神の子と魔物の子 8

 リタの手が離れていく瞬間、ユーシスの存在を失念していたと思い出したアストは、慌てて振り返る。

 アストにつられたリタがユーシスを見つけ、微笑みかけると、呆然と座り込んでいたユーシスは、咄嗟に顔を反らした。屋敷で静かに暮らしていた彼には、多くの人間――たった4人でも、ユーシスにとっては充分多いはずだ――に囲まれている現状が、落ち着かないのだろう。あるいは、リタが持つ華やかで煌びやかな雰囲気を、苦手としているのかもしれない。

 ユーシスの態度を意に介さず、リタは手を伸ばした。つい先ほどまでアストと握手していた手が、小さく傷付いたユーシスの額に触れる。可憐な唇が小さく動き、囁くような声量で紡がれた神聖語が空気を震わせると、リタの手元がわずかに光った。

 光が治まると同時に、リタの手がユーシスから離れる。額にあったはずの傷は、まるではじめから存在していなかったかのように、奇麗に消えていた。

 母と同じ力だと、見守っていたアストは思った。アストの母も、特別な力――人の傷を癒す力や、聖なる雷で魔物を倒す力など――を持っていたのだと、人伝に聞いた事がある。実際にアストが目にした事はもちろんないが、同じものである事は疑いなかった。

「もう痛くない?」

「は、はい」

「そう。良かった」

 リタが微笑みかけると、ユーシスは居心地悪そうに俯いた。

「ところで、リタ様はなぜザールにいらっしゃるのです?」

 ハリスが問いかけると、リタはハリスに背を向けた状態でため息を吐いてから振り返る。

「例の洞穴に関する報告を大神殿に届けたのは貴方でしょう。だから視察に来たんじゃない」

「私が出した使いが大神殿に到着したのは、早くて昨日の夕方かと」

「そう。私は昨晩報告を聞いて、今朝早くに大神殿を出たの。どうしても私が参加しなければならない用件や式典とかしばらくなかったし、急に何かがあっても、大抵の事は大司教の爺さんを代理に立てれば済む事だからね。ちょっと無茶をしたかなと思ったけど、来てよかった。思ったより悪い状況みたいだから」

 呆気にとられたハリスは、しばらく言葉を失ったのち、気を持ち直して新たな質問を投げかけた。

「お供はジオール殿のみですか?」

 リタは眉間に皺を寄せる。誰の目から見ても明らかな、不満げな表情だ。

 短い時間ながら、多彩に変化する表情を見守るうちに、アストはしみじみと感じていた。この女性は、顔立ち以外の部分はすべて、母と似ていないのだと。

 リタには母ほどに神秘性がないため、よく似た容姿を持っていながら、美しいという印象が母ほど強くない。しかし、強引とも言える力強さや、黙っていても滲み出てくる明るさからは、母とはまったく違う、人としての魅力を感じた。初見とは言え、見間違えた事を失礼だと思ってしまうほどに。

