神の剣 9

 アストの目前に広がったものは、これまでに見たものすべて――たとえば、ザールの城など――をも超越する巨体を持つ獣が、岩肌に溶けている光景だった。

 岩と同化していないのは、顔の半分、すなわち口と、鼻と、片目と、片耳だけだった。それらの部分には、赤とも橙とも言えない色に銀が混じった、どことなく炎の芯を想わせる不思議な色の、艶やかな毛が生え揃っていた。

 アストが近付いている事に気付いたのか、それとも突然の明かりを疎ましく思ったのか、獣は閉じていた目をゆっくりと開ける。体に見合った大きな目だ。紫にも黒にも見える瞳は暗く、放つ力の象徴にも見えた。

 その目に見つめられた時の威圧感は、洞穴内の空気から感じたものとは比べ物にならないほど強かった。もしアストの手の中に神の剣がなかったならば、一瞬にして囚われ、魔獣の眷属と化すか、気がふれていたかもしれない。

 これが自由に地上を駆け、力を振るっていた時があったのか。それをエイドルードが静止し、ここに封じる事で自由を奪ったのか。

 なるほど、エイドルードは確かに偉大な神だと、アストは今まさに実感していた。アストは自身が手にする剣の強大な力を理解していたが、この剣をもってしても、解放された魔獣と対等に戦う事はできないだろうと感じていた。

 アストが魔獣に対峙できるのは、今だけだ。かろうじてエイドルードの封印が残り、魔獣の自由を奪っている、今だけなのだ。

『何かと思えば……エイドルードの残骸か』

 声が聞こえた。耳を介さず、直接脳に届く不思議な声。魔獣のものだろう。

 残骸とは酷い言い草だと一度は考えたアストだが、納得するしかなかった。22日間激闘を繰り広げ、こうして封印された魔獣は、エイドルードの力を身に染みて判っているはずだ。エイドルードの力と比べれば、アストの持つ力など、残骸と言うのも勿体ないほど小さなもののはずだった。

「そうだ」

 声に出さずとも、アストの返事は魔獣へ届くのだろう。だがアストは、自分自身に聞こえるよう、声に出して答えた。

 魔獣の耳は、アストの声を捉えたようだ。大きな目が、忌々しいとばかりに瞬きをする。赤銀の毛が揺れ、より強い黒き力が空気中に広がっていく。

「エイドルードとその一族の意志の元、地上の永遠の平和を守るため、お前を滅ぼすために、ここまで来た」

 魔獣はアストに応えなかった。瞬きののちに見開いた瞳で、アストを鋭く見据えるだけだった。

 アストのような小さな存在には不可能だと思っているのだろうか。それとも、可能だと理解した上で、覚悟を決めているのだろうか。

 後者のような気がした。語ろうとしない魔獣の本心など、アストに判るはずもないのだが、アストの中にある直感のようなものが、そう訴えていた。潔く結末を待つ、凛とした美しいものに見えたのだ。

 もし魔獣が、地上に害なす事なく、ただ颯爽と駆けるだけの存在であったなら。

 もっと美しい、陽の光に輝く赤い毛並みを見られたのだろうか――ふいにそう考えたアストは、首を振り、使命感で上塗りする事によって意味のない仮定を頭の中から消し去ると、両手で剣を構えた。

 神の剣が持つ、すべての力を放出する。空色の宝石から溢れた力は、刃へと伝わって、空洞にふたつめの太陽を産みだす。

 明るかった。地面も、岩壁も、魔獣も、自分自身すらも、すべてが光によって白く塗りつぶされ、何も見えなくなるほどに。

 人の言葉とも、神の言葉とも違う言語を紡ぐ低い声が、アストの耳に届いた。

 魔獣の言葉だった。脳に直接伝えるでなく、アストに判らない形で紡がれた言葉には、どんな意味が込められていたのだろう。エイドルードやその一族への、呪いの言葉だろうか? 深く暗い、苦しみを示す言葉だろうか? 理解できない事を少しだけ悲しく思いながら、アストは地面を蹴った。

 視界は一面の白で、距離感も方向も掴めない状態にあったが、アストは向かうべき所を知っていた。アストの魂は自然と、魔獣に引き寄せられるのだ――魔獣を滅ぼすために、生まれてきたのだから。

 アストは渾身の力で、剣を振り下ろす。

 剣を跳ね返そうとする、強い抵抗を感じた。少しでも気を抜けば、体ごと吹き飛ばされて、倒れてしまうほどに強かった。封印に囚われた今、ただ存在する事しかできないはずの魔獣は、その生存本能だけでやすやすと、アストの体を痛めつけるのだった。

 アストはがむしゃらに叫んだ。父を、母を、友の名を叫んでいるつもりだったが、はっきりと言葉になっていた自信はない。だが、叫びに宿る想いは間違いなく、力と化してアストの中にみなぎった。

 岩に溶けた魔獣の体に、深々と剣を埋め込む。

 その瞬間、光が消え、アストは音のない闇に包まれた。

 アストは寄り場ない孤独に耐えなければならなかった。永遠にすら感じた一瞬、呼吸する事も忘れ、手の中にある柄の冷たさに縋った。

 まず生まれたのは音だった。岩が割れる音だ。はじめは小さい音だったが、続けて大きな音がした。連なるように、何度も何度も、遠ざかりながらも勢いを増していった。

 次に生まれたのは光だった。ひび割れた岩の隙間から、剣が放つ光がもれ出し、再びあたりを照らしだした。

 アストはこの時ようやく自身が生きている事を思い出し、肩を大きく上下させる呼吸をした。

 目の前の岩壁に、神の剣が突き刺さった場所を発端とした、深く、鋭く、長い亀裂が刻まれている。アストはそれを目で追った。高く、高く、天井に到達するまで――その途中、引き裂かれた暗い瞳と邂逅し、アストはしばらくの間、視線を固定した。

 咆哮が、空気を揺さぶった。

 アストには理解できない言語のそれは、魔獣の断末魔の叫びだった。

 永遠を思わせるほどに長く長く続いた響きは、小さくなり、掠れ、やがて消え失せる。そしてアストは、見つめ合う瞳を失った。

 魔獣の意志と、闇の力の消滅。

 アストは自身が使命を達成した事を知った。エイドルードの後継者、救世主としての役目を、たった今、終えたのだと。

 同時に役目を終えた剣が、ほぼすべての光を失った。いや、光だけではなかった。砂が流れ落ちるような音を立てて少しずつ崩れ、淡く輝く空色の宝石だけを残して、力と共に形を失ったのだ。

 腰に下げたままの黒い鞘も同様だった。剣と同様に崩れ落ち、最後に空色の宝石だけが残る。

 土台をなくしたふたつの宝石は、地面に落ち、弧を描きながら転がった。アストはそれらを必死になって追いかけた。力を放出した体は、疲労のせいか思うように動いてくれなかったが、失うわけにはいかない。なんとか追いつき、拾いあげた。

「終わったね」

 宝石を両手にひとつずつ、軽く握ったアストは、叫びすぎて掠れかけた声で、短く語りかける。亡くしたばかりの父と、肖像画でのみ知る母に向けて、微笑みかけながら。

 同じ形で、同じ大きさで、同じように輝く宝石たちの、どちらが父で、どちらが母なのか、アストはすでに判らなくなっていた。

 だが、どちらでもいいのだとは判っていた。空色の宝石は双方とも同じように淡く光を放ちながら、星の瞬きのように優しく、アストが進むべき道を照らしてくれるのだから。

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