第9話「訪れる終わり」
泉に身を投げた女がいた。従者は自殺だと思い、急いで引き上げようと後を追う。
息を大きく吸い込み、そばかすが残る頬が膨らむ。縮れ毛の赤毛が濡れても気にしなかった。
ただ銀髪が美しい自分の主を助けようと、必死でミカミカミと勘違いした泉へと飛び込んだ。
しかし女はしっかりとした泳ぎで底まで辿り着いていた。自分の勘違いに気付き、従者は先に泉から出て火の準備でも始めようかと考えた。
その瞬間、静かだったはずの泉が渦巻き始めて二人を呑み込もうと荒ぶる。従者は手を伸ばして主の体を掴もうと足掻く。
従者の眼前で渦に抵抗できなかった女の口から透明な泡がいくつも零れ、腕から力が消えていった。
なんでこんなことになったのかわからず、従者も渦の勢いに押されて口から息を吐き出してしまう。
開いた口に何かが飛び込み、自分を内側から変えていく。心臓が食い破られ、それでも意識は鮮明なまま魂だけを引きずり出される。
身が裂けるなど生易しいほどの衝撃。気付いたら水底に二体の遺体が沈んでいたのを眺めていた。
穏やかになった水面を月が照らす。水鏡に映る姿は銀髪の美青年だ。
そばかすが残る頬も、赤毛の髪も、従者の面影はどこにもなかった。月の光を受けて輝く髪は大好きな主のもの。
思考が混じる。狂う。そして最後にはそれを正常だと受け止めていた。
石に主の思考を刻む。ミカミカミだと思っていたのに、それが違った事実。
ミカミカミとは何だ、この泉は一体何だ、何故主が死ななければいけなかったのか。
どうして自分だけが生きているのだろうか。なんで自分だけがこんなに苦しいのだろうか。無念だけがわだかまる。
生気のない蛙の瞳で銀髪の青年は多くの時間を泉の傍で過ごし、少ない時間を移り変わっていく森の外で費やす。
森が育ち、近くに村がいくつも出来上がり、戦争の末に国が形成され、西と東の対立や共存を目の当たりにしてきた。
その最中でもミカミカミを求めたが、なにも掴めなかった。噂で月と太陽の聖獣もミカミカミを探して哀れな最期を向かえたという。
銀髪の青年は嘲笑う。全てが意味もなく消えていき、死んでいく。天の二大精霊でさえ例外ではない。ミカミカミの前では全てが平等に無意味なのだ。
恋ではなかったが敬愛していた自分の主もその一つだった。それだけだったのだと、泉へと帰ろうとした。
道中、西の領地を預かる貴族の邸宅前。そこで記憶に最も残る女性を思い起こさせる姿の少女を見つけ、連れ出してしまう。
なぜか彼女を生まれ変わりだと思った。笑顔や目元がよく似ていて、銀髪でないのが残念だった。
だが自分の手を握って大人しくついてくる少女へと、次第に違和感を抱いていくのには充分だった。
主は自分の手を引っ張るような明るい女性だった。自分の意志を持った強い女性だった。
気が狂って勘違いしたのだと思った時には、森の一番近くにある村まで連れて来ていた。
だから置いていくことにした。紛い物を大切な場所まで連れていくなどできないからだ。
もしかしたら利用できるかもしれない。いつ使うかわからないが、駒はある方がいいと手懐けた。
そして主によく似た少女を懐柔して一年、自分と類似している男が村にやって来た。
外見が酷似しているわけではない。だが大切な主を引き連れて、守ろうと神経を張り巡らせている男だ。
人形のような少年の周りには惹かれて集まる太陽の精霊達。直感で強い魂の持ち主だと銀髪の青年は判断した。
その男と少年の周囲を嗅ぎまわっていたら、太陽の聖獣レオンハルト・サニーの生まれ変わりが少年であると知った。
