EP0×Ⅷ【檻の巨人《cage×giant》】

 ティオとヒルデを無理矢理連れて、ノアは奴隷島内部へと潜伏する。電気が通った薄暗い廊下は白く照らされているというのに、寂びた鋼鉄のせいで薄汚れた茶色が目につく。配管の上を鼠達が走り、埃を立てた。

 異様だった。整備はされている。しかし人の気配はない。四角い通路の隅に埃の山は掃除が行き届いていない証しだ。要所は整えられていたが、それ以外にはまるで人の目が届いていない。

 生活感もなかった。ノアは逸る気持ちを抑え、早足で通路を進んでいく。上でユーナ達が派手に暴れているのか、邪魔をしてくる者はいない。ヒルデは観光客のように視線をあちこちに巡らせていた。


「受付嬢はここに来るのは初めてなのか?」

「は、はひぃ!? え、あ、はい。普段は島の試用宿で仕事し、寝泊まりも中央の館に与えられた部屋で過ごしています」


 声をかけられた驚きで前半は間抜けな声を出したが、後半は気を取り直して仕事ができる人間の如く冷静沈着な声で答える。そんなヒルデには少し懐いたのか、ティオは彼女の横でノアを追いかけていた。

 歩いているだけで方向感覚が狂っていくような網目構造。曲がった先にはすぐ二股の道もザラだった。時には梯子で階下に降りたと思えば、目の前に上り階段が用意されていた時は苛立ちそうになった。

 確かに従業員を住まわせるには向かない場所とは考えつつ、これでは売買ギルド【コンキスタドール】のギルドメンバーも迷ってしまうのではないかと怪しむ。案内掲示板もなく、目印も置いていない。侵入者を防ぐにはうってつけとはいえ、あまりにも複雑すぎる。


「お前を雇った奴の顔は憶えているか?」

「はい。ロキさんです。島の業務全般はロキさんとその配下で行われています。ギルドリーダーに挨拶するのが礼儀だとは思ったのですが、お忙しいようで……まあ会う勇気もなかったんですが。怖いじゃないですか、奴隷商人のボスとか」


 最後は小声で本音を呟くヒルデだが、ノアはいらない情報だと聞かなかったことにする。ある意味処世術とも言えるが、今の状況では何の役にも立たなかった。しかしこれでノアが予測していた内容はほぼ当たった。


「ギルドリーダー不在のギルドか……百年以上前からそうなのかもな」

「何か仰いましたか?」

「いや。走るぞ、はぐれたくなかったら全力で追いかけてこい!」


 誤魔化すようにノアは進む速度を上げた。複雑すぎる内部に困惑していたヒルデとティオは、離ればなれになってしまえば二度と地上に戻れないことを強く意識していた。会話もできないほど必死に走り始める。

 五分後。見覚えのある道だと気付いたノアが足を止めた。三叉路であるが故、印象に残っていたのである。この調子では迷った挙げ句、力尽きる可能性が大きい。その前に地上で元凶を始末できたら良いのだが、そんな楽観視は時間の無駄だった。

 舌打ちし、ノアは自らの胸の上に手を置く。深呼吸し、頭の頂点から汗を流しながら指先に力を込める。黒衣の服から零れ落ちるように、漆黒の炎が姿を現す。炎と言っても光は放っておらず、不安定に揺らめいている。


「だ、大丈夫ですか? お辛そうですけど……」

「心配するな……俺の魔力の源を一部剥がしただけだ」

「はぁ……あの、わかります?」

「う……ううん。あの、ユーナっていう人なら理解できたかもしれないけど」


 ヒルデに問いかけられたティオは静かに首を横に振る。ユーナのこともよく把握していないが、ノアに関しては不明な点が彼女より多すぎた。だが問い詰める気力どころが、関わろうという気概もティオにはなかった。

