二章 約束

約束 1

 大きく振り下ろした剣は、虚しく風を切るばかりであった。

 勢い余って剣先が地面を抉る。体制を立て直す際に、まだ若い芝と土が飛び跳ねた。数瞬遅れて濃い緑の香りが鼻先に漂いだした頃、カイが使うものよりもいくぶん細い剣が、構えなおしたばかりのカイの剣を打った。

 耳につく金属音があたりに鳴り響き、カイは眉を顰める。

 不愉快に思ったのはカイだけではなかった。細身の剣の主であるリタも、眉間に皺を寄せている。

「はっ!」

 リタが気合を込めて突き出した一撃を、カイは紙一重でかわす。剣が起こしたわずかな風に、頬を撫でられた。

 咄嗟に剣を手放し、目の前に迫った腕を掴んだ。リタが振りほどこうと力を込めるが、それよりもやや早く腕を引き寄せ、体勢を崩させた。もう片方の手で押さえつけようとして――触れかけた場所は剥き出しの肩だった。

 触ってはいけない、と考えた瞬間、動きが止まった。止める事が精一杯で、別の動きに切り替える事はできなかった。

 そうしてできあがった隙を、見逃してくれるリタではない。

 リタは腕を掴まれているせいで自由のきかない体をできるかぎり屈め、カイを蹴り上げる。裏が硬く加工された靴は腹部に抉るように埋まり、カイはうめき声をもらしてその場に膝を着いた。もちろん、リタの腕は手放してしまっている。

 リタは手にした剣を大げさに回した後、切っ先をカイの喉元に突きつけた。

「これで一勝一敗」

「……何となく、卑怯な気がするんだが」

「こっちは非力でか弱い女の子なんだから、持てる武器は全部使わなきゃ勝てないでしょ。そーゆーのは、卑怯とは言わないよ」

「持てる武器全部使ったら、君のほうが確実に俺より強いじゃないか」

 とは言え、負けは負けだった。素直に認めようと、カイが両手を上げ、降参を示す。

 リタは得意げに笑って剣を鞘に収めた後、近くに落ちていたカイの剣を拾ってくれた。親切ではない事は、笑顔から判る。自身の勝利――つまりはカイの敗北――を、ありありと誇示するためだ。

 悔しくはあったが、不思議と腹は立たなかった。カイは苦笑いを浮かべつつ、剣をしまう。

「少し休憩する?」

「内臓が落ちつくくらいまでは、お願いしたいな。さっきの、食後だったら吐いてたぞ」

「じゃ、けっこう長く休めるかな。かなり上手く入ったと思うし」

 リタは悪びれなくそう言って、カイの隣に腰を下ろす。反論もできず、カイも足を放り出して体を休ませた。

 中天に上がった太陽が落とす暖かな光が、汗ばんだ体をほどよく冷やすゆるやかな風と共に、心地よい時間をふたりに与えてくれた。耳を澄ませば鳥の声も聞こえ、たびたび魔物が現れるとの現実を忘れてしまえば、平和にしか思えない。

 実際魔物も、一昨日以来姿を見せなかった。一昨日のものはふたりで倒したし、最初に出たという魔物も、街の兵士たちが多くの犠牲を出しながらなんとか倒したらしい。「もともと魔物が出るはずのない地域で2体も倒せば、もう出ないのではないか」との意見もあったのだが、念のためもう少し様子を見たいと懇願され、まだアシェルに残っている。

 彼らの不安は判らないでもないし、宿や食事の世話は万全、魔物が出なくてもいくらかの報酬を出してくれるという条件ならば、断る理由はなかった。魔物を倒すとの仕事を果たしてあるとは言え、せっかく呼ばれてきたのに次の日に帰るというのも、なんとなくもったいないような気がしたのも手伝って。

 何もしないと体が鈍って嫌だと頼まれてリタと手合わせをするのも、なかなか楽しかった。カイの稽古の相手と言えばジークかトルベッタの兵士たちなのだが、リタは彼らとは違う戦い方をするのだ。

 しかし、昨日カイに負けた事を根にもっている様子なのは、さすがに参った。例の力を発揮させないよう気を使いながら戦うのは面倒で、精神的に疲労するのだが、彼女はそれを逆手に取るように、昨日より露出を増やしてきたのだ。目のやり場に困るほどではないのが、せめてもの救いだろうか。

「暇だなぁ……」

 リタは突然呟いたかと思うと、体を思い切り伸ばして芝の上に転がった。柔らかい若草に受け止められて、気持ち良さそうに目を伏せる。

「確かに、暇だが」

 同意して、カイも草の上に横になった。逆流しそうだった胃は落ち着きを見せはじめたが、蹴られた所に手を重ねると、僅かに痛みが走る。酷い痣になるのを覚悟しなければならないようだ。

「暇だと思うなら、居残りを頼まれても断ればよかったんじゃないか? アシェル以上に魔物に困ってる地域は、いくらかある」

「知ってるよ、そのくらい。あたしはもともとそーゆーとこをうろうろして生きてきたんだから」

「どのあたりで仕事してたんだ?」

「東の方だよ。ネラウとかバウェロとか、そのへん。トルベッタとは正反対だね」

 リタは寝転がったまま、指で空中に大まかな大陸の形をなぞり、大陸の東側を指し示した。確かに、大陸の北西部に位置するトルベッタとはほぼ間逆の位置だ。

「東より西の方が魔物の出現するところが多いって聞いたから、稼げるかと思って西に向かってた途中、ここでサーシャさんに捕まったってわけ。噂話で腕のいい魔物狩りがトルベッタに居るって聞かされまくってちょっと挫けかけていた所だから、ついつい引き受けちゃった」