さらにはユルザック王国の第五王子で、男は護衛の騎士ということも。一緒にいる少女が持ち前の知識で、銀髪の青年が把握したいと願っていた内容を次々と明かしてくれた。
時には気配を狂わせて傍に忍び寄り、主によく似た少女を使って状況を歪にし、そして男の目の前で少年を連れ去るのに成功した。
主を守ろうと必死な男の目の前で、自分と同じように主を失わせたらどれだけ痛快だろうか。
さらには少年からミカミカミの情報を引き出せたら、主の手向けになるだろうか。
叶えよう、どちらかだけでもいい。全ては主と自分のために捧げる、鎮魂の儀式。
死んだはずなのに、なぜ自分は生きているのだろうか。生まれ変わったのか、それとも死に狂ったのか。
判別できないまま銀髪の青年は突き進む。体が上半身だけになっても、蛙のように手を使って引き摺り跳ねながら。
少年の口からミカミカミについて聞くことはできなかった。どうやらレオンハルト・サニーの意識は表に出てこられないらしい。
ならば男の目の前でこの少年を殺そう。泉の水底まで行けば、自分の主と同じように溺れ死ぬだろう。
元から死んでいるのだ。心臓などどこにもない。あるのは瘴気で作られた体と魂だけ。だから剣で真っ二つにされようが動ける。
水底まで行けば豊潤な瘴気が自分の体を癒やすだろう。今も黒く濁った水の瘴気が体を再生していく。
最初は血を形成し、筋肉を組成し、皮を張り付けていく。あとは服を修復するだけ。両手は少年の体を抑え込む。
暴れているが、抵抗すればするほど口から空気が零れていく。左目の傷口も塞がっていたが、ふとした拍子に再度血が水の中に赤く溶け込んでいく。
水底に辿り着けば、泉が渦巻き始める。こうなれば少年などひとたまりもない。あとは男の目の前で嘲笑しよう。
自分と同じで主を守れなかった男として、同情しながらもその壊れた心を弄ぼう。少女が邪魔をしてきたら、それも殺害してしまおう。
そして最後の最後で男も殺そう。三人の体並べて泉に沈めて、それで終わり。村も大雨で終わり。主によく似た少女との関係も、これで終わり。
ああ、終わりとはなんて清々しい物だろうか。
泉から水が跳ね上がり、傷一つないフロッグが整えられた芝生へと優雅に降り立つ。
服すらも元通りなままでハクタの目の前で行儀のいい一礼をする。そして張り付けた笑みで口上を述べる。
「ああ!! なんということかっ!? 主を守る騎士の目の前で、王子は死ぬだろう! たった一人、冷たい水の底で!!」
それは舞台の上で場面の展開を説明する役者のように、言葉が胸のすみずみまで染み渡る。ヤーが絶望を目の当たりにした顔のまま、泉を眺めている。
赤黒く染まった泉は表面上は静かだが、水面下では激しく暴れ回っている。そのことで精霊が大きく乱れ、瘴気が濃くなっていく。地上にいるヤーでさえ息苦しいほどだ。
本能的に助けに行けないと感じる。たとえ命を投げ出しても助けだしたいと思っても、足が動かない。
剣が鞘に収まる音がする。ハクタは顔をわずかに俯かせたまま、棒立ちになっている。だが、体の向きは泉の方ではなくフロッグに向いている。
そして立ち昇る殺意が、闘気が、フロッグの顔を綻ばせるのに十分なほど満ちていた。もっと怒れと心の中で笑う。
主を失ったことを感じ取り、仇討ちとしてフロッグを斬る。だがその後はどうなるだろうか。悲しみに打ちのめされて、同じように泉の中に身を投じるだろうか。
そうしたら次の泉の従者が出来上がるだろう。繰り返し続ける、終わらない連鎖。まるでミカミカミの単語のようだ。
ミカミカミという単語もミとカを順に並べているだけだ。それだけなのに誰もがその正体を暴こうと必死になる。