 顎から汗を幾つも垂らしながら、ノアは漆黒の炎を床に置く。すると鋼鉄が一瞬で砂に変わった。足場が喪失したとヒルデとティオが気付いたのは落下が始まって数秒後のことだった。

 落ちていく途中でノアがヒルデとティオの体を抱え、自立して進む炎を追いかけるために走り始める。炎は目の前にある壁も砂にし、頑丈な鍵がかかっている扉さえ無効化していく。


 人では出せない速度で疾走していくノアに対し、ヒルデは気を失ってしまおうかとも考えた。気絶を理由に不法侵入の罪に問われない算段も見積もったが、視界の色が変わったことに計算も忘れた。

 錆びた銅の色から黒く。明かりも電気から蝋燭に。まるで洞窟の内部へと入っていく感覚に恐怖心が膨れ上がった。しかし抵抗したところで勝てはしないこともわかっており、用心深く周囲を観察すると心に決めた。

 足音から鋼鉄であるのは間違いない。それでも壁は一部抜け落ちていて、そこから見えるのは赤黒い肉。脈動している肉壁を見て、改めて泳ぐ鯨の内部なのだと思い知らされる。


 生きたまま改造されている。考えるだけで吐きそうだったが、目を逸らすのはヒルデの得意技だった。全てを承知で働き続けてきたのだから、今更同情など意味をなさない。次に聞こえてきたのは歯車の音だ。

 蒸気によって歯車が動き、それに噛み合っている他の歯車が連動している。そうやって島全体が蒸気機関によって補われ、檻が夜には鯨の体内に収納されるなどの基盤ができている。

 だが現在、歯車の動きが激しく稼働していた。そのせいで内部全てが軋むような音と振動が体を震わせている。音だけで体内部を揺らされているようで、三半規管が痛みを訴えていた。


 耐えきれなかった蒸気管からは熱を持った蒸気が噴き出し、掠るだけで肌が赤くなる。ノアは抱えた二人を気遣い、器用に蒸気を避けて走り続けていた。時には魔術で空気の壁を作り、一歩でも早く進もうと集中する。

 ティオは目の前の蒸気機関構造に見惚れていた。滑車の連動技術と似ているが、それとは異なる緻密さによって巨大な鯨に組み込んでいるのだ。歯車一つ欠けるだけで全てが崩れてしまうような危うさに、少しだけ羨ましい気持ちが芽生える。

 歯車にもなれない人生を送ってきた。誰のためにもならない、奴隷として生きてきた。自ら動くことに怯えて、痛いのが嫌で体を丸めて耐え続けた。ティオが消えても、誰も困らない。代用品すら必要としない、使い捨て。


 ティオは少しだけ憧れた。歯車になりたい。一瞬でも良いから、なにかを動かせる人間に変わってみたかった。必要とされる存在として生きてみたい。

 青年の密やかな感情など関係ないように、ノアは最奥へと辿り着いた。重厚な扉も砂となって消え去り、黒い炎は役目を終えたと言わんばかりに掻き消えた。魔術で新たに光球を部屋の天井に浮かべたノアは、言葉をなくした。


 骨の山。人骨で作られた椅子、机、そして祭壇。


 よく見れば腐った肉や皮は見当たらない。骨の劣化が激しく、足で踏むだけで脆く崩れてしまった。これには流石にヒルデとティオが揃って悲鳴を上げ、ノアから離れてお互いの体を強く抱きしめた。

 ノアは愕然としつつも、足下に落ちていた木の板を拾い上げる。紙では頼りなかったのか、そこには手記が刻まれていた。やや古い文法であったが、各地を旅行していたノアはなんとか読むことができた。


