六章 選定の夜

選定の夜 1

 南方の都市ダゴルで織られた生地は王都では滅多に手に入らないものであるとか、王族御用達である超一流の職人たちの手によって仕立てられたものであるなどと、カイにとってはどうでもいい事だった。いや、どうでもいいどころではない。袖口や裾に銀色の絹糸でつつましやかに品良く縫い取られた刺繍ひとつで、路頭に迷う子供が救えるかもしれないと考えると、もったいないとしか思えなかった。

 信仰の対象となるべき神の子が、ただの人と同程度の服を着ていては、民の夢や希望を奪う事になりかねないとの言い分は理解できる。内から輝くものがある聖人ならば、着飾るどころか貧しい格好をしていてもよいかもしれないが、自分がそれほどの人間ではない事も、理解している。だから、人前に出るための服であるならば、多少豪奢なものを着せられても、納得する事はできた。

 しかし、カイが今身に着けている、完成前の最後の調整に入っている衣装は、民に見せびらかすためのものではない。6日後に迫った選定の儀のためのものだった。塔の中ですべてが終わる儀式で着る衣装など、リタかシェリアのどちらかと、せいぜいが数名の関係者しか見ないはずだ。

 本当に無駄だな、と心の中で憤慨しながら、カイは鏡に映る自分の姿を見つめた。

 さすが一流の職人軍団と言うべきだろうか。カイの顔立ちや髪・瞳・肌の色、体格を考慮した上で、一番似合う服を仕立て、上手く貴公子に見せている。今日の試着は最後の調整との名目だが、寸分の狂いもなくカイの体に合っていて、直すべきところなどひとつも見つからなかった。

 職人たちの腕に感心しながら、カイは重い息を吐いた。吐き出す息が重苦しいのは、無駄遣いに呆れているせいだけではなかった。

 カイは鏡の中から窓の外へと目を向ける。雲が流れる空の色に、少女の大きな瞳を思い出すと、カイは再び長い息を吐き捨てた。

 運命の日はあと6日まで迫っている。だというのに、リタはまだ決断をしていないようだった。生殺し状態は息苦しく、ここ数日はろくに眠れていない。

 運命にしろカイ個人にしろ、嫌なら嫌だと、はっきり言ってほしかった。

 嫌ではないからこそ、リタは悩んでいるのだろう。知っていながら答えを望む事は酷だと判っているカイだったが、この状態のまま当日を迎えるよりはまだましだ、とも思っている。決断を下せないままの彼女に未来を強制する事を、できるかぎりはしたくないのだ。

「首元など、窮屈なところはございませんか?」

 しきりに息を吐くカイの様子に不安を募らせたのか、背後に回って着丈を確認していた職人が、突然質問を投げかけてきた。

「いえ、すべてがちょうどいいです。完璧ですよ」

「ありがとうございます。では――」

 職人の言葉を遮るように扉が叩かれ、カイは振り返る。「誰ですか」と訊ねる前に、扉の向こうからかけられた声は、答えを示していた。

「カイ様、失礼してもよろしいでしょうか」

「ルスターさん!」

 ザールの地で別れてからひと月ほどしか過ぎていないが、温かみのある声はひどく懐かしかった。即座に「どうぞ」と答えると、ゆっくりと扉が開く。

 忙しかったのか疲れているのか、ルスターは最後に会った時よりも更にやつれているように見えたが、柔らかな微笑みに変わりはなく、カイは安堵した。

 カイを捕らえたルスターの目は、一瞬だけ見開かれると、直後に細まり、カイの頭から足先へと視線を動かしていく。

「あ、今、衣装合わせ中なんです。選定の儀の。こんな立派なもの、自分でもがらじゃないって判ってるんですけどね。男だし、元がこんなものですから、リタやシェリアほど飾りがいもないでしょうし」

「とてもお似合いですよ」

 自分よりもよっぽど似合いそうな人物に言われても虚しいだけだと思いながら、これ以上服に関して押し問答をする気がなかったカイは、本来なら最初に告げるべき言葉を口にした。

「おかえりなさい、ルスターさん」

 するとルスターは慌ててカイの足元に跪き頭を下げた。

「長らくおそばを離れ、申し訳ありません。ただいま帰還いたしました」

 カイは軽く揺れる蜂蜜色に微笑みかける。

「ザールのほうは、どうです?」

「領民は未だ悲しみに暮れておりますが、だいぶ落ちついてきているようです。先日魔物が出現しましたが、以前と同じように単独行動のものでしたから、ザールの兵士たちで排除できる程度でした」