名家のお嬢様も、天の二大精霊も、歴史上のあらゆる人物が、ミカミカミによって狂い続ける。
フロッグはそこまで考え、違う、と無意識に否定する。そんな物を主は求めたわけではないと。
銀髪が美しい主は豊富な自然資源を得ることで、いつか来るであろう未曽有の危機に対処できるように、人々の安寧を祈っていた。
だから色々な無茶をしてきた。コイン一枚で裏カジノ、竜が住まうと言われる洞窟での盗賊団と激突、荒波が襲う海を板一枚で乗り切ったことも。
それら全てが美しく、全てが憎かった。大好きな主はもういない。ミカミカミを求めて、死んでしまった。
付き添った従者も同じだ。今頃泉の下、土の中で主の遺体に寄り添うように永遠の眠りについているだろう。
狂い続ける思考に踊らされながらほくそ笑む。どうすれば目の前にいる男が狂うだろうかと。
やはり少女や男も殺すか。それともわざと死んで見せて、やり場のない怒りで身を滅ぼさせるか。
どれもが素晴らしい結果になるだろう。フロッグにとって成功と失敗は並列している。
男が死んでも自分は死なない。自分が死んでも自分は死なない。どうすれば死ぬかもわからない体。
終わらない生の中で垣間見える終わりに快感を見つけ、わずかに満たされては繰り返す。
満ちては欠けて、満ちて欠けて、満ち欠け、満欠、みか、ミカ、ミカミ、ミカミカ、ミカミカミ。
フロッグは知らず知らずの上に、無数に並ぶ答えの一つに辿り着いた。
勢いをつけて剣を鞘から抜き出して迫ってくるハクタに満面の笑みを向ける。蛙の目は忙しなく動いている。
上段構えで背中にいる大切な物を守る、という日頃から培ってきた剣の姿勢もかなぐり捨てた、目の前の相手を即座に殺すための戦法。
この男もようやく狂ってくれたかと、自分と同じ位置まで堕ちた存在にフロッグは歓喜した。
その横でヤーは考える。水面は赤黒く、底は全く見えないほどだ。ミカがどうなっているかもわからない。
瘴気が精霊術を狂わせる可能性があるなら、迂闊に手を出した方がミカに被害が出るかもしれない。しかし手をこまねいていてはミカは確実に死ぬ。
では精霊術を使わずに助けに行けるか。答えは否定の言葉しか出ない。なにもできないままでいるのが歯痒かった。
なにより助けようとする意志を挫くような、本能的な恐怖が体を震わせる。
フロッグの耳障りな笑い声と、ハクタの身を竦ませるような殺意がヤーの動きを止めていく。
これではミカを人形王子と馬鹿にできない、それが悔しくてヤーは一つの賭けに出る。
大きく深呼吸して、体を泉に向かって傾かせた最中。水音が一つ、破裂の如く響いた。
その少し前。
水面へと向かうフロッグの姿を揺れる視界に収めながら、ミカはなんとかできないかと渦巻く水中で抗う。
周囲には濁った光を浮かべる瘴気が今にも体を呑み込みそうなほど、激しく揺さぶって意識を掻き消そうとする。
さらに意識の中ではレオンハルト・サニーが死に物狂いで暴れ始めている。今までとは比較にならないほどの咆哮がミカの意識を襲う。
死にたくない、死にたくないと、二度目の死の恐怖で混乱しているようだ。意識下での姿、鬣を振り乱した獅子の姿で大口を開けてミカの肩口に食らいつく。
自分の意識で主導権を握ろうと、ミカの意識を消去しようとしている。橙色の瞳が血走って恐ろしい形相となっている。
意識での姿なので血が溢れることはないが、肉体が引き千切られるような痛みのせいでミカの姿が霞んでいく。
(レオ、止めろ! こんなことしたって、生き残るわけじゃない!)
(黙れ! 黙れ黙れ黙れぇえええええ!! 死にたくない、死にたくない、俺はもう二度と死にたくないんだぁああああああ!!)