「ここは……緑魔法による召喚を試みたようだ。どうやら売買ギルド【コンキスタドール】は獣面族を倒した後、奴隷としての扱いに困っていたと書いてある」

「そ、それって何百年前の話ですかぁ……ひぃいん」

「ギルドに所属していた魔導士は奴隷商を行うために、強力な助っ人を早急に用意するべきだと訴え……メンバーの数人を生贄に、魔方陣を作って喚んだらしい」

「な、なにを!?」

「……騙すのが得意で、味方には有益をもたらす……悪知恵が働く存在」


 読み進めていたノアだったが、言葉を切る。衝動的に持っていた板を床に叩きつけ、肩で息をする。


「そういうことか!! 乗っ取られていたんだ!! 道理で人間の所業から外れているわけだ……人間ではなかった!! 売買ギルド【コンキスタドール】は遙か昔に壊滅して、名前だけが利用されていたんだ!!」


 その事実にティオとヒルデは息を呑む。だがノアの言葉は止まらなかった。


「この島全体の蒸気機関、奴隷達の恨みや怒り、大航海時代から続く怨嗟、売買ギルド【コンキスタドール】の命全て、檻にも刻まれていた文字自体が魔力を持つルーン文字!! 全てはが動き続けるための糧だった!! 奴隷は……俺達は餌だったんだ!!!!」


 悔しそうに壁に拳を打ち付けるノア。鋼鉄の壁を突き抜け、赤黒い肉に届く。手が鯨の血に染まっていくのも気にせず、奥歯を強く噛みしめる。突き止めた真実は予想以上の内容だった。

 しかしティオは聞こえてきた内容やノアの大声に驚くことはなかった。確かめるように聞き返す。


「俺達は……?」

「……」

「間違いだったら……ごめんなさい。もしかしてだけど、そうなの?」


 恐る恐る尋ねる。奴隷のままであったら鞭打ちを怖がって口を閉ざしていたが、今だけは好奇心が勝った。わずかに覚えていた違和感が形になっていくようだった。奴隷に対するノアは、ティオにとってどこか親近感があった。

 嫌悪する態度はまるで、自らがそうであったかのような。


「……ああ。俺も、お前と同じだった」


 返ってきた答えに、ティオは納得した。しかし横で腰を抜かしたヒルデは絶句していた。


「俺はこの島にいた……そして死んだ。死ぬはずだった。けれど俺の怒りが……恨みが、正義が!! 死ぬことを許容できなかった!!」

「怒りと……正義?」

「話しすぎたな。この悪趣味な骨の家具は悪戯心で作られた意味のないものだ。使うべき家具を使わない、家具に使わない人骨を使う、多重に皮肉を効かせて気持ち悪ぃ」

「ということは、どうなるんです?」


 理解を放棄しかけているヒルデは、とりあえず率直な答えを求める。だが彼女の言葉を合図とするように奴隷島内部の蒸気機関が悲鳴を上げた。大量の蒸気によって動かされていた歯車が稼働に耐えられず、音を立ててひび割れ始めたのだ。

 同時に大量の魔力が生産されて吸い上げられているのをノアは感知する。内部の蒸気機関が崩壊しても良いほどの行動を起こすつもりかと、ノアはもう一度ティオとヒルデを抱えて走り始めた。

 骨の山があった部屋は崩れ、落ちてきた鋼鉄製の歯車を避けながら出口へと突き進む。しかし侵入の時点でも迷い、崩壊によって選べる道の選択が狭められている状況。魔術を使うにしても、どう対処を施すかと思考に一瞬の隙が生じる。


「う、上!!」


 ヒルデが金切り声を上げた。天井から配管が折れ曲がり、数多の歯車を潰しながら押し寄せてくる。降り注ぐ鋼鉄の塊を前に足を止めた瞬間、床が崩れ落ちた。赤黒い肉が巨大な口のように三人を呑み込む。

 落ちていく最中、ノアは手を伸ばしていた。まだ終われない。そのために少女の魔導士を巻き込んだのだ。ロンダニアを向かおうとしていた彼女を引き留めて、復讐を遂げる目的が残っている。

 自嘲する。まさか間際で思い出したのが生意気な少女だったなど。昔なら考えられないことだった。口元を歪めたノアは握り拳を作る。地上で暴れているであろうユーナを脳内で強く思い描きながら、胸の奥で燃える炎を意識した。