「ちょっとハリス。私を誰だと思っているの? 護衛がこんな歳とった、引退直前の聖騎士ひとりだけのわけがないでしょう」

「では、他の者はいかがされました?」

「さあ? 私が突然方向転換しつつ速度を上げたから、着いて来られなかったみたい。ふがいない連中よね。あれで私を守ろうなんて10年早いって言うのよ」

 ハリスがもの言いたげな視線をジオールに向けると、ジオールは無表情で肩を竦めた。

「おかげでしばらく引退できそうにない」

「お望みなら、強制的に引退させてあげるけどね」

 リタが首を切る仕草をすると、ジオールはリタの視界に入らない場所で再び肩を竦め、口を閉じた。

「さ、話はひとまずこのあたりで切り上げましょう。寄り道で長居しているとみんなが心配するから、とっとと城に向かわないとね。貴方たちも、一緒に来なさい」

 リタはアストやユーシスに向けて手を差し伸べる。それまでハリスたちに見せていた、上位に立つ者としての威圧感を見事に消し去った、温かな笑みを浮かべて。

 差し出された手を取る事に、城が戻るべき場所であるアスト自身は異論がなかった。だが、ユーシスは当然、リタの手を取るどころか、目を合わせようともしない。

 アストはしばらく考え込んでから、リタの瞳を真っ直ぐに見上げた。

「ユーシスはここを離れる気はないんだ。理由は言えないけど」

 リタはわずかに首を傾げた。

「そこまで堂々と言い切った度胸に免じて理由は聞かないでおくけど、私が無知なのは貴方たちのせいなんだから、無神経な事を言ったとしても怒らないでよ」

「うん」

「ここは危険だから、一度避難しなさい。この屋敷やこの場所に思い入れがあるのかもしれないけど、このおじさんたちが安全を確認してから戻ってくるのではだめ? それに、あっちの壁とか穴が開いてるじゃない。補修しないと生活にも不便なんじゃないの?」

 風通りの良くなった通路を指差すリタの発言は、間違いなく、ユーシスにとって無神経な正論だったが、事前に交わした約束を覚えていたため、アストは感情のまま言い返す事をしなかった。

 アストは怯えるように俯いたままのユーシスを背に庇い、首を振る。

「貴女の言う通りにするのが正しいって判ってる。それでもユーシスはここを動く気はないんだ」

 リタは腰に手をあて、アストたちを見下ろしながら問う。

「さっきから『ユーシスは』ばっかり言ってるけど、貴方はどう考えてるわけ? と言うか、何か考えてるわけ?」

「考えてるよ。色々考えて、今は『ユーシスがしたいようにすればいい』って思ってる」

「その子、怪我したり、最悪の場合死んでしまうかもしれないけど、それでもいいって思ってるの?」

 もちろんいいわけがない。アストは再度首を振り、はっきりと言い切った。

「そんな事にはならない」

「どうして言い切れるの?」

「俺もここに残るから」

 発言した瞬間、全員の強い視線が、瞬時にアストに集中した。おそらくユーシスもだろうが、背中の向こうの彼がどうしているのか、アストからは見えなかった。

「俺がここに残れば、ハリスもここに残るだろ。そしたら、もしまた魔物が出ても、俺を守るために戦うはずだ。そのついでに、ユーシスを守ってくれるだろ」

「私がアスト様を無理矢理に城へお連れする可能性を、考慮されておりませんね」

 いつも通りの冷静さを取り戻したハリスが、アストを守る立場にある人間としてごく当前の提案をしたので、アストは咄嗟に身構えた。

 ハリスが本気でアストを連れ戻そうとするならば、力も体格も圧倒的に負けているアストに抗えるわけがない。ならば本気で行動させるわけにはいかず、そのためには、気持ちで負けるわけにはいかなかった。

 緊迫した空気が流れる。困惑したユーシスが掠れた声で「もういいよ」と言いながら、アストの袖を引いた。

 同時に、高い笑い声が響き渡る。リタだった。馬鹿にされているのかと思ったアストだったが、腹を抱えたリタは、心から笑っているように見えた。

「嫌いじゃないなあ。そういうの」

 必死に押さえ込んだ笑いの隙間を縫って発せられた言葉は、アストの案を否定するものではなく、優しく受け止め肯定してくれるもので、アストは強張った体から力を抜いた。

「いっそ私がここに残って守ってあげたいくらいだなあ」

「リタ様」

「判ってるわよ、さすがに迷惑かけすぎだって。じゃあ私はおとなしく城に向かうとして……アスト、こういうのはどう? ジオールとハリスがここに残って、安全が確認されるまで、屋敷周辺の警護をする。ふたり居れば、とりあえず安心でしょ?」

 アストは笑顔で肯いた。

 ザールに滞在する聖騎士たちを統べるハリスの実力は話に聞いている。大きな魔物を圧倒していたジオールの実力は、先ほど目にしたばかりだ。彼らならば、ユーシスを魔物の脅威から守るだけの力があると信じられた。