聞く耳を持たないままもう一度、次は喉へと、食らいつこうとするレオの顎上下を掴むミカ。
その力は強く、少しずつ押され始める。前脚で先程傷つけられた肩口を圧迫され、鋭い痛みが走ったかと思えば、継続的に続いていく。
意識下で闘いを繰り広げる中で、体は人形のように動けなくなり、渦に身を任せる形で流されている。
(瘴気が身を蝕み、口からは空気が零れている! 時間がない、消えろ!! 消えてしまえ、人間の意識!!)
(……は、はは。レオは俺の名前さえ呼んでくれないんだな)
顔を俯かせて、ミカは少しだけ力を弱めそうになった。わずかに会話ができたと思えば、この仕打ちだ。
だがここで負ける訳にはいかなかった。たった十五年しか生きていない人間の意識だが、それを守ろうと必死になってくれた人がいる。
五年間、人形のような自分を見捨てずに待っていてくれた人達。腹違いとはいえ弟と優しく語りかけてくれる人。
自分でもわからないことを解き明かし、理解してくれた少女。美味しい食事や安らかな寝床を提供してくれた村。
そして奇病に冒された身ながら最後まで、泣き続ける自分の身を案じて行動し続けた母親。
ミカはずっと守られてきた。誰かを守ったことなど一度もない、弱い人間だ。
特別な才能があっても、高貴な血筋が流れていても、前世が偉大な聖獣だとしても、なにもできない。
だからこそミカは死に物狂いで変わろうと、自分自身がなんであるかを強く思い出す。
そして歯を食いしばり、レオの顎を少しずつ押し返しながら力強く答える。
(俺は……俺はミカルダ・レオナス・ユルザック!! 東の王国ユルザックの第五王子なんだぁあああああああああああ!!!)
叫びながら体を起き上がらせて、レオの意識体を弾き飛ばす。意識下での力は意志の強さ。同じ魂でも、意思が違えば別の意識として分離する。
だが千年以上培ってきた自分の意思が力負けするとは思わなかったレオは、弾き飛ばされて目を丸くする。
十五年しか生きていない少年が、聖獣の意思に抗うことができた。それだけでも驚きなのに、力強い金の目が自分の姿を捉えた時、強い震えが走るのをレオは感じ取った。
(俺だって死ぬわけにはいかない。だけど俺だけじゃあ、瘴気には勝てない。だから一緒に戦おう)
(……なんだって?)
(瘴気が元は精霊というのなら、俺の視る目がある。太陽の聖獣レオの知識と併せていけば、きっと解決の糸口が視えてくるはずだ)
そう告げてミカは意識を泉の方へと戻す。大分口から息が零れて今にも溺れそうだが、まだ時間はあった。
左目の傷から血が溢れるのも気にせずに両目を限界まで見開き、瘴気の細部まで見ていく。光の明滅を繰り返す水の瘴気は渦巻きながら闇を作っている。
光の明滅は不安定で、強弱の境目で闇が発生しているようだ。それによりさらに光の強弱の差が開いている。
それは精霊が狂って暴れ回っているようにも視える。ならば原因となる何かがあるはずだとミカは泉の中を見回す。
全くの別物となっている瘴気とはいえ、無尽蔵に溢れ出るわけではない。ただ精霊が凝縮されて狂い続けているという話だ。
光と闇、強い部分と弱い部分、もっとなにかないかと目を凝らしていく。同時に意識内部ではレオに問いかけていく。
なんで泉の中に人が入った途端に瘴気が渦巻いて襲ってきたのか。それまでは穏やかな泉が、豹変した理由とは。
レオは獅子の顔ながら器用に渋面を作り、精霊が強い魂に惹かれるならば、瘴気は強い魂を嫌うのではないかと口にする。
従者とその主の魂を視たミカは、もしかして、と昔話でも渦巻いて二人の命を奪った泉のことを思い出す。
さらにレオは弱い魂は取り込まれて、妖精に近い状態になるのだろうと、フロッグの印象を通して推察を続けていく。
瘴気を嫌っていたため、レオ自体も進行形で考えていくしかない。ミカの目を通して視たフロッグの魂は弱々しく歪んでいた。