 巨大な檻。島の各地点から聞こえる騒ぎさえ気にならないのか、中に入っている巨角族のバルドルは項垂れ続けていた。潮風によって馬の鬣に似た赤い髪が揺れる。体格に合わせて毛髪も大きくなっており、森の葉擦れに近い音を立てていた。

 隣の三段目の檻。その中で獣面族の青年ルーフェンは尻尾で檻の床を叩いていた。ようやく待ち望んだ機会が到来したというのに、島の奥にある檻に配置されたせいで騒ぎに加わることすらできない。

 親の顔や死に目すら知らない。わかるのは奴隷として生まれてきたと笑われた無礼。侮辱された。許せない。必ず爪と牙を立てて、反逆者としての証しを残してやる。荒々しい夢を抱きながら呼吸を続けてきた。


 檻から出られないならば、この島が沈んでしまえば良い。見る影もなく崩壊して、海の底に消えていく。その方が清々すると、檻の前を通りかかってきた者達に問いかけてきた。破壊できるのかと。

 前日の魔導士と思わしき少女……老女と呼ぶべきか、に問いかけた時は芳しい返事は来なかった。しかし好機が訪れたと言うことは、必ずきっかけが存在したはずだ。ならばあの紫の毛並みが蒸気で作られた霧の向こうから現れるだろうとルーフェンは目つきを鋭くする。

 そしてルーフェンの期待通り、紫が霧の中に浮かぶ。ただし青年の狼の耳が激しく動く。悲鳴と、怒号。それに負けない金属が擦れる音と爆発。果てには蒸気の中を蠢く巨大な黒い影。


「どうなっていやがりますのよ!? こんなの聞いてませんわよ!!」

「お嬢さん、もっと速く! 僕は蠅より遅くしか飛べないんだ!」


 聞き覚えのある声。一人は予想通りだが、もう一人は羽虫族のパックだ。かつては檻が近くで、背中から生えた羽根が出す音よりもやかましい口先に辟易した覚えが沢山。そんな声や音が近付いても、バルドルは一切反応しない。


「おい、猿面魔導士! 何事だ!?」

「ユーナです!! 次にその呼び方したらぶっ飛ばしますわよ!!」

「先祖が猿のお嬢さん、それよりも先に潰されちゃいそうだから!!」

「はぁ!? 先祖が猿ぅ!? 人間は元から人間……じゃない? じゃなくて!!」


 パックの羽虫族特有の惑わす言い方に気を取られたユーナが、とうとう蒸気から抜け出てきた。しかし視線は背後に向けられている。進化論もない時代、人間の起源については学者としては気になる課題ではある物の、それどころではない。

 足音は最早地響き。黒い骨組みは全て檻。幾多の檻を組み合わせて作られた巨人が立ち上がった。腕一つ振るうたび、足で一歩踏み出すたび、中に入っている奴隷達の叫び声が響き渡る。

 奴隷として島の中、さらに限定すればほとんど檻で生きてきたルーフェンが思考を止めた。完全に認知外。自らが入っている箱が組み合わさり、巨大な人型となって襲いかかってくる。あり得ない。


「ロボットだぁあああああ!! かっけぇええええええええ!!!!」


 呆けていたルーフェンの耳をつんざくような歓喜の大声。それは久方ぶりに聞いた巨角族にとって普通の声量。慌てて檻越しに見上げれば、先程まで俯いていたバルドルが目を輝かせていた。

 虚ろだった黒目は爛々としており、鼻からは強烈な鼻息が吹き出ている。その動作だけで蒸気が払われ、視界が少しだけ鮮明になるほどだ。檻の巨人が伸ばす手から逃げ続けるユーナは、白魔法による跳躍でルーフェンの檻にしがみつく。