「ジークの事か?」

「もちろん。でもまあ、噂だし、自分の目で見てない事で落ち込むのはやめようと思った矢先に、あんたが現れた。噂にも聞いた事のない、ジークの息子」

「悪かったな。現地ではそれなりに評価されてるんだよ、これでも」

「うん、だと思う。それだけの腕を持って東に行けば、結構もてはやされると思うよ。ま、あっちだと、魔物狩りの需要があんまりないから、衛兵とかに誘われるかもだけど」

「君だってそうだろう」と言いかけて、カイは口を噤んだ。

 例の力は、リタがまっとうな職に就く事を邪魔するだろう。その力を含めれば、ほとんどの兵士より強い事が明らかでも。

「無名のジークの息子でこれだもんなあ。ジークに張り合うのは、やめた方が良さそう。もう少し南の方に行くしかないかあ」

「トルベッタ以外も、西は魔物だらけだ。俺たち魔物狩りには、いくらでも仕事がある――喜んでいい事ではないんだろうが」

 そうだね、と短く答えて、リタは静かになった。眠ってしまったのだろうかといぶかしみ、顔をリタの方へ向けてみると、空色の瞳はまっすぐ、同じ色を見上げていた。

 凛とした横顔は、可愛らしいだけでなく、美しいと思えた。見つめる先に何があるのだろうと、興味を抱かせる力があった。青空か、雲か、あるいはエイドルードを探しているのか。

 いや、それだけはないか。カイは勝手に結論付けた。エイドルードを神と崇める者が、魔物狩りなどをやるわけがないだろうと考えたからだ。生まれながらに持つ得体の知れない力と言う、運命的なものに翻弄されながら生きてきた彼女ならば、尚更。

「何か困った事があったら、トルベッタに来るといい」

 カイは上体を起こしながら言った。

「なんで?」

「俺が居るから。たいして力にはなれないかもしれないけど、飯食わせてやったり、休む場所を与えてやったり、代わりに魔物と戦ってやったり、話を聞いてやるくらいは、できると思う」

 トルベッタにはエイドルードなる神は居ない。カイはエイドルードの救いを知らない。

 けれど、人の手の強さと優しさを知っている。それに支えられて、今まで生きて来られたのだと、漠然と理解している。

 だから彼女にも、人の救いがあればいいと思った。もしかしたら東に残してきているのかもしれないが、多くて困るものでもないのだから。

「何、それ。もしかして、あたし口説かれてる?」

「い……いやっ!」

 予想外の切り返しを、カイは咄嗟に否定した。どもってしまった所が余裕のなさに見えたのか、それともはじめからからかうつもりだったのか、リタは楽しそうに笑い声をもらす。

「そんなに慌てなくても、判ってるって。あたしの力の事知ってから口説いてくる男なんて、今まで居なかったし。触れられない女なんか恋人にしても、嬉しくないもんね」

「いや、そんな、事は」

「『無い』って心から思うほどあんた無欲じゃないでしょ。そんでもって、『無い』ってさりげなく言えるほど、嘘が上手くもない。無理しないほうがいいよ」

 声音は優しかったが、強い力が伝わってきた。

 それは得体の知れない力とはまた別の、彼女が持つ力だった。幼い時に多くを失い、謎の力のせいでありきたりの普通を生きる事が許されなかった彼女が、生きるために得た力。

 勝てないな、とカイは思った。何に勝ち、何に負けるのか、問われたところで上手く答えられる気がしなかったが、とにかく今の自分ではこの少女にはけして勝てないと、はっきりと悟った。先ほどくらった蹴りとは違い、素直に認められる敗北である事が唯一の救いかもしれない。

「俺も旅に出たほうが良いのかもな」

 それだけでリタに追いつけるとは思っていなかったが、前進への願いを込めてぽつりと呟くと、リタがこちらを見た気配がした。

「なんならあたしと一緒に来る? たいして力にはなれないけど、ご飯食べさせてあげたり話を聞いてあげるくらいはできるよ?」

「……からかうなよ」

「ごめんごめん」

 リタは立ち上がり、体についた土や草を払いのけた。

 真っ直ぐに立ち、陽の光の下に立つ彼女の表情は、カイの位置からは逆光で見えそうにない。偶然なのか、彼女が意図的に隠そうとしているのかは判らなかったが、カイは彼女の感情を覗く事を諦め、俯いた。少しだけ地面が近くなり、土の香りが胸に広がった。

「でもね、あたし、けっこう本気で――」

「カイさん! リタさん!」

 しばし間を開けて再び紡がれたリタの声を、より大きな声でかき消したのはセウルだった。どこから見ても慌てた様子で、急いで庭まで駆けつけてきたのだろう、肩で激しく呼吸をしている。

「どうしました?」

「ちょっと……来ていただけますか」

「魔物が?」

「いえ、街に出たわけではないのですが……聞いていただきたい情報が入りましたので」

 カイがリタに視線を送ると、リタもちょうどカイを見たところだった。一瞬視線を交錯させ、ほぼ同時に肯くと、セウルに歩み寄る。

 セウルの息はまだ整っていなかったが、歩く事が不可能なほど疲れているわけではないようで、すぐにふたりを先導して歩きはじめた。

「そういえば、さっき、なんて言おうとしていたんだ?」

「さっき?」

「『本気で』の後」

 リタは数秒目を逸らしてから答えた。

「別に、たいした事じゃないから、いいよ」

 それきりリタは唇を硬く引き締め、黙ってセウルの後を追う。

 リタの態度が気になりつつ、これはもう聞いても無駄だと早々に悟ったカイも、黙ってついていった。

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