その魂を包んで逃がさないように瘴気が形作っていた。あの瘴気を散らすことが可能になれば、フロッグの魂を解放できる。
つまりはフロッグの体構成を崩す。聖獣や妖精が精霊で魂を基に形作っているように、フロッグは瘴気で姿を整えている。
ただ物理的に干渉しても散らすことはできない。もっと精霊術のように瘴気を操る術、魔術が必要になってくる。
しかしミカには精霊術や魔術について一切合財知らない。なにより視る才能があっても、操る才能がないのだ。
ヤーのような視る才能も操る才能も持っている天才とは違うのだ。視ると、それを扱う技術は別物なのである。
どうしようかとレオが唸っている間に、泉に意識を向けていたミカは水底に鈍く光る物を見つけた。
それは目だった。暗く冷たい水底で妖しく輝く蛙の目。それを模造した宝石が土からわずかに姿を覗かせていた。
渦は宝石を中心に渦巻き、水の精霊はその宝石に引き寄せられているように見えた。
背筋が震え、手を伸ばすのも躊躇うほどおぞましい気配を感じながらも、ミカは宝石に触れた。
途端、レオが激痛に耐えかねて吼え立つ。ミカ自身も爪と皮膚の間に針を深く刺し込まれたような痛みに奥歯を噛みしめる。
鳥肌が立つような冷たくも鋭い痛みに意識が霞み、内部ではレオの咆哮に意識を奪われそうになる。
最中、頭の中に横切る光景に時間を忘れた。従者と主が泉にやってくるずっと前に、窪みを作って水が集まるような永続的精霊術の実験を試みた男がいた。
水と緑のない荒れた土地を、なんとか復活させようと考えた男だ。伝承にも残らないほど、大昔の話。
男は精霊術の陣を宝石の内部に刻み込み、常に宝石が水の精霊を集めるように細工したのだ。
そして目論見通りに水と緑が荒れた大地に復活したのを見て、息を引き取った。そこまでは良かった。
だが宝石のことは男以外知る者はなし。放置されたまま水の精霊を集め続け、いつかは瘴気へと転換するようになってしまった。
宝石に意思はない。だから止めることができない。精霊は狂い続け、瘴気は生まれ続けた。
そこに従者と主がやって来て、主の強い魂を嫌った瘴気が暴れ、二人の命を奪った。ただ従者の魂は瘴気に取り込まれてしまった。
この宝石自身も瘴気に囲まれている内に、内部に刻まれた精霊術が狂い始めているようだ。そしてミカの強い魂に拒否を示し、跳ね除けようとした。
しかしミカはここで諦めるわけにはいかなかった。なにがなんでもこの事件を解決し、王都に帰る。
人形王子である自分ではなく、ユルザック王国の第五王子ミカルダ・レオナス・ユルザックとして。
左目の傷口に瘴気が触れた時、ミカは内部に入り込んでくる魔素を視た。
自分自身の内部をすみずみまで犯し続けようと暴れ回る魔素。ミカは意思の力で、魂の力で、それに触れていく。
そして気付くのは左目の傷から魔素が入るなら、精霊も取り込めるのではないか、と。
あとはそれを扱う術を知りたい。だが知識も才能もない。ミカは改めて意識内部で吼え続けるレオに目を向ける。
聖獣は精霊で構成された高位の存在。精霊を集めて傷を修復することも、操る術も知っている。
これ以上の存在はいない。ミカはレオの声に負けないように声を張り上げる。五年もやって来た。今も対抗できる。
(レオ! 俺にレオの知識を渡してくれ!! 精霊や操るということ、そして分散のさせ方!!)
(あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
(魔素も狂っているとはいえ、元は精霊だ! なら扱い方の基礎は変わらないはず! 仕組みなら俺が視る!)
(あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
(大丈夫! 大丈夫だから、俺のことを一回くらい信じてくれよ、レオ!!)
(ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあああぁあぁぁぁぁ……み、か?)
(やっと、名前呼んだな。ならここからだ)
水音は大きく、ヤーは上を見上げていた。傾けていた体が仰け反る。
泉の水全てが跳ね上がり、細かい粒となって雨のように芝へと降り注いだ。集まっていた瘴気も精霊も薄く散らばっていく。
転がるようにミカが芝の上に着地し、血が出続ける左目の傷を左手でこすりながらも立ち上がる。
口から盛大に水を吐き出し、荒い息のまま顔を上げてフロッグを見据える。彼の者はハクタと水を圧縮して固体にした剣で鍔迫り合いを繰り広げている。
右手に持っていた蛙の目を模造した宝石。ゆっくりと歩いてそれをヤーに手渡しする。
「み、ミカ……アンタ、その目は一体?」
「目?」
震える指で宝石を受け取りつつ、ヤーはミカの左目を指差す。
右目は輝く金の目のまま変わらない。だが傷がある左目だけが精霊を凝縮した際に生じる光を灯し、まるで目から炎が立ち上っているがごとく爛々としている。
青い光がミカの目の色を覆い隠している。明滅する光は時に暗く、明るく、姿を変えていく。それは魔素と精霊が混じりつつも、共存しているかのように。
「あとで鏡を見るよ。それよりもヤーはこの石内部に刻まれた精霊術を止める方法をお願い!」
「はあ? 石内部に刻んだ精霊術って、そんな技術は歴史外に存在する神世の技術……」
「天才精霊術師だろ、頼りにしてる!」
そう言ってミカは改めてフロッグを見据える。さらにはその傍らで心配そうに成り行きを見守っている霊の姿も。
ハクタとフロッグも異変に気づき、お互いに距離を取ってからミカを視認する。そして左目に灯る光を見て、フロッグがあり得ないと首を横に振る。
フロッグの目に映るのは、瘴気と精霊の両方がミカの目に収束し、両者がバランスをとっている。
精霊の力が強くなれば、瘴気の力も強くなる。逆に精霊の力が弱まれば、瘴気の力も弱まる。
さらに瘴気が精霊に変化すると同時に、同じ量の精霊が瘴気へと転じていく。常に均等になるように循環している。
陰陽の理、という単語を思い出すフロッグ。主と旅をした時に、東方の地にて知った森羅万象に携わる者達が教えを受けていた際に出てきたものだ。
水が濁流となって命を奪っても、いつか海に辿り着き、空へ還り、雨粒へ変化し、清流へと辿り着いて、命を育むように。
全ての物は循環していながらも、別の面を持ち合わせ続ける。闇の傍に光があるように、生から死へと向かうがごとく。
なぜミカの目を見てそんなことを思い出したのか、フロッグ自身もわからないままだ。
「精霊は元素、瘴気は魔素、つまりは二つとも同じ素粒子なはず、っていうのが俺の考え」
「そ、りゅうし?」
「粒よりも小さい全ての
ハクタの疑問に答えているはずのミカだが、その顔は苦笑いで少し困惑している。
だがしっかりとした足取りでフロッグがいる場所へ迷わずに歩いていく。人質としては好都合なのに、フロッグ自身が後退りしている。
「だけど瘴気や精霊と捉えるよりも細かく、鮮明に視れば……どっちも同じ物なんだよ。あとはレオの力を借りて、二つを操る」
石内部の精霊術を消そうと頭を動かしているヤーは、耳に届く内容に気を取られそうになる。
確かに魔素は精霊が変化したせいで異物に変わっているが、元は同じ素である。だが素を扱う技術など聞いたことがない。
人が認知している歴史よりも以前の、歴史外と言われる世、神が地上に降りていた頃の神世時代ならあったかもしれないが、今では証明の仕様がない。
もし素を扱う術が実在するとしたら、それは人間の手には負えない。少なくとも視ることができない物を扱えというのは無茶な方法だ。
それは最早魔術でも精霊術でもない。もっと原始的で神秘に対する挑戦。だがミカの左目はそれを証明するかのように光が灯っている。