「ろ、ロボットってなんですか!? あれはウィッカーマンを見立てた儀式魔術の一種と思いましたけど!?」

「おい、魔導士! 俺をここから出せ!! 力になるぞ!」

「わかってます! パックさんは巨角族の方が入っている檻のルーン文字が刻まれている所を見つけてきてください」

「あいあいさー。さっき教えられた文字を針で刻めば良いんだよね? いけるいける!」


 ユーナの麦藁帽子から飛び立ったパックの姿はあっという間に見えなくなる。蜂の羽根を背中から生やしているため、素早さを生かして檻の隙間を潜り抜けていく。

 檻の格子をなぞり、刻まれたルーン文字の位置を特定。自らの親指の腹を噛み切り、浮かんだ血の玉を利用して文字を描く。ユーナの魔力を含んだ血は描き終わると同時に効力を発揮し、ルーフェンの檻だけでなく上下の檻も弾き壊した。

 衝撃で宙に飛ばされたユーナに向かって檻で作られた巨人の腕が迫る。地面に叩き潰されてしまえば白魔法など意味がない。赤魔法で対処しようとしたユーナの服に狼の牙が突き立てられた。

 檻から解放されたルーフェンは俊敏な動きと共に跳躍し、四つん這いで鋼鉄の大地に着地する。首根っこを噛まれた猫のような体勢のユーナは驚く。人間に似た体型ながら、動きは狼そのものだった。


「ありがとよ、魔導士。俺は自由だ!!」

「っだ!? き、急に喋って落とさないでください」


 喜びの声を上げるルーフェンだったが、その拍子に服から牙が抜ける。受け身を全く取っていなかったユーナは顔面から鋼鉄の地面に落ちた。ただしルーフェンが四つん這いの体勢であったため、衝撃は少ない。

 赤くなった鼻を擦りながらユーナは立ち上がる。巨人の体内部からは救助を求める奴隷達の声で溢れている。中には激しい動きに耐えられず、檻の中で転がり続けている者も。全身を格子にぶつけ、痛みで声も出ていない奴隷もいる。

 鼻を掠めた血の臭い。まだ焦げ臭さや煙の気配は漂っていない。用心深く檻の巨人の様子を確かめ続けるユーナの目の前で、巨角族の檻へと巨人の腕が振り下ろされていく。その腕さえも奴隷が入った檻であるが、巨人にとっては関係のないことだった。


「パックさん!」

「あわわわわわ!! 離れて、お嬢さん! ルーフェン!」


 巨角族の檻で文字を探していたはずのパックが泣きそうな顔で、ルーフェンの豊かな体毛に急降下からの潜行を果たす。一体どういうことかと疑問に感じた矢先、枯れ木のように鋼鉄の格子が折れていくのを目撃する。


「うおおおおおお!! 巨大ロボット!! 燃える!!」


 力技で足と手に突き刺さっていた鉄杭を抜き取り、檻の格子を握力で折り曲げていく。天井さえも頭突きで凹ませ、勢いよく立ち上がったバルドルは尖った歯を見せつけるように笑う。

 巨人が振り下ろした腕を手の平で受け止め、もう片方の腕も掴み上げる。巨体二つが押し合い、停止する。力は拮抗しているが故に、お互いに足を踏み出すのが難しい。規模が違う戦いに、ユーナは呆然と見上げることしかできなかった。


「うわーん! バルドルの奴、ロボVS怪獣を再現するぞーとか張り切ってたんだよ! ルーン文字なんか見つからなくて、もう冷や冷やした!!」

「ルーン文字がなかった!?」

「ああ。あの体格だけでルーン文字のスリサズが表現できるんで、表記二重による効果を避けたんだよ。まあ角さえ折っちゃえば彼らは無力化できるし、そっちの方が効率的なんだ」


 巨大な戦いを見上げていたユーナは、背後から聞こえてきた声に肩を尖らせた。条件反射のように回し蹴りをするが、足には何も当たらなかった。スカートが捲れることを意識し、すぐさま体勢を立て直す。