「そうですか。それならよかった」

 カイは身にまとう豪奢な衣装を傷付けないよう丁寧に脱ぐと、職人の手に渡した。席を外してくれとの意味を込めての事で、あらゆる意味で洗練された職人は、カイの意図を取り違える事な無く、静かに部屋を出て行った。

 ようやく緊張から解放された。カイは強張った体をほぐすように体を動かし、椅子に腰を下ろす。なぜ服を着るだけで緊張しなければならないのかと一瞬考えたが、虚しいだけなので考えるのをやめた。

「少しずつここでの生活に慣れきているようで、驚く回数は減っているんですけど、無意味に高級なものは、どうにも。ルスターさんもやっぱり、領主になったらああいう服着るんですか?」

 ルスターは即座に首を振った。

「とんでもない。着飾って見栄を張る事も領主の勤めとは思いますが、財政を傾けるほどの贅沢をしては本末転倒です。ザールはけして裕福ではありませんので」

 一地方の財政を揺らがせるほど高価な服を着せられていた事を知ったカイは、自然と声を震わせていた。

「そ、そうですか」

「はい」

 力強く肯くルスターに、居心地の悪さを感じたカイは、わざとらしく咳払いをする事で空気をごまかす。

 カイの態度の意味を正しく理解したルスターは、小さく微笑んだ後、話の方向を変えた。

「カイ様。あらためて申し上げます。先日はありがとうございました」

「なんの事です?」

 無意識に床まで下がっていた視線を引き上げ、カイはルスターに問いかけた。

「私に猶予を与えてくださった事です。このひと月、ザールで日々せわしなく過ごす中、多くの事に思考を巡らせる事ができました。そして、カイ様より賜った『時』が、どれほどありがたいものであったか、理解する事ができたのです」

 窓の外から吹き込む風が蜂蜜色の髪を揺らし、端整な顔を覆い隠す。風が止み、髪が元の位置に収まると、カイを真っ直ぐに見つめるルスターの瞳は、柔らかいものから真剣な眼差しへと変化していた。

「ひと月前の私は、ザールのためとは言え、カイ様をお守りする役目を志半ばで放棄する事を、心のどこかで悔いていたと思います。あのまま聖騎士を辞めていれば、悔いを抱いたまま生きていく事になっていたでしょう。ですが聖騎士のまま、ザールでひと月を過ごす内に、悔やむ必要はないのだと理解しました」

 ルスターの言葉は思いの外重く、カイはわずかに身を乗り出し、「俺は大した事をしていない」「はじめから悔いる必要はなかった」など、否定の言葉を紡ごうとした。だがルスターの視線には不思議な強制力があり、カイはひと言も発する事ができないまま、ルスターの次の言葉を待つ事となった。

「生も死も、私のこの先の運命はすべて、ザールと共にあるのでしょう。限られた力で、ザールを守って生きていく事でしょう。そしてザールは魔獣の脅威から王都を守り、大神殿を守るでしょう」

「うん」

「私はこれからも、カイ様をお守りします。おそばにある事は叶わなくとも」

 返すべき言葉は見つからなかった。心や思考の奥まで探しに行けば見つかったのかもしれないが、そうしてしまえば恥ずかしい事を言ってしまいそうで、照れ隠しに笑ったカイは、無言で肯いた。

 感謝の言葉は気恥ずかしいものだった。だが、けしてそれだけではない。優しく、温かく、カイを導いてくれるもので、カイは返事とは違った言葉を引きずり出し、ルスターに告げた。

「俺も、それでいいんでしょうか」

 ルスターは無言で待ってくれた。

「神の子として大陸を守れと言われても、やっぱりまだ受け入れ切れないんです。でも、ここから、故郷や、大切な人を、守れって言うなら。俺は、俺に与えられた、まだよく判らない力で――」

 父とも神とも慕った相手はすでに失われた。

 だが、まだ大切なものも、人も、この大陸には残っている。

 そしてこれからも会えるだろう。守りたいと願うものに、人に。すべてを諦めて故郷を発っても、リタと再会し、ルスターに出会えたのだから。

 そのために生きればいいのだろうか。たとえ、望む場所に居られなくても。

「カイ様の温かなお心を支える存在が、この先も増え続ける事を、ザールの地より祈っております」

 ルスターの手が、小さく震えるカイの手に重ねられる。

 力強いルスターの肯定は、他の何よりも優しい言葉となって、カイに降りそそいだ。

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