ミカの意識内部では太陽の聖獣であったレオが苦戦していた。精霊を操るとは呼吸をするのと変わらずにやってきたことだ。
しかしその根源を操るという所業は、呼吸の最中で体内部に入れる空気の質を意図的に変えろ、という無茶な内容である。
ミカの優秀な才能によって細部まで視えるとはいえ、骨が折れる話だ。
だが同時にレオは当たり前だと思っていた物の奥深くに触れ、恐れていたはずの魔素の正体が精霊と変わらない事実に気付く。
同一であるならば、それをどう変換していくか。太陽の日照を変えて猛暑を、時には厳寒を。太陽を司っていた聖獣にとって変化させるというのは当たり前のことだ。
ならば期待に応えなければいけない。自分を殺そうとした獣相手に、一緒に戦おうと宣言した人間の少年、ミカのためにも。
「ハクタ、俺のこと守ってくれ!」
「言われずとも、わかっている!」
駆けだしたミカを庇うように前に出るハクタ。目指すは怯えた目でミカを見ているフロッグ。
慌てて泉に戻ろうとフロッグは体を反転させるが、泉は先程ミカが出てきた際に全ての水が消えて、窪みしか残っていない。
泉を雨から守るように結界を張っているのはフロッグではなく、蛙の目を模造した宝石である。
大雨は泉に注がれることなく、溜まっていたはずの瘴気もいずこかへ消失している。
フロッグは迫りくる気配に肩を震わせながらも、振り向く。そこには頭上高くに剣を掲げたハクタの鬼気迫る姿。
だが胴体ががら空きだと水の剣を脇腹に突き刺す。再度抜いて、もう一度攻撃しようと剣を握っている手を引くが、少しも動かない。
脇腹の筋肉で剣を固定されたと気付き、慌てて水に戻して芝にばら撒く。生まれた一瞬の動揺と武器を持たない状態。
口からも血を吐き出しつつ、ハクタは勝利を確信した笑みのまま剣を振り下ろしていく。背中にある物を守る剣術を思う存分披露して。
迷いなき一直線の太刀筋によって、鉄の剣はフロッグの体を縦に引き裂く。同時にヤーが石内部の精霊術を止めるのではなく、石の内部に刻まれた精霊術陣を壊すため、土の精霊で結合破壊の精霊術を使う。
蛙の目を模造した宝石が砕けた。だがフロッグは死なない体をくっつけようと腕を動かす。その腕をミカが捕らえる。
ハクタの背中に隠れて守られていたミカは裂けた半身に指を伸ばし、青い光が灯る目の輝きを強くしながらレオの操る力を行使する。
ミカが触れていた部分からフロッグの体は細かい光の粒となって空中に霧散していく。残った半身は、片目でその光景を眺め、安堵した。
ああ、こうやって死ぬことができたのかと。訪れ始めた終わりに、なぜか安らかな気持ちを抱く。
ハクタが片手で脇腹を押さえ、地に膝をつく。急いで傷を塞ごうとヤーが駆け寄る中、ミカは芝の上に倒れたフロッグの半身を眺めている。
泉を中心に展開していた結界は宝石が砕けた時には消え、大雨も今では小雨に変わりつつある。じきに雲も薄れていくだろう。
わずかに太陽の光が雲を突き抜けており、今が暗い夜ではないと告げていた。
「……殺してください。私はもうそれだけでいい。これで主の後を追える」
憑きものが落ちたような顔で神妙に呟くフロッグ。その目はもう黒い雨雲しか見ていなかった。
あれだけ好き勝手やっておいてそれかよ、とハクタが思う眼前でミカが自分の横を指差す。
そこにはなにもいない。ヤーとハクタにはそう見えているが、ミカには違う物が視えていた。
「今は水の精霊と瘴気の力を借りているけど、太陽があるなら……レオ、お願い」
ミカは左目を一回瞼で閉じる。すると目に集まっていた青い光は空中に消え去り、次に瞼が開いた時は金色の光が橙色を含ませつつも輝いていた。
それが太陽の精霊だと視えたヤーはなにをするのだろうと注視する。レオと言っていたのなら、太陽の聖獣の力を目の当たりにできるということだ。