 田園用のドレスとはいえ、やはり足首上の丈では派手な動きを行うのは難しい。いつかはもう少し丈の短いドレスに挑戦してみようかとも考えつつ、警戒は怠らない。横にいたルーフェンも鼻を動かし、周囲一帯に気を配る。

 パックは相手にもならないことを自覚しているため、ユーナの麦藁帽子に改めてしがみつく。薄い笑い声が周囲を取り巻く蒸気の中で反響しており、嫌な寒気と熱を覚える。気配は依然として掴めない。


「ロキ……ですわね。ここまでルーン文字に詳しく、魔術に秀でているとするなら……貴方はもしかして」

「閉ざす者、終わらせる者、狡知の神トリックスター……悪戯好きで気まぐれ。悪質な無邪気。神であり、巨人。世界の始まりには氷と火があった。けど世界の終わりは火のみ。最初は火の化身みたいな扱いだったらしいけど、それもスルトに奪われたかもね」

「最悪ですわ……」


 姿は見えないまま声だけが耳に届く。予想はしていた。しかし当たらなければ良いと願っていた内容であり、答えを聞いた今でさえ頭の中では否定の言葉が残っている。その合間も巨角族と檻の巨人は力比べを続けていた。


「どういうことだ、魔導士!」

「……神様って信じます?」

「天主か!? 猿面族が信奉しているという!」

「それとは少し違います。魔導士が『別世界レリック』と呼ぶ場所にて力振るう者達であり、魔力を使って接続する相手……魔法の大本ですわ」


 乾いた音が響く。それは拍手にも、火花が散る音にも聞こえた。鳥肌が全身を覆うような悪寒が走る。悪趣味なことだと舌打ちし、ユーナは用心も忘れて駆け出す。目指すは今も戦いを続ける檻の巨人。

 内部には大勢の奴隷が入っている。人間も、動物も、果てには『化け物モンストルム』さえ。刻まれたルーン文字を探そうにも時間が足りなさすぎる。青魔法で間に合うかの瀬戸際ではあるが、構っていられなかった。


「――片眼の老人、泉から知恵を授かりし者、大神の名を戴く風、二羽の鴉と二匹の狼は汝の片割れ、八つ足の馬が世界に蹄を鳴らす、命を捧げし知恵の欠片を与えたまえ! 解き放つルーンにて、囚われの者達に救いを!!――」


 その『大神の秘術世界レリック』に接続した瞬間、膨大な魔力を奪われる。鈍器で頭を横殴りするような激しい痛みと脱力感に襲われるが、魔法は行使された。瞬時に巨人を構成していた檻が全て分解され、中に入っていた奴隷達が落ちていく。

 しかし大神の名を借りただけはあり、突如として吹いた優しい風が落下速度を意図的に減少させた。体を叩きつけた痛みの声が上がるが、怪我人はいない。目の前から巨人が消えた事実に驚いたバルドルは目元を擦っている。


「お嬢さん、そんな器用な真似ができるならどうしてしなかったんだい?」

「今ので魔力の半分近くは奪われました。魔術とは相性が悪い上に、相手は大神です。一度でも成功できたのは幸運ですわ。だけど」

「あはは。すごいすごい。まさか兄弟の魔術を引き出してくるなんて……保険をかけて良かったみたいだ」


 またもや乾いた音。嘲笑と共に耳に響くが、それ以上の頭痛がユーナの思考をかき乱してくる。蒸気の中に逃げていく助かった奴隷を目の端に捉えながら、挑発して気を引くためにわざと訂正する。