「じゃあ決定。貴方たちはここに残りなさい。で、アスト、この人たちを残すための交換条件。貴方は城に戻りなさい。ジオールたちだって守る相手が少ない方が楽でしょう。何より、私は今すぐに城に行かなきゃならないんだけど、こんな辺鄙なところからザール城に向かうの初めてだから、道に自信がないのよね。誰かひとり、道案内が必要なの。ジオールもハリスもその子も駄目なら、貴方しか居ないのよ」

 アストは再び肯いて答えた。その程度の条件でユーシスが守られるならば、心より歓迎すべき事だった。

「リタ様」

 無表情ながら不満を表す声音で、ハリスが名を呼ぶ。するとリタは、同じだけの不満を込めた瞳で、ハリスを睨みつけた。

「いいじゃないの。たまにはわがままくらい言わせなさいよ」

 言って、リタは即座にジオールを睨みつけた。

「今、『普段から言ってるじゃないか』って思ったでしょう」

「とんでもない」

「言っておくけど、これは私のわがままじゃないから」

「無論、承知しております」

「そう。ならいいわ」

 リタは納得したそぶりで、ハリスに向き直る。

 結局のところジオールは、リタが普段からわがままを言っている事に関しては一切否定していないのだが、リタが納得しているのならばそれでいいのかと、アストは口を挟む事をしなかった。

「いいわね、ハリス」

「承知いたしましたが、恐れ多くもお願い申し上げます。ザール城に到着されましたら、聖騎士を数名こちらに派遣いただけますか。私――私たちにも隊長としての役割がありますゆえ、この一件が片付くまでの間、常に屋敷の警護に就くわけには参りません」

「そりゃそうね。きっと、今晩か明日にでも会議があるだろうし。判った。人選は適当でいい?」

「無理は申しませんが、可能でしたら、私の部下ではなくジオール殿の部下からお願いいたします」

「別にいいけど……?」

 ハリスの言葉の真意を理解できないリタは、不思議そうな顔をして、素直に問いを口にしようとする。慌てたアストが手を引くと、「ここでその問いを口にしないで欲しい」との、アストの想いを感じ取ってくれたようで、口を閉じてくれた。

「じゃ、行きましょうか」

 アストは力強く何度も肯くと、「よろしく」と言ってジオールとハリスにあとを頼み、リタの腕を引いて屋敷の外に出る。瞬間、視界の端に蜂蜜色が揺らめいた気がして、足を止めて振り返った。

 いつの間にか立ち上がっていたユーシスが、もの言いたげに口を開いている。戸惑いながら伸ばされた手も、優しい色の瞳も、アストだけに向けられていたので、彼が話かけたい相手は自分なのだと悟ったアストは、体ごとユーシスに向き直った。

「あの」

 ユーシスは伸ばした手を引っ込めて、腹の前で手を組んだ。アストよりも若干小さな手は、必死に押さえ込んでいる事が伝わるほどに、いびつに震えていた。

 勇気が必要だったのだ、彼にとっては。

「さっきは、ごめん。その、僕は多分、ひどい事を言ったよね。君はとても、悲しそうな顔をしてた」

 思い当たる事はいくつかあったが、謝罪を耳にした瞬間、どうでもいいと思えた。アストはすべて忘れ去ろうと心に決めて、静かに首を振る。「気にしなくてもいいんだ」と、想いを込めて。

「それから――助けに来てくれて、ありがとう」

 絞り出された言葉は、聞き取る事さえ難解なほどか細いもので、実際アストの耳にはほとんど届かなかったが、照れ臭そうに俯くユーシスの表情から、理解する事はたやすかった。

 アストは肯いて応じる。勝手に笑いはじめる顔を、ユーシスや大人たちに見せるのは恥ずかしく、手の甲を唇に押し当てる事で、可能な限り隠してみた。

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