約束 6

 灯りは先頭の魔物にだけはかろうじて照らし出したが、その魔物が邪魔をして、後ろまではまったく届かなかった。ゆえに、魔物が何体いるのか目視する事はできなかったが、近付いてくるにつれて音が聞きとりやすくなり、おそらく3体であろうとの予測を立てる事ができるようになった。

 道が狭いのは幸いだ、とカイは思う。魔物が集団で現れても、1匹ずつしかかかってこられないからだ。戦いが続くにつれて体力が消耗していくのは避けられないが、それでも常に2対1の状況を保てるのは、圧倒的に有利だった。

「あのさ、効率よくやらない? さっきは1体だったから、そっちにばっかり負担かけるのも悪いかなあと思ったんだけど、今回はたぶん3体だし、次々片付けていかないとまずいでしょ」

 カイはしばし沈黙を守ってから肯いた。

「まあ、仕方ないな。君に俺の代わりはできても、俺に君の代わりはできない」

「ごめんね。よろしく」

 先陣を切った蟻が両前足を振り下ろす。後方に飛ぶ事で避けたカイとリタは、一瞬だけ目を合わせて肯きあうと、すぐさま地面を蹴り、左右から蟻の足を切り付けた。

 これまで戦った2体から想像するに、蟻に似た巨大な魔物の知能は、ほぼない。2手に分かれて向かってきたカイたちに、なんらか小細工で対抗してくる事はなく、足を振り上げて攻撃を仕掛けてくるのみだ。

 ふたりを一度に襲えば体勢を崩すとでも考えたのか、蟻はまずカイを狙って左前足を振り上げた。振り下ろされるよりも前にカイは身を滑らせ、蟻の体の下に入る。

 アシェルの街での戦いの時はどう倒せばよいか途方に暮れ、恐ろしい魔物だと思ったものだが、弱点が判りやすやすと剣が通じる今、対応できないほどの素早さを持っていないこの魔物を、さほど強敵とは思えなくなっていた。

 カイは深々と剣を埋め込むと、すぐに引き抜き、蟻の下から逃れる。

「リタ!」

 わずかの間に、リタは壁際に寄りながら蟻に近付いていた。苦痛に暴れる蟻の側面に回りこみ、剥き出しの手で蟻に触れようとする。直後、見えない力に跳ね飛ばされた蟻は、溝の底、闇の奥深くへと消えていった。

 跳ねる水音に耳を傾ける余裕も、底を悠長に眺める余裕もない。出番を待っていた2番目の巨大蟻が、間髪入れずカイたちを襲った。

 何体現れようと、カイがやる事は同じだった。蟻の体の下に潜り込み、あるいはリタに蟻の体をひっくり返してもらい、比較的柔らかな皮膚に剣をつきたてる。それだけだ。カイは体勢を立て直しながらひとつ深呼吸をし、剣を構えて2体目につき進む。

 柄が少しぬめりを帯びていた。できるだけ被らないように気を付けてはいた魔物の体液が、手に絡みついたのだ。滑らせないように気を付けねばならないと、柄を握る手に力を込める。

 魔物は壁際に立つリタを食らおうとしているのか、大きく口を開けて噛みつこうとした。リタが素早く身を屈めると、鋭い歯は壁に食らいつき、岩を砕いた。

「っ……!」

 弾けた小石が瞼を掠め、右目の視界が突然ぼやける。不安定な視界が気味悪く、カイは思い切って右目を閉じ、左目だけに頼る事にした。

 リタを逃した蟻が砕けた岩を吐き出しながら不満そうに振り返り、新たな標的であるカイを捕らえる。振り下ろされた前足を上手く避けられず、カイは地面を転がった。つい先ほどまでカイが立っていた場所が綺麗に抉れ、砕けて小石になった岩が周囲に散らばった。

「カイ!?」

「大丈夫!」

 少々距離感が掴み辛いが、慣れれば大きな問題はない。魔物を自分のほうに引きつけ、隙を突いて体の下に滑り込むくらいならば、なんとでもなる。

 再度向けられた足を剣で払い、カイは2体目の蟻の下に潜り込んだ。

 先ほどと同じように素早く狙いを定められれば問題なかった。しかし、距離感が掴み辛い片目では、やや薄くなっている皮膚を探し出し、剣の切っ先を向けるまでに、少々手間取ってしまう。その時間の浪費が、カイの明暗を分けた。

 カイが狙いを定めるよりも、巨大蟻が身を沈めはじめる方が早かった。硬い皮膚が、カイを押し潰そうと迫ってくる。

 瞬時に剣を持ち変え、切っ先を地面に埋めた。それから地面を這うように頭を下げつつ、予備に持っていた短剣を引き抜く。

 人の何倍もの重みがあろう魔物の体だったが、地面に辿り着く前に、突き立てられた剣の抵抗を受けた。剣は刃を軋ませ、折れるまでのわずかの間、支えとなってカイを守ってくれる。その間に、カイは短剣を魔物の体に埋め込んだ。

 刃の長さの分、長剣を埋め込んだ時より傷は浅いはずで、おそらく致命傷には至っていないが、魔物に苦痛を与えるには充分だったらしい。魔物は奇声を洞窟内に響かせながら、その巨体を浮遊させた。