「義理の兄弟、でしょう? やはり最初睨んだ通り、ウィッカーマンに見立てた巨人でしたのね」

「そういえばウィッカーマンってのはなんだ? 猿面族の名前か?」

「儀式に使う人形の名前です。木で編み上げた人形内部に家畜と人間を詰め込み、火を放つ……人身御供です」

「はあっ!? 猿面族はそんな儀式をするのか!?」

「大昔の儀式内容ですけどね。檻に刻まれたスリサズ……最初は家畜の意味で使われていると思ったら、両方の意味で使用していやがりましたわね外道が!!」


 檻に刻印されていたルーン文字三つを思い出し、ユーナは頭の中で堪忍袋の緒が焼き切れるのではないかという怒りを抑えきれなかった。麦藁帽子に乗っていたパックは、その激怒を恐れてルーフェンの肩へと逃げる。そんなパックの動きを見て、ユーナは我に返って自らの肩に手を触れた。

 蒸気は晴れず、島の各所で起きた騒動も収まらない。そして気付く。地響きを伴う足音が増えている。先程までロボットだと喜んでいたバルドルも、開いた口が塞がらないまま目の前を眺める。

 常に地面が揺れるように変化した。海を泳ぐ鯨の背中に作られた島とはいえ、その揺れは異常だった。ルーフェンが耳を動かし、四つん這いになって鋼鉄の大地に耳を澄ます。内部から轟くような駆動音が響いていた。


「島が……内部崩壊している!? おい、魔導士!! どういう展開だ!?」

「……」

「おい!! 聞いてるのか!?」

「……肩に、刻んでましたのね」


 そう言ってユーナは背中から倒れた。両腕は力なく広がり、瞼は緩やかに閉じられている。あまりにも静かに、それでいて急に卒倒したためルーフェンとパックの反応が遅れた。倒れていく様を視線で追い、立ち上がらないと気付いてから慌てて膝をつく。

 パックが心配して胸元へと降り立ち、ルーフェンは激しく肩を揺らす。その間も地面は揺れ続け、そしてバルドルの眼前には檻の巨人が複数体、蒸気を切り払うように姿を現していた。


「ねえ! 心臓が動いていない!」

「はあぁ!? おい、猿面魔導士!! 起きろ!! 何がどうなってんのか説明しろよ、さっきみたいに早く!!」


 足下で響くはずの鼓動が感じ取れないことに、パックが動転する。口元に近寄って確かめれば、呼吸も途絶えていた。糸が途切れた人形のように力が込められない体は、不気味なほど柔らかい感触だ。

 体温はまだ残っているが、蒸気に濡れて少しずつ冷えていく。潮風が熱をさらっていき、克明な事実を手の平越しに伝えてくる。ルーフェンは爪を立てないようにユーナの頬をなぞり、何度も触れた死者の肌を思い出す。

 なんとか声を絞り出そうとした時、激しい熱風が肌を焼く。乾いた音が何重にも響き渡り、まるで盛大な拍手と歓声が沸き起こっているようだった。鋼鉄の黒い檻が赤い炎に包まれていく。


 ルーフェンは顔を上げた。先程と同じ檻の巨人が五体以上、炎の巨人となって周囲を取り囲んでいた。一体につき使われている檻は二十以上。その全てに奴隷が収監されており、響き渡る声は苦しみと嘆き、怒りと絶望だった。

 抗ってみせるつもりだった。牙と爪を立てて、必ず奴隷以外の最期を遂げるのだと心に決めていた。そんな希望さえ泡のように割れて消えた。炎が迫ってくる。この世の終わりを告げるが如く、炎が全てを焼きにくる。

 飛んで逃げることも忘れたパックがユーナの胸元にへたり込む。手の平に載るほど小さな体で、現状を覆す方法など思いつかなかった。白い蒸気が熱によって消えていく。さらに多くの赤黒い巨人の群れが視界を埋めていく。


神世の終わりラグナログ……実は見届けてなかったんだよね。だから再現しようか。炎の巨人が進軍し、火の剣が振るわれる……絶望を!!!!」


 まるで演劇を開始する役者のような高らかさで、空中に浮かんだロキが宣言した。少女に刻んだ死のルーンが発動したのを皮切りに、数多の奴隷を生贄に捧げて行われる。


 終末の再来を。

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