には精霊の一本川を作ることがある。

 クヌートは貴族でありながら精霊術師でもある。そのためヤーと同じくミカに集まる精霊を視ることが可能なのだ。


「王子ではケルナが少し視えるっぽいけど、ありゃあ駄目だ。霊感もあるらしくて、全部恐ろしくて怖がって敵意持ってるようだしね。この中でもヤー以外ならば、ツェリが少し視えたっけ?」

「はい。昔からミカちゃんが輝いて視えちゃうんで、どうしても目線がそっちに行くというか……眩しいし可愛いし、なんであのブラコン王子の弟なの!?私の弟でいいじゃない!!」

「ま、そこらへんは夫婦で話し合う形ということで流しつつ……ヤーは心当たりはないかい?アタシは水霊信仰だから、知り合えるなら得だと思うんだけど」

「その……妖精に関しては難しいかと。それにしても昔ながらの呼び方するんですね、クヌートさん」


 憧れの女性を前に少しだけ礼儀の良い口調になるヤー。ただし内心は説明するかどうか迷って冷や汗ものではあるが。

 地域や人によって信仰の形は違う。しかし東の領地は耕作で生計を立てる場所が多いせいか、水霊信仰が盛んである。クヌートもその類である。

 そしてツェリは船を扱う貴族の出であるため、風霊信仰である。このように精霊に属性を付けて略すのは、昔の風習であり、今ではあまり使わない。


「五十年前では普通に使ってた呼び方なんだけどね。そりゃあもう、水霊様、水蛇様、水龍様とか色んな呼び方があったもんさ」

「……水龍様は水の聖獣様のことですね。さすがは東の貴族、水を重要視していたわけです」

「うーん、でもベルリッツ家は風霊信仰だったね。といっても、あそこは乗馬信仰の方が正しいけどね!あっはははは!!」

「な、なんか我が家系は精霊視える人が少ないのです……うう、視れるならば視たかった」


 盛大に笑うクヌートとは対照的に落ち込んでいくクリス。生半可に精霊や妖精に対して憧れがあるため、色々調べていたことが発覚する。


「良いじゃないか、馬!走る、運ぶ、食える!どこでも大活躍さ!!」

「ええ!馬肉は美味です!しかし増やすのは困難なため、一頭一頭大切に育てていきますが」


 そして胃袋の話へと変化することにより、ミカの話題など竜巻に晒された枯葉の如く吹き飛び、最近の美味しかった物話になるのが女子会話である。

 チョコレートタルトやクッキー、焼き立てパンの魅力に取りつかれてしまえば、付け合わせのジャムや肉類はなにが良いか、空に浮かぶ雲のように元の会話の原型は消えていく。

 ヤーは妖精やミカの話が深く掘り下げられなかったことに安堵しつつ、なんの益もない女子会話に付き合わされて疲れ始めることになった。





 ミカの部屋に残されたオウガは小さな庭で、一輪だけ寂しく咲く黄色の薔薇を眺めていた。そろそろ霜の心配が出てくるため、鉢に植え替えるか思案していた時だ。

 後ろから歩み寄ってきた気配に振り向く。昔を思い出せば実の兄弟で、今となっては兄弟弟子の関係。いつも誰よりも他人を心配して、自分を置き去りにする男が立っていた。


「なんだよ?ミカならフィル王子に呼ばれていねぇよ」

「知っている。俺はお前に用があった……というよりはフィルに頼まれて、伝言を伝えに来た」


 顔がよく似た男二人は、向かい合う。かつての肉親とは思えない会話だったが、オウガだけでなく、姿を見せずに庭の空中に浮いていたアトミスも伝言に目を丸くした。

 伝え終えたハクタはそのままオウガに背を向けて去ろうとする。しかし背後から迫った闘気に体が反応し、突きつけられた拳に向かって、自らの拳をぶつけていた。


「アンタはいつもそうだよな……少しは兄弟子らしく、弟弟子に稽古でもつけてくれよ」

「……本気を出すぞ?お前相手に油断してたら、首の骨一つは持っていかれそうだからな」

「上等だ。首の骨一つと言わずに、体中の骨を狙ってやるから……本気で相手してくれよ」

「いいだろう。後悔するなよ、弟弟子!!」


 そして唐突に始まった兄弟弟子の本気稽古に、アトミスは大きな溜息をついてから別の場所へと移動していく。汗臭い光景を見るくらいならば、城に飾られている美術品を眺めた方が教養になるからだ。

 なにより心底楽しそうに喧嘩する二人の邪魔をする気にもなれない。少しだけ寂しさを味わいつつ、氷水晶の四枚羽を自在に動かして城内を飛んでいく。

 大きな回廊に様々な部屋。飛んで、歩いて、眺めて、それでも半分以下しか回っていないと思わせるには充分大きな城。アトミスにとって初めて見る城は堅苦しい造りをしている。


 堅強な石造りに装飾は最低限。華やかさを出そうと後世の人が美術品を飾っても、初代の味気のなさは滲み出ている。

 しかしアトミスはその無味無臭な内観が好きだった。氷水晶の神殿に長いこと住んでいたせいか、派手な物よりも落ち着いた気分で動くことができる。

 長い年月を経て壁には染みや補修の跡が見える場所もある。それすらもアトミスにとっては斬新だった。氷水晶ならば精霊術で直せるが、人の手で作った城はそう簡単に直せない。それすら面白かった。


 なによりアトミスにとって人が多く行き交うのは、かつてのウラノスの民達が神殿内を走り回っていたのを思い出すことができるので、今ではそれほど嫌いではない。

 絶対にアトミスは口に出さないが、動く人々を観察するのは好きなのである。馬鹿だと思うことも多いし、愚鈍だと呆れることもある。やはり猿なのだと貶すことも少なくない。

 それでも太陽の下で輝く人間の顔は、伝説であるウラノスの民と変わらないものだ。笑って、泣いて、怒って、誰かと触れ合っては不幸になることもあれば、幸福にもなる。


 生きているからこそ変わっていく、生きているからこそ変わらない。そんな風に思えたのは、太陽のように輝く金色に魅せられた時からだ。


 しかし素直に認めたくないアトミスはそのことを表現することはない。それでも目はいつの間にか金色を探していた。

 すると廊下の隅で動く影を見つける。堂々とあるけばいいものを、隠れるような動きである。アトミスはその人間についてはよく知っていた。

 食事を作る場所で働く人間だ。いつも偉そうに怒鳴っていて、猿代表とアトミスが勝手に決めていた愚劣な人物だ。誰かと話している様子なので、興味を持ったアトミスは近付く。


 だが、まるでアトミスが近づいたことを察知するように逃げていった。不可思議なことだと思いつつも、すぐに興味を失くしたアトミスは別の場所へ移動していく。

 人間の、言い換えれば猿の事情など知る由もないアトミスにとって、今見た光景がどれだけ重要なのかも知らないまま、気楽に忘れるのであった。

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