 もちろんリタの力だった。カイが魔物に潰されるよりも一瞬早く、力を使ってくれたのだ。2体目は1体目と同じように溝の底へと姿を消し、最後の1体がカイとリタの前に現れた。

「後で新しいの買って返すから、剣貸してくれ!」

 リタの視線が折れた剣に向けられた。見るも無残なその姿に、一瞬表情を強張らせたが、怯むほどに弱い娘ではなかった。

「大丈夫なの? 3体目だし、あたし、代わるよ?」

「いい!」

 意地と言うよりは、もはやただのわがまま侭だったが、リタは受け入れてくれた。カイが手を伸ばすと、快く剣を差し出してくれる。

 剣は使い慣れたものよりも細く、軽い。自分とリタの腕力の差を考えれば当然なのだろう。やはり彼女は、謎の力さえなければ、普通の少女なのでは――

 馬鹿な事を考えた。カイは自身に反省を促し、余計な考えを振り切って、巨大蟻に対峙する。

 魔物の低い唸り声が空気を振動させた。仲間が次々と葬られた事を怒っているのかもしれないし、脅威となる相手を威嚇しているだけかもしれなかった。

 地面を蹴り、魔物の攻撃を軽い足取りで避けながら、距離を詰める。2体の魔物と戦ううちに息が乱れていたが、不思議と疲労はあまり感じなかった。

 体力的な面での問題はない。右目の視力も回復しつつある。もはや、負ける気はしなかった。今までと同じように繰り返せば、勝利は決まりだ。

 今度は危なげもなく、カイが魔物の皮膚を抉る。続いてリタが力を発動すると、魔物の巨体が通路からすべて消え失せた。

 カイは安堵の息を吐きながら、その場に座り込んだ。

「お疲れ」

「おう」

 リタの声に軽く手を上げて応えるが、それ以上の動作や言葉で返すは億劫だった。リタも判ってくれているようで、それ以上カイに話しかけようとせず、溝の淵に歩み寄って暗い底を眺めた。表情は静かだが、引き結ばれた唇に勝利の喜びが見える。

 カイは深呼吸を繰り返し、乱れた呼吸と心臓の音を落ち着ける。正常にある程度近付いてから、少女の背中に声をかけた。

「剣、悪かった。新しいの買って返す」

 悪臭を放つ魔物の体液に汚れた剣を掲げ、カイは言う。

「いいよ別に。ちゃんと洗えば問題ないでしょ。こんな仕事してるんだから、剣が魔物の血で汚れるのはむしろ勲章だし。それより自分の剣の事考えなよ」

 できれば忘れていたかった事実を目の前に突き付けられ、カイは無残な姿となった愛用の剣に目を向けた。

 特別な一品と言うわけではないが、数年間仕事を共にしてきた相棒であったので、それなりに思い入れがある。しかも、魔物狩りとして仕事をはじめる際に父がくれたものであった。父の本音がどうであったかはともかく、一人前として認められた証のようで、誇らしく思ったものだ。

「親父に怒られるかな」

 ひとりごちてから、それはないなとすぐに思い直し、カイは小さく笑う。仕事道具を大事にするようにカイに教えてくれたのは父だが、「受けた仕事を果たし、自分の命を守る」事を最優先に考えるよう教えてくれたのも、また父であったのだから。

「とりあえず今日は探索をここまでにして、アシェルに戻ろうか。新しい相棒に相応しい剣がアシェルにあるか判らないけど、あたしのよりは手に馴染むのがあるだろうし、あたしだって剣が無いと心細いしね」

「そうだな。何より、休みたい。こつを掴んだとは言え、連戦はきつい」

「だろうね。お疲れ様」

 リタがくるりと体ごと向き直って微笑んだ。

 短い金の髪が軽く浮き上がり、白い頬を掠めながら元の居場所に戻ろうとするのと同時に、浮かせていた片足を地に着ける。

 深くから聴き慣れた魔物の奇声が届くと共に、地面が大きく揺れたのは、その瞬間だった。

「っ……!」

 足を踏み外して後方へ大きく体勢を崩したリタが、悲鳴の代わりに吐息を漏らす。

「リタ!」

 体が投げ出され、足場を失ったリタは、闇へと繋がる大きな口に飲み込まれかける。しかし死に腕を伸ばし、右手の指を淵に引っ掛けた。

 細い片腕では体を支えきれない。指が小刻みに震え、今にも離れてしまいそうだった。指の力が保てるうちにもう一方の手でどこかに捕まろうと手を伸ばしているが、あと少しというところで届かない。

「リタ!」

 疲労を忘れて駆け寄ったカイはリタに手を差し伸べた。

「だ……」

 大きな瞳に悲痛な色を浮かべながら、何かを言おうと口を開いたリタだったが、溝深くで暴れる魔物が体当たりをしたのか、再びあたりが大きく揺れると、必死に掴んでいた指を滑らせた。

 いつも強気な表情を浮かべる可愛らしい顔が、深さも、広さも、他にどんな生き物が存在するかも、何ひとつ判らない地下深くに落とされる恐怖に、ゆっくりと歪んでいく。

 カイは何も考えられず、落ちていくリタを救おうと、腕を伸ばしていた。

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