小雨すらも止み、雲の隙間から光の柱が地面に降りてくる。そしてミカの横に光の柱が出来上がると同時に姿を現す一人の女性がいた。
銀髪の美しい女性だ。目元や浮かべた笑みが宿屋のマリを彷彿とさせる。
足は地についておらず、体も金色の光に包まれている。ヤーはそこで何が起きたのか理解した。
だがハクタは急に現れた女性に警戒の目を向ける。なにかあれば斬るつもりで剣を取るが、ミカが片手で制止する。
「あ、ああ……ある、じ……いえ、セリア様」
「フロッグの傍にいたよ。心配で俺に助けを求めるくらい、ずっと。今はレオの力で擬似的な妖精として姿が見えるようにしたんだ」
妖精。強い魂に精霊が惹かれて集まり、姿を持つ。彼らはハクタのような視える才能がない人間にも捉えることは可能である。
だがそれには妖精自身が姿を現していいかという意識の問題があり、滅多に見つけられない。それが今は仮とはいえ視界に映る。
セリアと呼ばれた主は、こうやってずっと従者の前に立ちたかった。泣きそうになるのを抑えて、笑顔で従者の残った半身に触れる。
日向のように暖かい手が自身の真水のように冷たい頬を撫でる。フロッグは申し訳なさそうに顔を歪める。
だがセリアは気にとめず、親愛の口づけを額へ。それすらも暖かくて、従者は透明な涙をこぼす。
「す、みま、せん……貴方が傍にいたことも気付けずに、従者失格です……」
「いいのよ。さあ、空に還りましょう。体は地に、魂は天へ……王子、お願いします」
「うん。わかった」
ミカはもう一度瞬きして、光の色を変える。どこまでも澄んだ青い光が目に宿り、フロッグの体に手が触れれば、瘴気が空気中に融けていく。
そして残ったのは弱くて小さな輝きの魂。それが視えるのはミカとセリアだけで、ヤーとハクタの目にはフロッグが消えていなくなったということだ。
セリアはその魂を胸に抱き、光の柱を階段にして昇っていく。金色の体は一時的なもので、昇天と同時に薄れていく。
だがミカの目には主に引っ張られて嬉しそうに付き添う従者が視えていた。赤い縮れ毛にそばかすが残る頬、従者本来の姿だ。
仲良く手を繋いで二人は自由な姿で浮かび上がる。そして青い空よりも先に進んで、見えなくなってしまう。
雨雲も薄れて少しずつ風に流され、太陽の明るい光が水に濡れた木々を照らしていく。鮮やかな緑と湿った土の匂いが鼻に届く。
「こ、れで……事件は、おわ、り……」
「ミカ?」
「あ、あとおねがひ……」
空を見上げていたミカは眩暈を起こしたかのように、体をふらつかせて倒れる。
地面にぶつかる寸前でハクタが受け止めるが、その際に脇腹の傷が開いて血が流れ、ヤーに怒られる。
精霊術で念入りに傷口を塞いで、ハクタがミカを背負いながらも三人でヘタ村がある場所へと向かう。
ミカミカミについて刻まれた石板は、三人の姿が見えなくなった後に崩れた。文字すらも読めないほど、風化した様子で。
砕けた宝石も砂粒として地面の一部になる。整えられていた芝も伸び方を思い出したように、勢いよく背を伸ばしていく。
そして泉であった窪みの底にはわずかに水が溜まっていた。今度は意図的ではなく、自然の営みで集まった普通の水である。
時を止められていた二つの遺体も、いずれ土に消えていくだろう。その頃には泉も元の形へと戻り、花が咲き乱れるだろう。
森では新しい命が育まれ、動物たちが餌を求めて集まり、村人達が狩りに勤しむ。
そして従者と主の話は、時と共に形を変えて語り継がれるだろう。
二人の神様がこの森を見守り続けているから、と。
これも一つの
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