四章 芽生えたもの

芽生えたもの 1

「ナタリヤ、聞いているのか?」

 視線がいつの間にか窓下へと向かっていた事に、父親の声によって気付いたナタリヤは、慌てて顔を上げる。叱られる事を覚悟しながら、おそるおそる振り返った。

 予想に反し、ルスターは呆れの混じった笑みを浮かべていただけだった。無言で席を立つと、ナタリヤの隣に並び、先程までナタリヤが見ていた光景を眺める。

 窓の下には、飾り気のない空間が広がっている。訓練場だ。兵士や聖騎士たちも利用するそこは、入れ替わり立ち代わり人がやってくる場所だが、今の時間帯に利用する者は限られている。アストとカイだ。

 ナタリヤひとりで見守っていた時は激しく剣を打ち合わせていたふたりだが、今は少し距離をおき、剣を構えたまま睨みあっている。落ち着いた様子のカイに対して、乱れた呼吸を整えるアストと、どちらの分が悪いかはひと目で判るほど明らかだったが、それでも「成長されたな」と感心するばかりだ。剣を習いはじめたばかりの頃のアストは、どんなに必死に打ち込んでも、カイに軽くあしらわれていたのだから。

「大きくなられたな」

 見下ろす眼差しや語る声からは、まるで実の子や孫を慈しんでいるかのような心を感じる。ナタリヤは普段、自分の父親は年齢の割に若く見えるほうだと思っていたが、この時ばかりは急に老け込んだように感じた。

「そうですね」

 奥底から静かにこみ上げる笑いを噛み殺したナタリヤは、父に素直に同意する。

 父の言う通り、アストが成長したのは剣の腕だけではなかった。背の伸びる勢いはすさまじく、ナタリヤはとうとう追い抜かれてしまった。日々の訓練によって鍛えられた体は、戦士のそれに近付いてきている。今でも軽々とアストの相手をできるのはカイだからこそで、ナタリヤならばいい勝負だっただろう。

「今、おいくつだったか」

「アスト様でしたら、14歳です」

「14……」

「お祝いをしたではありませんか。もうお忘れになったのですか?」

 からかい気味の口調で言うと、ルスターは困惑気味に笑った。

「忘れたわけではないのだが――改めて聞くと、時の流れのはやさをしみじみ感じると思ってな」

 呟いてから、ルスターはナタリヤのそばを離れ、元通り椅子に座り直した。

 広げていた書類を再度手に取ったルスターが、柔らかな表情を神妙なものへと変えたので、ナタリヤも同様に気を引き締め、ルスターの正面に立ち、書類を覗き込む。

 昨日までのひと月の間にザールが受けた魔物の被害一覧だった。ほとんどすべてが些細なもので、一番被害が大きいものでも数名怪我人が出た程度だが、問題なのは件数だった。洞穴の入り口を封じると同時に多くの魔物を掃討した4年前には、ほぼ皆無と言えるほどに減少していたのだが、昨年あたりから徐々に増えてきている。今では5日に一度程度の頻度で、魔物が問題を起こしているのだ。

「また洞穴の封印が壊れたのかと訊かれました。先日ロブの村を訪ねた時の話です」

「あの村はまだ魔物の被害はなかったのでは?」

「ええ、ありません。ですが、魔物が活発になる事によって、通常の動物の居場所が失われているためか、人里に近付いてきているようです。それによって畑などにいくらか被害が」

「そうか……そうだな」

 一度は背中を浮かせ、わずかに前のめりになったルスターだが、特に何も言わないまま、再び椅子にもたれかかった。

「エイドルードの不在を知らない民にとって、魔物が活性化する理由は他にありませんからね」

「アスト様にかかる期待が日々大きくなるわけだな」

 ルスターは手にしていた書類を机上に戻すと、膝の上で軽く手を組み、ため息を吐いた。

 兵士たちを従えてザールを巡回した数日間の内に、民の口からアストの名が数え切れないほどに上がった事を思い出したナタリヤは、父に同調し、同様に息を吐く。

 エイドルードの真実を知らない者たちでも、救世主アストの存在は知っている。アストの持つ剣の威力も噂で聞いているだろう。彼らはアストが具体的にどうやってこの地を救うか知らない――実の所、ナタリヤも詳しい話を聞いていないためにやはり知らないのだ――が、魔物を根絶やしにし、恒久的な平和をもたらしてくれる事を信じて疑わない。

 ナタリヤとて、アストに救済を求めているという点においては同類であるから、被害が増えるにつれ民の気が逸るのも、判らないではない。しかし、アストの近くで生きる者としては、急かすようなものいいで、祈るように縋るようにアストの事を語る民の願いは、重く感じてしまうのだ。

 彼はどう思っているのだろう。今もまだ窓下で剣を振るっているだろう少年を思い返し、ナタリヤは苦い感情を胸に広げた。

「巡回中、アスト様に関する、よくない噂話などは耳にしなかっただろうか」

 突然父が発した言葉は聞き捨てならず、ナタリヤは睨むようにルスターを見つめた。

「私は特に聞いておりませんが、父上のお耳には、何か?」

「いいや、特には」

「父上!」

 机に両手を付いて身を乗り出し、視線を近付けると、ルスターは観念したとばかりに続きを口にした。

「ハリス殿からな。ハリス殿も、部下の聖騎士から報告を受けたのみで、直接聞いたわけではないようだが――『アスト様がいまだ魔獣を滅ぼさないのは、魔物と親しくしているからではないか』と言っている者もいるらしい」

「魔物」という言葉が何を指しているのか、瞬時に理解したナタリヤの頭に、急激に血が昇った。真っ赤になった顔で、素直な想いを吐露する。

「くだらない事を……」

 ルスターは苦い笑みを浮かべながら、静かに息を吐いた。

「そう言うな。アスト様とユーシスが親しくなった時から、多少は危惧していた事だ。実際に起こると、少々堪えるがな」

「その件、アスト様はご存知なのですか?」

「言えるわけもあるまい。黙っているわけにもいかないだろうと、カイ様にはお話したが」

 ルスターは一度深呼吸を挟んだ。

「『アストから友人を奪わないでください』と懇願されてしまった」

「それで? 父上はなんとお答えしたのです?」

「『元よりそのつもりはございません』と」

 返答に安堵したナタリヤは、強く頷いた。いつの間にか拳を握っていた両手を机から離し、胸を撫でおろす。

 ユーシスと出会ってから、アストは変わった。胸いっぱいに息を吸い、縮こまっていた四肢を存分に伸ばし、生き生きとしはじめた。彼は10歳にしてようやく、血の繋がった家族であるカイのそば以外に、息がつける場所を見つけたのだ。

 この大地に生きる誰よりも大きな重圧を背負わされた少年にとっての、安らぎの場所。ナタリヤにも、誰にも作る事ができなかったものを、ようやくユーシスが作ってくれたのだ。それを奪うなどと、あまりに非道な行いではないか。

「ユーシスはいつまで魔物の子と言われ続けるのでしょう」

 生まれてから14年以上もの間、誰に害を与えるでもなく生きてきた従兄弟に押し付けられた不名誉な称号が忌々しく、ナタリヤは唸る。それさえなければ、アストとユーシスが同じ時間を過ごす事に、誰も文句をつけないはずだった。

「魔物がこの大地から消える時が来れば、みなもユーシスを受け入れてくれるだろうか」

「この件もアスト様頼りだと?」

「今のお前の言葉ほど私の無能さを浮き彫りにするものはないな」

「そんなつもりで言ったわけではありません」

「私が勝手に言われたつもりになっているだけだ。気にするな」

 気にするなと言われても気になってしまう。ナタリヤは居心地悪く、口を噤む。

「もしザールの民がユーシスを受け入れたとして、ユーシスは館を離れる気になるだろうか」

 父が新たに提示した問題は思いの他難解で、ナタリヤはすぐに答えを見つけられなかった。

 なんだかんだとユーシスの問題をいつも後回しにしてきた一番の原因は、まさにそれだった。どうやらユーシス本人は、今の生活を不満に思っていないどころか、楽しんでいるようなのである。

「考えなさそうですね」

「お前もそう思うか。とは言え、選択肢を与えた上で現状を選ぶ事に意味があるのであって、現状しか選べないというのは、やはり良くないだろうな」

「それに、ユーシスの安全も気になります。あまり領民の事を悪く言いたくはありませんが、彼らは自分たちに都合が悪い時だけユーシスを思い出し、自分たちに都合良くユーシス悪人にしたてあげるのです。今は何も起こっておりませんが……」

 再び魔物たちが力を増し、ザールに深刻な被害が及んだとすれば、民の抱く憎悪は悪意となって、ユーシスに押し寄せるだろう。感情だけですんでいるうちはまだいいが、暴力へと変化する可能性は否定しきれず、その時に町外れの館にひとりで暮らすユーシスを守る事は、とても困難に思えた。

「厳しい言い方だな」

「私は知っております。罪の無い者に罪を被せて救われようとする人の弱さを」

 ユーシスを魔物の子として恐れ蔑む者たちの心を、ナタリヤは知っていた。理解したのではない。はじめから知っていたのだ。

 誰もが弱く、誰もが自分と同じなどと思ってはいない。だが、この件に関しては、同じだという確信があった。

「ならば、それを乗り越える人の強さを信じる事もできるだろう」

 自傷じみたナタリヤの発言に、ルスターはひと呼吸置いて続ける。途方もなく優しい、強い言葉を。

 ずるい、と思いながら、ナタリヤは一度目を伏せ、こみ上げるものに耐えた。緩やかに呼吸を繰り返しながら、いつの間にか力みすぎていた肩から力を抜くと、乱れた気が落ち着いていく。

 再び目を開けた時には、気丈なナタリヤに戻っていた。

「ユーシスを普通の子として受け入れてもらうためには、相互理解が不可欠です。そのために、まずユーシスのほうから歩み寄る事が必要でしょう。そうして少しずつ人と触れ合って……あの子はそれを望んでいなさそうですが」

「やはりそうなるか」

「そうなります」

 ルスターは困惑を眉間に刻んだ。

「他の者が干渉しにくい部屋を用意するから来てくれ、と言ったところで無理なのだろうな」

「無理でしょう。完全に隔離した部屋を用意したところで、動くかどうか。そもそも、動こうかと考える事すらしないのでは?」

「私たちが言ったならば、間違いなくそうだろうな」

「どういう意味で……」

 返す問いをすべて発する前に、父の意図するところを察したナタリヤは、口を閉じる。そういう事か、と、心の中で叫びながら。

 ろくに会いにも来ない親族の言葉は無力だろう。しかし、心を開いた友の言葉ならば、ユーシスを動かす力になるかもしれない――父の言葉は、打つ手が無い現状の中ではこれ以上無いと断言できるほどの名案に思え、ナタリヤは胸の前で手を組み合わせた。

「ではのちほど、昼食の時にでも、アスト様にお話してみます」

「そうだな。結局アスト様頼みになっている点が少々気になるが」

「細かい事を気にしてはなりませんよ、父上。すべてはユーシスのため、そしてアスト様のためです」

 実際は細かい事などと思っていなかったナタリヤだが、強気で言いきる事によって、父や自身の中にある不安や不満をいずこかへと押しやった。

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